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作者: 月ノ瀬 静流
残酷な描写あり
3.揺り籠にまどろむ螺旋-3
 ハオリュウは耳を疑った。

 カイウォルは、今、なんと言ったのか――。

「殿、下……?」

 恐ろしいものを見る目で、ハオリュウは自分の正面に座る麗人を見つめる。

 の人は、優しく促すかのように、わずかに首を傾けていた。直線的ではない眼差しの柔らかさに、ハオリュウはどきりとする。

 惹き込まれる前に視線をそらさねば――とっさにそう思うが、そのときには目が離せない。

「驚かせてしまいましたか。……君の気持ちも考えず、配慮が足りませんでしたね」

 自分の至らなさを恥じるように、カイウォルは微笑む。

「……っ」

 気遣う素振りなど、演技に決まっている。突然の爆弾発言は、作為的なものだ。カイウォルは、相手から冷静な判断力を奪うことで、自分に有利なように話を運ぼうとしている。――そう分かっていても、ハオリュウの心臓は早鐘のように鳴り続けた。

 血の気の失せた彼の顔に、満足したのだろうか。カイウォルはふっと目をそらす。

 視線から解放され、ハオリュウの体から、どっと汗が吹き出した。ほんのわずかな時間だったにも関わらず、長い間、捕らわれていたような気がしてならなかった。

 そんなハオリュウの様子を知ってか知らでか、カイウォルは静かな眼差しで硝子ケースを見つめながら、独りごつように告げる。

「この『ライシェン』を作ったことで、女王陛下の『〈神の御子〉を産む』という使命に目処が立ちました。『ライシェン』の体はまだ未熟な胎児ですが、もう少し成長させたのちに凍結保存して、時期を選んで女王陛下の御子として『誕生』させます」

 そこでカイウォルは言葉を切り、自嘲めいた笑みを浮かべた。ハオリュウは不審に思い、眉をひそめる。

「私は、これで解決したと思いました。これでもう、妹を悩ませるものはなくなった、と。……浅はかな自己満足です」

 美麗な眉が寄せられ、ハオリュウから見える横顔が苦悩に歪む。

「しかし、妹は――アイリーは涙ながらに言いました。『実の兄と結婚なんて、嫌。……ううん、ヤンイェンが異母兄だからではなくて、好きな人ではないから嫌なの』」

 カイウォルは嗤いをこらえるように口角を上げた。そして再び、ハオリュウと向き合う。

「女王として、あってはならない発言です。そんな我儘が許されるような立場ではありません。勿論、私はお諌め申し上げました」

 低く、くつくつと喉を響かせ、カイウォルは小刻みに肩を震わせる。

「アイリーは『好きな人』などと口にしましたが、実際に誰かい仲の者がいるわけではありません。あの子に近づける人間など、ごくわずかな限られた者だけですから、いれば私には分かります。――あの子は、ただの夢見る少女です。女王陛下などと呼ばれていても、そのへんの町娘と変わらない、どこにでもいるひとりの小娘なのです」

 嗤いながら、カイウォルは切なげに目を細めた。頭を振り、胸のつかえを吐き出すように呟く。

「そして私は――、そんな妹を不憫に思ってしまった……。……愚かな兄です」

「……」

 ハオリュウは、沈黙することしかできなかった。

 そもそも彼は、カイウォルという人間が嫌いなのである。そんな相手の嘆きを聞かされたところで、何を感じればよいのだ、という疑問しか浮かばない。

 ただ、ハオリュウだって血の通った人の子であるので、女王の境遇には同情はしている。実の兄との結婚が嫌だというのは、もっともな感情だろう。そこは否定しない。

 だが、カイウォルはこう言ったのだ。

『ハオリュウ君。ヤンイェンではなく、君が『女王陛下の婚約者』になりませんか?』

 ここで何故、ハオリュウにお鉢が回ってくるのか。藤咲家の当主とはいえ、彼はまだ結婚などとはほど遠い、たった十二歳の子供だ。どう考えたって、陰謀の匂いしかしない。

「殿下。お苦しい胸中、お察し申し上げます」

 ハオリュウはまず、深々と頭を下げた。内心はさておき、臣下としての礼儀だ。

「ですが、何故、私などにお声を掛けてくださるのですか。大変な名誉とは思いますが、私は女王陛下よりも三歳も年下の若輩者。家督を継いだばかりの若造です。どう考えても、女王陛下にふさわしいとは思えません。女王陛下にはもっとお似合いの殿方と幸せになっていただきたいと思います」

 女王の婚約者に、と言われて、まず初めに疑問に思ったのが年齢のことだったが、他にもおかしなことがある。藤咲家という家柄に問題はないが、彼の母親はカイウォルが卑下している平民バイスアだ。『不憫な妹』を託すような相手ではないだろう。

 だいたい、女王は実の兄との結婚が嫌だというだけではなくて、普通の娘のように恋愛をしたいと言っているのだ。彼女が望んでいるのは、これから、まだ顔も知らない理想の男性と出逢い、恋に落ちることだ。

 そう、例えば、異母姉メイシアのように――。

 今回の作戦のために、ハオリュウは久しぶりにメイシアに会った。ルイフォンの溺愛ぶりは相変わらずだったが、異母姉のほうもなかなか大胆になったように思う。異母弟としては複雑だが、彼女が幸せであることは間違いない。

「ハオリュウ君。君なら、アイリーの気持ちが分かるのではないですか?」

 カイウォルの声に、ハオリュウの思考は遮られた。

 しかも、またわけの分からないことを言ってくる。ハオリュウは鼻白みながらも、それを顔に出さず、丁重に答える。

「殿下は何故、そのようなことをおっしゃるのでしょうか。私はまだ子供です。女性の気持ちを察して差し上げられるような、大人ではございません」

「そんなことはないでしょう?」

 柔らかな声が誘い込むように紡がれ、カイウォルが微笑む。

 燦然と輝く太陽のような、まばゆいばかりの美貌。冷たく光る黒い瞳が、ハオリュウを捕らえる。

 深い黒があぎとを開ける……。

「君は――、君の姉君に……何をしましたか?」

「――――え……」

 心臓が凍りついた。

 大切な異母姉は、汚い貴族シャトーアの世界からは消えたはずだ。

 それなのに何故、カイウォルが口にする……?

「君の姉君――メイシア嬢は、平民バイスアの、それも凶賊ダリジィンの男に恋をしました。決して許されぬ相手と知りながら、その男と添い遂げたいと願いました……」

 囁くように、歌うように、さえずるように……、カイウォルが異母姉の想いをなぞる。

「君と、君の姉君は、異母姉弟なのに深い絆で結ばれていました。私にも異母兄弟はたくさんおりますが、君たちのように仲は良くありません。君たちは不思議で、羨ましい。――そんな君が、大切な姉君の想いを知ったなら……どうするかなんて分かりきったことですよね」

 くすりと、カイウォルが嗤った。

 そして、ハオリュウは悟った。



 カイウォルは、メイシアが生きていることを知っている――!



 目の前が真っ黒になった。

 異母姉は、貴族シャトーアという籠から逃したはずだ。すべての権利を失い、代わりに自由を得た。

 たとえ生きていたことが知られても、『死者』である彼女には、なんの政治的利用価値もない。そうするために、わざわざ『殺した』のだ。

 なのに何故、ここで彼女のことを口にする?

 異母姉をどうする気だ――!?

 ハオリュウの肌が粟立った。こごえるような恐怖に身を震わせる。だがしかし、腹の底からは、たぎるような怒りが噴き出してもいた。相反する熱を内包し、ハオリュウから表情が消えていく。

 首筋がちくちくした。襟の裏が振動している。ルイフォンが合図を送っている。しっかりしろと言っている。それは分かった。分かったが、だから、なんだというのだろう?

 ハオリュウの最も弱い部分がむき出しにされた。

 心が闇に捕らわれる。

 ――そのとき。

 とん……、と。

 背後から、ハオリュウの肩に重みが掛かった。

 初めは単に、何かを載せられた、という程度のものであった。それが突然、強い力で鷲掴みにされた。

「!」

 シュアンの手だ。

 彼の手でありながら、ハオリュウの手にもなってくれると約束してくれた、『一発の弾丸の重さ』を知る手。服越しには分かるはずのないグリップだこまで、はっきりと感じられる。

 背後の気配が揺れた。

 車椅子の後ろにいるシュアンが、腰をかがめたのだ。そして、ハオリュウの耳元でそっと囁く。

「ハオリュウ様」

 それだけだ。

 ただ名前を呼ばれただけ。なのに、彼の声がハオリュウの弱い心を撃ち抜いた。

 ハオリュウの肩が、びくりと跳ねる。シュアンはそれを確認すると、さっと前に歩み出て、カイウォルに向かってひざまずき、「カイウォル摂政殿下」と声を上げた。

「私のような者が大切なお話に割り込むこと、深くお詫び申し上げます」

 シュアンは、額を床にこすりつけ、その姿勢でぴたりと動きを止める。

「私への処罰は幾らでもお受けいたします。ですから、どうか主人にはとがのなきよう、恩情をお願い申し上げます」

 チンピラ警察隊員から、切れ者の従者に変わったのは、外見だけではなかった。今のシュアンは、必死に主人を守ろうとする腹心の部下そのものだった。

 ハオリュウは、信じられない思いで、シュアンの背中を見つめる。

「――殿下。なにとぞ、お聞きください」

 床につけた顔を更に押し付けるようにして、シュアンは声を張り上げる。

「叶わぬ恋に絶望したメイシア様は、旅先の渓谷で――ハオリュウ様の目の前で、身を投げられました。ハオリュウ様がお止めする間もなく、あっという間の出来ごとでした。……ハオリュウ様は、あのときメイシア様をお助けできなかったことを深く後悔されています。それで、今もメイシア様のことを思い出されると、ご気分が悪くなってしまわれるのです」

 そう言われて、ハオリュウは思い出す。

 父と異母姉の死因は、家族水入らずの旅行で森林浴に行った際に、道に迷って渓谷に落ちた――というものだ。だが、これにはもっと詳細な設定がある。

 警察隊が鷹刀一族の屋敷に押し入ったとき、事態を収拾するために、異母姉は大勢の前でルイフォンに口づけ、彼と恋仲であると宣言した。この件に関して、ハオリュウは無駄とは思いつつ、内密にするよう警察隊に圧力をかけた。

 だが、人の口に戸は立てられぬ。いずれ噂は広まるだろう。

 ならばと思い、ハオリュウはこの事実をもとに、もっともらしい筋書きを作り上げたのだ。

 すなわち――。

 身分違いのメイシアの恋は、結局、無理やりに引き裂かれ、終止符を打たれた。

 その後、傷心のメイシアを元気づけるために、家族だけの旅行が計画される。しかし、それが更に彼女を傷つけ、彼女は旅行の最中に身を投げた。

 その上、彼女を探そうとした父親も谷に落ちて亡くなり、ハオリュウは大怪我を負った――。

 勿論、藤咲家としては、この醜聞は必死に隠している、という態度を取る。

 しかし、こういった身分違いの悲恋の噂は、民衆にたいそう好まれ、まことしやかに語られながら広まっていく。そのうちに誰もが、メイシアは本当に亡くなったのだと信じ込む――という策だ。

 ――動揺を見せるな。嘘をつき通せ。

 シュアンの背中が、ハオリュウを叱りつける。

 伏せられた顔は、誰にも見ることはできない。だが、一国の摂政を前にしても臆することなく、厚顔に嗤っているのが、ハオリュウには見えた。

 ――しらばっくれろ。

 軽い調子の声が聞こえ、薄ら笑いの吐息を感じる。

 ――シュアン……!

 ハオリュウは心の中で応える。

 ――ありがとうございます……。

「殿下、お見苦しいところをお見せして申し訳ございませんでした。この者の言う通り、異母姉のことを思い出すのは、まだ辛いのです」

 ハオリュウもまた、カイウォルに頭を下げる。

 カイウォルは軽い笑みを浮かべると、緩やかに首を振った。

「いえ。私のほうこそ、無神経なことを言ってしまったようです。姉君を大切にしている君なら、女性の気持ちを理解できると思ったもので、つい……どうか、ご勘弁ください。――ああ、そこの彼も顔を上げてください」

 拍子抜けするほど、あっさりとカイウォルは引いた。

 シュアンが驚いたように体をぴくりと震わせたがのが分かったが、ハオリュウにはなんとなく読める。

 カイウォルにしてみれば、『メイシアが生きていることを知っている』と匂わせるだけで、充分に脅しになるのだ。彼女に危害を加えられたくなければ従え――そういうことだろう。

「忠臣ですね。良い従者をお持ちです」

 遠慮がちにおもてを上げるシュアンを見やり、カイウォルが呟く。その言葉は、ハオリュウには『彼に救われましたね』と聞こえた。

 単なる嫌味だが、まったくもってその通りだ。ただし、シュアンは従者ではなく、大切な同志である。

「さて、ハオリュウ君。話を戻しましょうか。――君をアイリーの婚約者に、という話です」

 カイウォルは、再び正面からハオリュウを見つめる。

「兄としては、あの子が望むように、あの子が夢見る運命の相手と出逢って、そして結ばれてほしいと思います。――ですが、あの子の結婚まで、もう時間がありません」

 ハオリュウは頷く。

 婚約の発表はとっくに済んでいる。このあと婚約の儀が執り行われ、ヤンイェンは正式に婚約者となる。そのころには、結婚式の日取りも決まっていることだろう。

「だから、あなたに婚約者になってもらいたいのです」

「どういうことでしょうか?」

 ハオリュウは眉を寄せる。

 既に、女王とヤンイェンとの婚約が発表されているにも関わらず、『ハオリュウを婚約者に』というのは、要するにヤンイェンを失脚させようという陰謀の誘いに他ならない。

 だが、何故、ハオリュウなのだ?

 意図が読めない。

 しかし、カイウォルは自分の正しさを確信しているようで、余裕の笑みを浮かべた。

「君自身が言ったでしょう? 君はまだ若い、と。ええ、そうですね。法的にも、常識的にも、君の歳で結婚などあり得ないでしょう。――だから、です」

「?」

「君がアイリーの婚約者になれば、あの子が結婚するのは六年先。だから、少なくとも、あと四年は、具体的な準備には入らないでしょう。その時間が、あの子が真の相手を見つけるための猶予となります」

「!」

「あの子が願う通りに相愛の相手と結ばれたときには、君には申し訳ないですが婚約は破棄します。その際、君に不利なことは、いっさいないと約束しましょう」

「……」

「逆に、あの子の望みが叶わなかった場合には、潔く君と結婚してもらいます。そのときには、あの子も女王という立場に自覚があるでしょう」

「……」

「女王陛下の結婚を延期にできるほどに歳が若く、道理をわきまえていて、家柄も申し分ない。そんな人物など、君をおいて他にいません。――若いだけなら幾らでもいるでしょうが、あの子が相手を見つけられなかった場合に、私の義弟となってもよいと思える者はそうそういないのです」

「……」

「君が平民バイスアの血を引いていても問題ありません。相手が誰であっても、女王陛下は『ライシェン』を産むのですから。むしろ、君が女王陛下の夫となれば、国民は諸手もろてを挙げて喜ぶでしょう。君は平民バイスアに人気がありますからね」

 言いたい放題だ。

 だが、破綻はない。荒唐無稽に思えた話が、実に理に適っているように聞こえる。それが恐ろしい。

 感情が顔に出てしまったのだろう。カイウォルが口の端を上げた。

「ご不快でしたか? ですが、君を手に入れたいのなら、上辺を取り繕うよりも、率直な気持ちを伝えたほうが、よほど効果的でしょう? そのほうが君は安心する。君はそういう人間です」

「殿下……」

「『女王陛下の婚約者』という地位は、君にとって魅力的ではありませんか? ……確かに君は、権力に執着するタイプではありませんね。ですが、君が断れば、藤咲家に害をす者が『女王陛下の婚約者』になるかもしれませんよ」

 カイウォルは、冷ややかに嗤った。

 口では妹のため、と言っているが、今まで摂政として国を治めてきた彼に、野心がないわけはないだろう。妹の我儘を口実に、うまいことヤンイェンを排除しよう、というあたりが本心ではなかろうか。

 王族フェイラのヤンイェンだからこそ、カイウォルのライバルとなり得る。ハオリュウのような、ただの貴族シャトーアが女王の婚約者――ひいては夫となるのなら、後ろ盾を買って出ることで、カイウォルは権力を保てる。

 そして、ハオリュウが邪魔になったときには、暗殺という手段だってある。

『ライシェン』さえ生まれていれば、女王の夫に用はないのだから……。

 ハオリュウは、ぶるりと体を震わせた。

〈七つの大罪〉と王家の関係、そして『ライシェン』の存在――重大な秘密を知ったハオリュウを、カイウォルが解放するだろうか。

 この館に呼ばれたこと自体が罠だったのだ。

 かといって、臣下の立場のハオリュウが、会食の誘いを断れるはずもない。初めから詰んでいた。

「返事は急ぎません。大事な話ですから、よく考えてほしいと思います」

 すっと寄り添うように、カイウォルが囁く。

 寛容に見せかけて、その実、圧を掛けている。

「話が長くなってしまいました。そろそろ食事にしましょう。王宮のシェフを連れてきましたから期待していてください」

 そして、この研究室でされるべき話は終わり、一同は地下をあとにする。

 去り際、ハオリュウはふと後ろを振り返った。車椅子の背越しに見える、『ライシェン』――白金の産毛をゆらゆらと漂わせ、培養液の中で眠る胎児。

 天空神の姿を写し取った彼は、天から贈られたのではなく、穢れた地上の陰謀と欲望によって作り出された。

 彼は『人』なのか、『もの』なのか。

 未熟な体はグロテスクでもあり、哀れでもある。彼にどんな感情をいだくべきなのか、ハオリュウには分からない。

 ただ、ひとつ、言えるのは……。



 ――これは『命に対する冒涜』だ。

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