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作者: 月ノ瀬 静流
残酷な描写あり
2.ひずんだ音色-1
「お父様……!」

 扉を叩くことすらも忘れ、メイシアは客間に飛び込んだ。肩で息をしながら、黒曜石の瞳が白いベッドを求める。

「あぁ……」

 彼女の口から、かすれた声が漏れた。

 父だ……。

 半身を起こした姿で、目を丸くして彼女を見つめている。その目は落ち窪み、白髪も増えていたけれど、確かに父、コウレンだった。

「メイシア、か……」

 呟くような声が聞こえると同時に、メイシアは父のもとへと駆け寄った。

「お父様、よかっ……」

 あふれてきた涙を拭うよりも先に、彼女は崩れ落ちた。間近で見ると、父の老け込みようがよりはっきりと分かる。締め付けられるように心が痛んだが、それでも無事であることが、何よりも彼女は嬉しかった。

 暖かな光が満ちる。レースのカーテンが程よく陽射しを透かし、柔らかな空間を作り出す。くつろぎと癒やしをいざなううベッドは輝くように白く、鼻先のシーツからは優しい石鹸と太陽の香りが漂っていた。

「姉様、落ち着いて」

 ハオリュウがメイシアの手を引き、椅子に座らせた。ずっと父のそばについていてくれた異母弟は、だいぶ疲れた顔をしていたが、とてもにこやかに笑っていた。

 父がいて、異母弟がいる。数日前には当たり前だった光景が、メイシアの胸を震わせる。

「ほら、姉様」と、ハオリュウが金刺繍のハンカチを差し出した。彼女はそれを受け取り、はっと気づく。

 異母弟の向こうには、医師として客間に控えていたミンウェイの姿があり、背後を振り返れば、連絡を受けたときに一緒に執務室にいたルイフォン、イーレオ、そしてシャオリエまでもが、優しい目をして彼女を見守っていた。

「……っ! お見苦しいところを……。失礼いたしました」

 はしたなくも取り乱してしまったと、メイシアは赤い顔でぱっと立ち上がり、頭を下げた。

「いいじゃないか。お前は本当に親父さんのことを心配していたんだから」

 笑いながら、ルイフォンが特徴的な猫背の姿勢でゆっくりと近づいてくる。せっかくの一張羅も既に着崩れしていて、どことなくさまにならない。

 けれど、彼の姿を見た途端、メイシアは急に子供みたいに声を上げて泣きじゃくりたい衝動にかられた。

「ルイ、フォン……。本当に……ありがっ、とぅ……」

「俺は、俺のしたいことをしたまでだ」

 そう言って、ルイフォンがメイシアの髪をくしゃりと撫でようとした。――が、それはハオリュウの小さな咳払いによって阻止された。

「父様。こちらのルイフォン氏が、父様を斑目一族の別荘から救い出してくださったんです。覚えてらっしゃいますか?」

「……そういえば――」

 コウレンが、はっと顔色を変える。――緊張を帯びた表情に。

 気絶させたのち、薬まで使って連れてきたのだから仕方ない。ルイフォンは、ばつの悪い思いをしながら、できるだけ礼儀正しく頭を下げた。

「斑目の別荘でお会いしていますが、改めまして。鷹刀一族総帥が末子、鷹刀ルイフォンです。こちらにお連れする際には、手荒な真似をすみませんでした」

「ああ、いや……、構わぬ」

 コウレンが、ベッドからルイフォンを見上げる。その瞳には警戒が見て取れた。

 すぐにもメイシアとの話を切り出したいルイフォンだったが、今はその機ではないと判断せざるを得なかった。焦りは禁物だと、自分を戒める。

 ハオリュウが立ち上がり、背後に向かって「ご足労、痛み入ります」と会釈をした。

「後ろにいらっしゃる方が鷹刀一族総帥の鷹刀イーレオ氏です。さっき説明した通り、僕たちは鷹刀一族の方々に大変お世話になったんです」

「そうか……」

 口の中で、もごもごとコウレンは小さく言った。

 良心的に解釈すれば、凶賊ダリジィンを相手に距離を掴めずにいる、あるいは言葉を選びあぐねている、といったところだろうか。それでいて目はそらすことなく、むしろ熱心に様子を窺っている感がある。

 メイシアの父親を悪く思いたくはないが、ルイフォンは正直、よい気持ちはしなかった。だがコウレンの態度は、ルイフォン以上に、息子のハオリュウを苛立たせた。

「父様。こちらの状況をご存じなかった父様には、にわかにはご理解いただけないかもしれませんが、我が藤咲家は鷹刀一族に多大なる恩義があるんです。ひとこと、お礼申し上げてください」

 ハオリュウの目が険を帯びる。しかしコウレンは意に介したふうもなく、背中に当てた柔らかな枕に寄りかかったまま、顔だけをイーレオに向けた。

「これは失礼した。当家のために尽力、ご苦労であった」

 しゃがれたコウレンの声が、場の空気にひびを入れていく――。

 受け答えとして一見、自然にも聞こえる言葉は、けれど明らかに鷹刀一族を『下』に見たものだった。

「お父様!?」

「父様!?」

 メイシアとハオリュウの姉弟が、同時に父に目を向けた。それから互いに顔を見合わせ、父に対しての困惑を共有する。

「……父様、僕たちは鷹刀の方々を雇ったわけではないんです」

 どうして、この父はこうも状況判断ができないのか。相手は器の大きなイーレオだから険悪にはならないだろうが、藤咲家として恥ずかしい。

 腹立たしさに、ハオリュウは舌打ちしたくなる。

「勿論、藤咲家として謝礼は充分にするつもりですが、今回のことは鷹刀一族のご厚意に依るところが大きくて……」

「ルイフォンに謝ってください!」

 メイシアの叫びが、異母弟を遮った。

「彼は、私のためにお父様を助けに行ってくれたんです! 危険を承知で、無茶ばかりして……!」

 彼女は拳を握りしめ、訴える。

 コウレンの言葉と目線は、ルイフォンの心を踏みにじった。たとえ大切な父でも、許せないと思った。

 けれど、それは父が事情を知らないからで……。たまらなく嫌で、苦しくて切ない気持ちがメイシアの心を占めていく。

 彼女は、すっと立ち上がり、凛とした目を父に向けた。

「私の大切な人なの。彼をそんな目で見ないでください……!」

 祈るような透き通った声。メイシアの目尻から、涙の雫が滑り落ちた。コウレンは口を半ば開いたままで、言葉はない。

 震える彼女の肩を、ルイフォンがそっと抱いた。心配するなと髪に触れ、彼はきっ、と口元を結ぶ。彼女よりも一歩前に出て、彼はコウレンに膝を折る。編まれた髪が背中を転がり、垂れ下がった。

「眠らされたまま鷹刀の屋敷に連れてこられて、いきなりいろいろ言われて混乱してらっしゃると思う。けど、ともかく、まずは安心してください。鷹刀は、主従関係ではなく信頼関係で藤咲家と結ばれている」

 低いところから、ルイフォンがコウレンを見上げる。

 足元に近い位置で金の鈴が揺れるのを見て、ハオリュウは焦った。明らかに非は父にある。なのに、ルイフォンがひざまずくのは道理が合わない。

「立ってください! あなたは雇われているわけじゃない。自分でそう言っているじゃないか!」

「ハオリュウ、間違えんな。一族を背負った親父が膝をついたら駄目だけど、俺がやるのは別だ。俺は鷹刀と藤咲家の友好関係を示したい」

 ルイフォンが不敵に笑う。隣で不安がっているメイシアに、任せろと目で伝える。

「藤咲さん――いや、メイシアの親父さん。俺はメイシアとハオリュウのために、あなたを助けたいと思った。ハオリュウは金を払うと言っていたが、そのへんはうやむやのまま、ほぼ俺の独断で強行した。急がないと、あなたの命が危ないと思ったからだ」

「そうなのか……?」

 相変わらずコウレンの返答は、ぼんやりとしていて芳しくない。けれど、周りを見る目が落ち着いてきた。あとひと息と、ルイフォンは声に力を込める。

「だから、鷹刀はあなたの部下ではない。鷹刀の名誉のために、そこだけは、きちんと理解していただきたい」

「……分かった」

 ぼそぼそとした返事だったが、とりあえずは納得したようだった。

 メイシアがほっと息をつく。ハオリュウが早く立て、と言わんばかりの視線をルイフォンに送っていた。

 ルイフォンが立ち上がるのを測ったかのように、イーレオがベッドサイドに現れた。背の中ほどで結わえた黒髪をさらりと揺らし、彼は優雅に一礼する。

「はじめまして。不躾に失礼。鷹刀イーレオです」

 低く魅惑的な声を響かせ、イーレオが右手を差し出した。その手をコウレンがおずおずと握る。

「こちらこそ、世話になったようで……」

 ぎこちない挨拶を交わすコウレンに、ハオリュウは苛立ちを覚える。思わず何かを口走りそうになったとき、草の香が横切り、彼を押しとどめた。

「すみません、総帥。ご挨拶だけにしておきましょう」

 ミンウェイだった。

「先ほどの診察で、健康状態に問題はなかったのですが、心労が溜まってらっしゃるようです。あとはお身内の方だけにして、我々は下がりましょう」

 イーレオは、ちらりとハオリュウを見やる。それで納得したようだった。

「ミンウェイ、お前の言う通りだな。――藤咲さん、それでは我々はこれで。ゆっくり体を休めてください」

 その言葉を合図に、鷹刀一族の面々――ルイフォン、イーレオ、ミンウェイ、シャオリエがきびすを返す。だが次の瞬間、意外なことが起きた。

「ま、待ってくれ!」

 コウレンが叫んだ。皆、驚きの目で彼に注目する。

「その少年が娘の『大切な人』というのは……?」

 くまの多いコウレンの瞳が、ルイフォンを見つめている。

 不意をかれ、ルイフォンは彼らしくもなく心臓が飛び上がらせた。先送りにせざるを得ないと諦めていた話題が、思わぬ方向から返ってきたのだから当然だろう。

 だが、次の瞬間には頭を切り替える。折角のチャンスだ。今はまだ、込み入った話は避けたほうがよさそうだが、メイシアとの仲はきちんと言っておきたい。

「『恋人』という意味です」

 扉に向かって歩きかけていたルイフォンは、ベッドのそばに寄り、コウレンの顔をまっすぐに捕らえた。

「この事件を通して、俺はメイシアと出逢いました。ごく短い間でしたが、俺は彼女に惹かれ、想いを告げました。――そして、彼女は俺に応えてくれました」

 できるだけ柔らかい表現で言ったつもりだった。しかし、ルイフォンの目線の先で、コウレンは徐々にその顔色を黒く染めていく。ルイフォンの背を冷や汗が流れた。

「……認められるわけないだろう! 貴族シャトーア凶賊ダリジィンだぞ……」

 コウレンが唇をわななかせる。メイシアが「お父様!?」と、血相を変えた。彼女は、まさか父から否定的な言葉が出るとは思わなかったのだ。

「お父様、ルイフォンは『暁の恋人』なの。お父様が昔、私におっしゃった『目覚めた瞬間に、瞳に映したい人』……」

 青ざめるメイシアを、コウレンはただ濁った目で見つめていた。口元に手を当て、彼女は短く息を吸う。信じられない、と震える指先が言っていた。

 メイシアの言葉に、ルイフォンは聞き覚えがあった。コウレンを救出する際に預かった伝言だ。

 ――『暁の光の中で、朝の挨拶を交わしたい人と出逢いました』

 彼女が幼いころ、コウレンが言った言葉だという。父娘の間だけで通じる暗号のようなものだろう。

 平民バイスアの女を妻に迎えた貴族シャトーアの男の言葉なら、どんな意味合いを持つのかは想像できる。身分違いの相手でも、娘の気持ちは尊重する、味方になってあげる。――コウレンはそう約束したはずなのだ。彼女らしくもなくメイシアが感情的なのは、この絶対の言葉があったからだ。

 メイシアが特別な言葉で呼んでくれるのなら、ルイフォンだって黙っているわけにはいかない。彼はすっと息を吐き、心を決めた。

「本当は、気取った言葉のほうが、こういうときにふさわしいのかもしれない。けど俺は、俺らしくありたいから、単刀直入に言わせてください」

 隣に立つメイシアの体が、びくりと震える。

「確かに俺たちは生きる世界が違う。それでも一緒に居たいから、俺は鷹刀を抜けます。だから――」

 彼はそこで、いったん言葉を止め、鋭いけれども優しさを忘れない、澄んだ眼差しをコウレンに向けた。

「彼女と俺が、共にることを認めてください」

 部屋を覆う光が、すべての音を飲み込んだようだった。時すらも吸い込まれたかのように、あらゆるものの動きが止まる――。

 ……やがて「メイシア」と、しゃがれたコウレンの声が、彼女を呼んだ。

「そんなにその男がいいのか?」

「は、はい!」

 メイシアが弾かれたように答える。

「……なら、藤咲家としても考えがある」

 そう言って、コウレンはイーレオを見た。

「鷹刀イーレオさん、あなたとふたりきりで話をしたい。あなた方の流儀は知らないが、貴族シャトーアなら、これは家同士の問題ですからね」

 突然、話を振られたイーレオは困惑に眉を寄せた。だが、魅惑的な微笑を浮かべ「分かりました」と答える。

 妙な具合いの急展開だが、コウレンが歩み寄ってくれるのは誰もが望むところだった。イーレオを残し、他の皆はそろそろと退室しようとした。

 ――しかし。

 コウレンが再び口を開いた。

「すみませんが、話し合いは『今ここで』ではありません。万が一、口論にでもなったら、この屋敷では私の身が危うい。後日、こちらの指定する場所に来ていただきたい」

 室内に動揺が走った。

 コウレンの言っていることは、決して不当ではない。けれど、どこか奇妙だった。皆が顔を見合わせ、やがてその視線がイーレオに集まる。

 イーレオに迷いはなかった。了承を示そうと、口を開きかける。その動きを、たおやかな女の声が遮った。

「駄目よ、イーレオ」

 一歩離れたところから、傍観者のように見ていたシャオリエだった。

 にこやかに微笑んでいるようでいて、アーモンド型の瞳は冷ややかで……。その場にいた者は皆、心にざわめきを覚える。彼女と初対面のハオリュウなどは、見知らぬ部下が後ろに控えているだけと思っていたのだが、この一瞬だけで彼女の只者ならぬ様子を察した。

「はじめまして、藤咲さん。私はシャオリエと申す者で、街で店を経営しておりますの」

 普段のシャオリエを知る者ならば、優しげな声が、言葉遣いが、獲物を誘う甘い香りだと気づいただろう。

 皆の当惑と疑惑の視線を浴びながら、シャオリエは緩やかに歩を進めた。

「うちの店は貴族シャトーアのお客様もご贔屓にしてくださっていてね、厳月家の坊ちゃまもよく来てくださるのよ」

 厳月家、とシャオリエが口にした瞬間、コウレンの顔が強張った。その変化を、シャオリエは、しかと捕らえていた。

「三番目の坊ちゃまなんですけどね、昨日の晩も来てくださいましたの」

 コウレンは声もなく、シャオリエの顔を見つめている。その様子を楽しみ、真綿で首を絞めるように、彼女はゆっくりと言葉を紡いでいく。

「彼、近々ご婚約なさるんですって」

 コウレンは反射的に後ずさった。しかし、彼の背は柔らかな枕に抑えられていた。

 不意に、シャオリエはベッドのそばにいるメイシアに視線を移す。アーモンド型の瞳が薄くまたたき、メイシアに何かを訴える。

 メイシアは肌にぴりりとした緊張を覚えた。そのシャオリエの顔には見覚えがあった。店で初めて会ったとき、メイシアに情報を与え、どう組み立てるかと尋ねたときの顔だった。

 神経を研ぎ澄まし、メイシアはシャオリエの次の言葉を待った。

「厳月家の坊っちゃまのお相手は、藤咲家のご息女、メイシア嬢だそうよ」

 ――言葉の一石が、静かに落とされた。

 それは波紋を描きながら部屋中に広がっていき、空気を揺らしながら、皆の顔に明暗を作り出す。

「シャオリエ、それは親父さんが囚われて、立ち消えた話だろう?」

 何故、場を混乱させるようなことを言うのだ、とばかりに、ルイフォンが苛立ちの声を上げた。

「待って、ルイフォン。『昨日の晩』って……」

 混乱する頭を、メイシアは必死に働かせる。

 シャオリエは、彼女の知っている事実しか言わない人だ。少なくとも前に話したときは、確かな情報だけで問いかけ、メイシアに判断を委ねた。

 勿論、厳月家の三男が古い情報に踊らされているだけかもしれない。けれど、ずっと感じている父への違和感がメイシアに口を開かせた。

「お父様……、何かご存知なのではないですか? 斑目の別荘で何があったのでしょうか……?」

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