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作者: 月ノ瀬 静流
残酷な描写あり
3.冥府の守護者ー3
 イーレオの指示で、皆が慌ただしく動き始めた。

 そんな中で唯ひとり、ルイフォンだけは動かなかった。

「ルイフォン……?」

 メイシアが遠慮がちに声を掛ける。

 彼を印象づける、特徴的な猫のような表情が消えていた。鷹刀一族の血を示すような、本来の端正な顔立ちが浮き彫りになる。しかしそれは、彼をただの彫像のように見せる効果しかなかった。

「ルイフォン、お前は医務室に行け」

 イーレオの声が飛んできた。

 ルイフォンの口元は切れ、乾いた血が固まっていた。何度も打撃を受けた腹部は、見た目はシャツが汚れているだけだが、その下の体はどんなにか痛むことだろう。上着はところどころ擦り切れ、ボタンが飛んでいる。

 貧民街からずっと、彼はメイシアを守り抜いてきた。

 メイシアは、胸が締め付けられるような思いで、ルイフォンを見つめる。いくら感謝してもしきれない。やっと落ち着いた状況になったのだから、彼には休んでほしいと思う。

 しかし、ルイフォンは――。

「ルイフォン、イーレオ様が……」

 まるで何も聞こえていないかのようなルイフォンの袖を、メイシアはそっと引いた。そのとき初めて気づいたかのように、彼は、はっと目の焦点を戻す。

「あ、ああ……? 何か言ったか?」

「イーレオ様が医務室に行くようにと」

「あ、ああ」

 返事をしつつも、やはりどこか上の空である。

「おい、ルイフォン、また頭が異次元に行っているぞ」

 つかつかとリュイセンが寄ってきて、ルイフォンの額を指で弾いた。

「……ってぇなぁ」

「お前、見事にぼろぼろだぞ。見苦しい。このあと皆で昼食を摂って作戦会議だ。その前にその格好をなんとかしてこい」

「……分かった」

「付き添わせてください」

 退出するルイフォンの猫背に、メイシアは思わず駆け寄った。

 メイシアの視界の端に、ハオリュウの顔が映る。警察隊のシュアンと何やら話し込んでいた異母弟は「姉様!」と鋭く口走った。

 目で制止をかけてくる異母弟を、彼女は直視することはできなかった。ただ無言で頭を下げ、振り切るようにルイフォンを追いかけた。





 口を結んで大股に歩くルイフォンを、メイシアは小走りに追いかける。彼が向かった先は医務室ではなく、彼の自室だった。

 閉まりそうになる扉にメイシアは滑り込んだ。入った瞬間に、冷気が彼女を包む。汗ばんでいた体が、ひやりと震えた。

 廊下ですら絨毯が敷き詰められたこの屋敷の中で、リノリウム張りのルイフォンの仕事部屋。人間より機械が優先される環境は、昨日来たときと寸分変わっていなかった。

「ルイフォン、傷の手当ては……?」

「平気だ」

 車座に並べられた机の上に、幾つもの機械類が載せられている。その輪の中に、ルイフォンは入っていく。

 回転椅子に座り、置きっぱなしのOAグラスを無造作に掛けると、無機質な横顔になった。キーボードに指を走らせると次々にモニタが点灯し、彼の姿が青白い光に照らし出される。

 彼が何をしようとしているのか。コンピュータに詳しくないメイシアでも分かった。

 執務室に突如現れた〈ベロ〉。

 ルイフォンが制御できない、存在すらも知らなかった『もの』。

 その所在を探しているのだ。

「ルイフォン……」

「なんだ?」

 抑揚のないテノールが、メイシアの心臓に突き刺さった。

 ルイフォンは今、リュイセンが言うように異次元にいる。ケーブルに囲まれた円陣は、別世界への魔法陣なのだ。

「なんでもありません」

 出逢ってから、たった一日。

 知らない顔があるのは当然のことだ。

 ――打ち解けたと思っていたのは、世間知らずの自分のほうだけだった。

 ずきりと痛む心臓を抑え、メイシアはそっと後ろに下がった。

 彼のことは気になるが、彼女がいても邪魔になるだけだ。それより、部屋に戻って着替えでもしておくべきだろう。

 彼女はきびすを返した。

「糞っ! どこにあるんだ!?」

 突然、強い打鍵の音と共に、ルイフォンが叫んだ。

「何故、俺の命令を無視する!? ふざけんなよ!」

 驚いたメイシアが振り返ると、ルイフォンが机に拳を叩きつけていた。解かれたままの髪を振り乱し、血走った目でモニタを睨みつけている。

 彼女は顔色を変えた。

 彼が機械類を扱うとき、今までは表情豊かな得意げな猫の顔か、機械と一体化したかのような無機質な顔をしていた。両極端のようだけれど、どちらも研ぎ澄まされたような聡明さがあった。

 しかし、目の前の彼は、癇癪を起こしている子供であった。

「ルイフォン?」

 恐る恐る声を掛けると、集中したときには反応を返さないはずのルイフォンが、こちらを向いた。

「メイシア」

 モニタ画面を反射したOAグラスは、青白く半透明に輝いており、その下の彼の表情は窺うことができない。

「あれは現在の技術レベルを超えたものだ。自由に考え、勝手に行動する……!」

 まるで弾劾でもするかのように、ルイフォンは言った。そして、戸惑うメイシアに尋ねる。

「お前には、あれが何に見えた?」

「『人工知能』、でしょうか……?」

「そうだろうな。だが、中に人間が入っているような、あんな柔軟な代物は存在しないはずなんだ。俺自身が、ずっと研究してきたから知っている。なのに……」

 彼は唇を噛んだ。その拍子に口元の傷が開いてしまったのか、一瞬、顔を歪める。しかし、彼は更に強く唇を噛んだ。メイシアにはそれが自傷行為に見えた。

「俺が制御できない代物の存在を、誰も疑問に思わない。悪意ある侵入の可能性も心配もしない。……これがどれだけ異常なことか……!」

 ルイフォンが吐き捨てる。

「……分かっている。あれは母さんが作ったものだ。外部からの侵入なら俺が気づいている。だから、母さんしかあり得ない……」

 彼の強く握りしめた拳が、白く震える。

「誰もがあっさり受け入れるのは――あれが、母さんが作ったものだからだ……!」

 ひやりとした空気を切り裂いて、響き渡る叫びは、嗚咽だった。

 絶対の自信を持っている分野で、児戯だと言われたのだ。

 ――人ではない、母の遺産に。

 うなだれた猫背が哀しい……。

 メイシアにとって、〈ベロ〉はまったく未知のものだ。

 それでも、彼の様子から〈ベロ〉は、とんでもないもので、制御できなければならないものだということは分かる。

 だから、必死になって調べるというのなら、ルイフォンが異次元に行ってしまうのでもよかった。

 けれど――。

 今の彼は、粉々になった矜持に視界を遮られた、迷子だった。

 孤独の輪の中で、自分が迷っていることにも気づかずに、ひとり苦しんでいる。

 メイシアの足先が、リノリウムの床に硬い響きを立てた。

 彼女は、床を這っているケーブルを越えた。

 ――魔法陣の結界を破って、彼の聖域へと踏み込んだ。

「ルイフォン……」

 メイシアは、うつむいたルイフォンの頭を両腕で包み込んだ。彼女の長い黒髪が、彼の背中を覆い、絡め取る。何処かに流されてしまいそうな彼を捕まえるかのように。

 その瞬間。

 彼の肩がびくりと震えた。

「なんの真似だ?」

 低い、低い声――これ以上、近づくなとの警告の声で、ルイフォンが唸った。

 身を逆立てる彼に、彼女の心臓が悲鳴を上げた。

「ご、ごめんなさい」

 彼女は彼から、ぱっと離れた。

 彼はくるりと背を向けた。そして、回転椅子を滑らせ、少し離れたところのコンピュータと対峙する。

「すまない、メイシア。出ていってくれ」

 モニタを見据えたまま、ルイフォンは言った。猫が威嚇をするように、大きく背中が膨れていた。

 メイシアの顔から血の気が引いていく――。

「い……、嫌です……!」

「邪魔なんだよ!」

 即座に返ってくる拒絶。

 彼は叩きつけるように、キーボードに指を走らせた。モニタ上で表示が切り替わったが、目は文字を追っていない。

 彼女は、飛び出しそうな心臓を、服の上から、ぎゅっと抑えた。

「す、すみません……でも……」

「糞っ」

 動こうとしないメイシアに、苛立ちをあらわにしたルイフォンの悪態が被る。彼は、両手で頭を抱えるようにして机に肘をついた。癖の強い髪を掻きむしり、叫ぶ。

「なんで、分からねぇんだよ!」

 かなぐり捨てるようにOAグラスを外し、掌で顔を覆う。

「…………俺がっ、惨めだろうっ!」

 張り詰めた冷気が弾け飛ぶように、ルイフォンの言葉が砕け散った。

 心の底からの、咆哮――。

「……っ! ――すみません……!」

 そっとしておくべきだったのだ。

 どんなに心配だったとしても、魔法陣の結界は踏み越えてはいけなかったのだ。

 メイシアのしていることは、ただの彼女の我儘に過ぎない……。

「――でもっ!」 

 細い糸を爪弾つまびくような声が、凛と鳴り響く。

 まっすぐに顔を上げたメイシアの頬を、透明な涙がすうっと流れた。

「私はっ、ルイフォンのそばに居たいんです!」

 心が強く訴える。

 昨日までの彼女だったら、こんな我儘など言わなかった。

 思ったままに行動することを、他ならぬルイフォンが教えてくれたのだ。

「はっ、なんだよそれ?」

 ルイフォンがくるりと回転椅子を回し、肩をすくめた。嘲りを全面に出した嗤いが、口から漏れる。

 メイシアは思わずひるみそうになったが、虚勢の強気で言い返した。

「直感です! 我儘です! だって、ルイフォンが言ってくれたじゃないですか! 私はもっと直感的に生きたほうがいい、って。我儘を言ってもいいって」

「いつ俺がそんなこと言った?」

「シャオリエさんのお店で、です」

「忘れた」

「でも、私は覚えています」

 メイシアは言い切った。

 OAグラスを外したルイフォンの冷たい視線が、彼女に直接、突き刺さる。

「私は……、私たちが今すべきことは、喜ぶことだと思うんです」

「はぁ?」

 彼の声が甲高く嘲った。それでも構わず、彼女は続ける。

「私は、生まれて初めて、本当に死ぬかと思うような目に遭いました」

 空調のかすかな雑音の上を、透明な声が抜けていく。ひやりとした空気が、熱くなりかけていたふたりを冷やしていく。

「でも、無事だったんです。ルイフォンのお陰で、無事だったんです。奇跡です。それから私、ルイフォンが本当に死んでしまうかと思っ……」

 メイシアの頬を涙の筋が走った。

 ――いくつも、いくつも……。

 埃まみれの顔が、そこだけ奇妙に拭われていくのをメイシアは感じた。

 きっと、とんでもなくみっともない顔をしているに違いない。けれども、彼女は涙を止めることができなかった。

「『ありがとう』って言いたい。あなたも私も、皆が無事だったことを、喜びたい。『今、あなたと一緒に』喜びたいんです……!」

 硬質なリノリウムの床が、メイシアの叫びを拡散させた。彼女の思いは乱反射して、あちらから、こちらから、ルイフォンを包み込む。

「メイシア……」

 ルイフォンが回転椅子の背にもたれ、仰ぐようにメイシアを見上げた。涙でべとつき、汚れた黒髪の張り付いた顔が、何よりも美しく見えた。

 戦乙女だ、と彼は思った。

 貧民街で、彼が地に伏し〈ムスカ〉の凶刃にかからんとしていたとき、彼女はタオロンの大刀を掲げて彼を救った。あのとき地面から見上げた彼女の姿もぼろぼろだったけれど、煌めきに満ちた魂が優しく、温かく、力強く――彼を魅了した。

 ルイフォンの口元が自然に緩んだ。

 下手な気休めを言われたのなら、跳ね返すことができた。

 けれど、彼女の言葉は、彼の想像を遥かに超えていた。

「……すまなかった」

 彼は、癖のある前髪をくしゃりと掻き上げた。こんな安らぎのそばで、険のある顔をし続けることなどできない。

「あの人工知能は、昨日今日に作られたものじゃない。ずっとあったんだ。今、焦っても仕方ないな」

 ルイフォンはメイシアと向き合う。その顔には、彼らしい、奔放な猫のような表情が蘇っていた。

「ありがとな」

「え?」

「そばに居てくれて、ありがとな」

 そう言うと同時に、ルイフォンは立ち上がり、メイシアを抱きしめた。

「きゃっ」

 メイシアが可愛らしい悲鳴を上げる。ルイフォンの腕の中で、真っ赤になる。

「何、照れているんだよ。さっき、お前、俺のこと抱きしめたろ?」

「あ、あああああ。す、すみません……!」

「謝ることじゃないって。それより、一緒に風呂に入ろうぜ? お前も俺もどろどろだ」

 彼は彼女の体をひょいと抱き上げると、そのまま続き部屋にある浴室に向かおうとする。

「すすすすみません。勘弁してださい!」

「いいから、いいから」

「よくないです! 下ろしてください!」

 相変わらずの嗜虐心をそそる反応に、ルイフォンは目を細めた。

 魅了される――。

 彼女に惹きつけられてやまない。

 異母弟ハオリュウが現れ、協力体制を敷いたことによって、彼女の身柄がどうなるのか分からなくなった。

 ……おそらくは、貴族シャトーアの彼女を凶賊ダリジィンの屋敷に残すなんて猛反対が起こるだろう。

 貴族シャトーア凶賊ダリジィンが、共謀以外の関係で、共にあるなんてあり得ないのだ。

「…………」

 ルイフォンの小さな呟きを聞き取れず、メイシアは「え?」と聞き返した。

「なんでもない」

 軽く笑って、彼は彼女を下ろした。

「それじゃ、風呂に入るか」

 そのまま、彼女の目の前で、汚れた衣服を脱ぎ捨てる。細身であるものの、チャオラウに鍛えられた若々しい肉体が晒され……彼の期待通りに彼女が悲鳴を上げた。

 彼女が顔を真っ赤にして慌てるさまを、彼は目を細めてにやりと堪能する。

 この可愛らしい小鳥が無事で、本当に良かったと思う。

 ……不意にルイフォンは、床に投げ出した服の波間に、金色の光を見つけた。

 はっと気づいて拾い上げる。

 ――母の形見の鈴。

 いつもは、編んだ髪を留める、青い飾り紐の中央に収めているもの。貧民街でタオロンを縛るために紐が必要になったため、鈴は外して懐に入れておいたのだ。

 彼は馴染みの感触を指先で確かめ、大切に握りしめた――。





~ 第五章 了 ~

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