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作者: 樹齢二千年
残酷な描写あり R-15
1話『タットワの技法/異世界へ』
「──どうしてこうなった……」

 フード付きパーカーににジーパン。
 そんな極めて普通の装いに身を包んだ黒髪の青年は、眼前に広がる光景を目にしながらそう言葉を漏らした。
 周囲には見渡す限りの水面が広がっており、青年の身体は水中に沈む事なく立っていた。
 上を見上げれば雲一つない蒼天が無限に広がっており、水面にはその一切が反射している。
 幻想的という他ない光景だ。

 雨宮海斗、18歳。年齢=彼女いない歴の男子大学生。
 彼は今、絶望的という他ない状況に陥っていた。というのも──、

「もしかしなくても、『タットワの技法』って、本物だったのか……!?」

 ──タットワの技法。
 それは現代に語り継がれる都市伝説にして「異世界に行く方法」である。
 内容としては、五つの図形が書かれた画像を用意し、更に特定の手順を踏む事で、現実とは異なる異界──即ち、異世界を幻視する事が出来るというもの。

 実在した西洋魔術の流れを汲む都市伝説だが、絶賛パニックになりかけている海斗は、そのような分野に興味を持つ若者。マニアでもあった。

 結論から言えば、彼はその都市伝説を実践した結果、ここにいる。
 傍から見れば自業自得ではあるのだが。

「って事は、ここが噂の異世界って訳か……思ったのとだいぶ違うけど、出口は何処だ……?」

 キョロキョロと周囲を見渡すも、美しい風景が果てしなく広がっているだけだ。
 都合良くドアがあるという訳でもなく、謎の異界の中で海斗はたった一人、その場に佇んでいる。

「……いや待て待て待て、これがまだ夢って可能性もあるだろ。俗に言う明晰夢ってヤツなら、これで──」

 焦りを感じながら、彼は己の頬を指で抓るという古典的方法を試した。
 それだけではない。両頬を手で叩き、今の現実から眼を逸らすように、夢から覚めようと足掻く。
 肌が赤くなる程試したところで、視界が暗転して現実に戻る──などという事はなく、海斗は

「……痛い」

 一言、そう呟いた。
 生憎、彼を取り巻く状況は夢でもなんでもなく、現実だったのだ。その証拠に、海斗の五感は普段と同様ハッキリしている。
 手は暖かく、首筋を伝う汗の感覚も明確に感じ取れるのだ。

「マズい事になったな……」

 心臓の鼓動が加速していくのを感じながら、海斗は呟いた。
 今の状況は、誰がどう見ても詰んでいる。
 出口はなく、この空間から抜け出す手段を探す事すら叶わない。
 都市伝説を実践した事に対する報いとでも言うかのように、海斗はこの異界に閉じ込められたのだ。

「いや、自暴自棄になろうとするな。きっと手段はある筈だ、だから──」

 言い聞かせるように言う海斗。
 己が詰んでいるという事実に耐える為に、迫り来る焦りと恐怖を理性で押さえつける。
 冷静を保ち、一度深呼吸をして、再び現状に向き合おうとした、その時。

「──そうそう、冷静ですね。良い事です。焦ってたら今後について話せませんから」

 思考を巡らせる最中、この異界には彼一人しかいない筈だというのに、再び声が聞こえた。
 落ち着いていて、顔且つ親しみ易さを感じさせるような、少女の声だった。

「────ッ!?」

 あまりにも衝撃で、思わず周囲を再びキョロキョロと見渡す。
 その声は海斗を宥めるように、言葉を続ける。

「貴方がいるこの場所は「境界」ホロス。異なる世界の狭間に存在する領域にして、天上界と地上界を分かつ異界……とでも言いましょうか」

「境界? それに異界って、アンタ一体何言って────!」

 そう言いかけたところで、再びその声が響き渡った。

「何って、「異世界に行く方法」を試したから、今ここにいるんじゃないんですか?」

 今度は、彼のすぐ近く。後方からハッキリと聞こえた。
 すかさず振り向くと──そこには、人の形をした存在が佇んでいた。

「────」

 容姿こそ、海斗の知る人間の少女に限りなく近い。
 だが、それを人間であると呼称するには憚られる。そう思う程に常識から外れていた。

 透き通るような白い肌に、法衣を思わせる純白の装束。そして、自分が人ならざる存在であると主張するように携えられた、

 さながら、天使だった。
 神と人間を仲介する存在であり、伝令者。
「天使」という概念を保持する宗教において、人を惑わし、最高存在たる神に敵対する悪魔と戦う者。
 海斗の目の前に平然と佇むそれは、人間のイメージする天使の像に非常に酷似していた。

 その容姿は、これが現実であるとどこまでも理解させると同時に、遠回しに自分が既に死しているのではと思わせる。
 天使といえば、中には人間の死後を裁く者や、その魂と肉体を切り離す者もいるのだというのだというのだから。

「貴方が私を天使みたいって思うのも無理はありません。実際人間ではありませんし、この姿は人間がイメージする天使の原型アーキタイプを参考にしただけですので。貴方だって、開幕一発目に無数の目がある異形とエンカウントするのは嫌でしょう?」

「確かにそれは堪えるな──って、なんで俺の考えてる事が!?」

 眼前の自称天使に対し、ツッコミ気味に問う。
 彼女の口からしれっと人外認定発言が飛び、彼女は海斗が天使を想起している事を看破して見せた。

「この領域を支配するのは私です。であれば、ここにいる者の思考を読むぐらい造作もありません。貴方の名前、身長から体重、異性のタイプ等々、様々な個人情報は既に私の手中にあります」

 えへん、と威張るようにして言う謎の天使。
 天使とは程遠い振る舞いのようにも見えるが、この地は彼女の支配する世界にして先程までの世界とは違うという事で間違い無いのだろう。
 この場所に限ってなら、全てを見通す神のようにも思わせる。

「ああでも、私は別に天地を創造した神とかそういう訳ではありませんよ?あくまでそういった存在という認識で構いませんので。そこは間違えないように」

「まぁ、ポジション的には天使みたいなものってことか。神に準ずる存在的な」

「概ねOKです」

 親指を立てる暫定天使。
 第一印象こそ神々しく神秘的。
 正しく神の遣いだとか言われても何ら違和感は無かったが、砕けた話し方や立ち振る舞いといい、想像以上に人間臭い印象を抱かせた。

「なんというか、天使の印象を根底から覆された気がするな……竜に立ち向かう騎士とか、美しくもカッコいい堕天使とかを想像してたんだけど」

「失礼ですね、私を貴方の世界の天使と同じにして貰っちゃ困ります。飛び回ってひたすら神を讃えたりとか、あんな機械的じゃないでしょう?」

「機械的どころか、こんなフランクに話す天使は何処の宗教にもいないでしょうよ」

 呆れ気味に片方の口角を上げながらツッコむ海斗。
 旧約聖書の偽典『エノク書』に記される物語──人間の女性に情欲を抱き、その間に子を成したという堕天使の一団の話は彼も聞いた事があった。
 しかし、ここまで人間味のある天使と遭遇する事になるなど欠片も予想していない。

「神の使いっパシリなんて、私的には御免被りたいですけどね……よし、ではそろそろ本題に移りましょうか」

 声の調子を真剣な声色に切り替えるのに呼応するように、対する海斗も表情をやや強張らせる。

「本題……」

「ええ。まぁアレです。雨宮さんの今後についてですね」

 彼女の言う本題。
 それは十中八九、彼の今後の処遇に関するものだ。

「まず一つ。貴方は「タットワの技法」を実践した結果此処にいる。今の貴方は、言わば肉体から離れた中身……霊魂だけの状態です。有り体に言うのであれば──既に、死んでいます」

「────っ」

 少女が告げ、海斗が口をつむぐ。
「タットワの技法を実践する」という選択をした時点で、この結末は約束されていたのかもしれない。
 言葉を受け止める事しか、今の彼には許されない。
 時間が巻き戻る事は決して無く、この瞬間を以て──雨宮海斗という人間の死は確定した。

「……やっぱり、か」

「あれ、意外と驚きませんね? もっと動揺するかと思ってましたけど」

 予想外の反応だったのか、彼女は続けてそう言った。
 無論、海斗は驚いているし、衝撃を受けている。しかし、この空間で目を覚ました瞬間から、薄々その可能性も感じてはいたのだ。

「いや、なんというか……あんまり考えないようにしてたけど、そんな予想はしてたから」

「自分でやった事に後悔は無い、と」

「そりゃ無いって言ったら嘘になるけど、興味本位で取り返しが付かないところまで行ったのなら自己責任だから」

 やや俯いてから、海斗は答えた。
 タットワの技法を実践する直前。彼は何が起きても責任を負うのは自分自身であると強く言い聞かせたのだ。
 狼狽えるなどという情けない真似は出来ない。

「成る程。では、この先自分に何を言い渡されても構わないと。そう言う事ですね」

 顎に手を当て、天使は海斗の方をじっと見ながら言葉を続ける。
 全ては自分の責任であると、死と言う不条理を受け入れた上で出た言葉に聞こえるが、海斗の口調は意気消沈したように暗い。
 悔いが無い訳では無いというのは本当だった。しかし、受け入れねばならないというのもまた事実。
 内からこみ上げて来るものを抑え込み、少女の問いに頷きで返答する。

「分かりました。では二つ目。貴方の、今後の処遇について」

 海斗の意を察し、次の話題に移る。
 禁忌を犯して生を終えた少年の行く末は天国か地獄か、それとも煉獄か。

「雨宮海斗さん。貴方には────」

 息を飲み、彼女の宣告を待つ。
 どんな裁決が下されようとも、それを受け止める覚悟は出来ている。
 一呼吸置き、再び言葉を紡ぎ出し、

「────新たな世界にて、生の続きを歩んで貰います」

 貫くような視線と共に、告げる。

「そういえば、自己紹介がまだでしたね。……私の名前はアイン。この境界ホロスの主にして、異世界の観測者をやっている者です」

 遅すぎる自己紹介。
 雨宮海斗という人間に与えられた選択肢。
 それは天国でも地獄でも煉獄でも、ましてや輪廻の理に従った転生でも無く。

 此処では無い別の世界にて、生を歩むというものだった。



 ※※※※



「──え、今、なんて?」

 愕然として、海斗は眼前に佇む少女に聞き返す。
 それ程に、彼女が放った言葉の衝撃というのは大きかった。

 人々の宗教観によって塗り固められた死後の観念──天国か地獄という定説を根底から完全に覆す、第三の選択肢。異世界で生きるという道。
 近代の創作、フィクションの中でのみ有り得るとされていた筈の事象が、現実に起こったのだ。

 そもそも異世界なんてものが実在するのかという疑問が海斗の頭を過るが、自身が今置かれている状況を鑑みれば納得するしかなかった。

「だーかーら、異世界に行って貰うと言ったんです。繰り返しになりますが、ここは世界と世界の狭間にある場所。分かりやすく言えば駅みたいなものなので、貴方が異世界に行くのはこれから。──まぁ立ち話もなんですし、どうぞお掛けになって下さい」

「あぁ、これはご丁寧にどうも」

 彼女が言うと、何処からともなく見慣れた黒いパイプ椅子が現れる。
 海斗はそれに腰を掛け、周囲を見渡しながら、

「傍から見ればここも十分に立派な異世界だけど、まだこの先があるってことか」

 海斗は顎に手を当てて推測する。
 連想したのは、俗に言う「並行世界」
 無限の可能性から分岐した世界線。この境界ホロスはあくまでも異なる世界同士を繋ぐパイパスのような役割を果たしているのだろう、と。

「異世界となると、やっぱり剣とか魔法とかの、よくありがちな……?」

 海斗は異世界と聞いて、頭に思い浮かぶワードを言い連ねた。
 異世界という言葉から連想するのは、魔物などの魑魅魍魎が跋扈し、それらと対立する人間や亜人が存在している世界。

「限りなく近い世界ではありますが、一つだけ、突出した特徴があります」

「特徴?」

「はい。貴方のような日本人には慣れ親しんだものかもしれませんが、他の国の人々……一神教を信じる者にとっては絶対的な超越者──つまり、

「────っ」

 彼女から告げられた事実を前に、海斗は思わず息を呑んだ。

 神。
 古代より人類が見出し、信仰を捧げ続けたモノ。そして、彼らの願いを受け止め続けた器。
 かつて、人智の及ばぬ領域であった大自然に対する畏怖と崇敬から生まれた絶対者が、実体を以て存在していたのだと、彼女は言った。

「補足するなら、神に準ずる天使や悪魔も存在していた訳ですが。──東にはエンリルやバアル、西にはゼウス、北にはオーディン。貴方の趣味がオカルトだったのであれば、この辺りの名前は知ってるんじゃないですか?」

 そう語るアインは「これが好きなんだろ?」とでも言いたげに笑みを浮かべていた。
 最古の嵐神エンリル、魔王とされた大地と慈雨の神バアル。全能の雷霆神ゼウス、──そして、隻眼の魔術神オーディン。
 あくまでも架空、神話上に過ぎないとされていたものが確かに実在した世界。
 それが、彼が赴く事になる世界だった。

「勿論知ってるよ。どれも有名どころばっかりだし……でも、違う世界で同じ神が信仰されるって有り得るのか?」

「何処ぞの心理学者が言ってた「集合的無意識」ってヤツでしょう。世界が違えど、人間の考える事は同じって事でしょうね。流石の私でも、そこまでは分かりません。それこそ「神という種族」を創り出した創造主にでも聞かない限りは」

「集合的無意識、人類が共有する意識世界ねぇ……でも、わざわざ過去形で言ってるって事は、その神様達はもうその世界にはいないんだろ?」

「ご明察です。その世界の歴史で見て6000年は前の時代でしたか」

 額に指を当て、アインは自身の記憶の中から、神々のいた時の記憶を掘り起こす。

(それだけの時間、この人は地上世界を観測し続けたのか)

 海斗は心の中で素直に関心する。
 この領域にいるのは彼女一人。数千という時間を一人で過ごすというのは、常人であれば発狂してもおかしくはない所業だ。

「丁度良いですし、ついでに話していきましょうか。私が見て来た世界の遥か昔……神々がいた時代。そして──その終焉について」

 貫くような視線と共に言うと、彼はパチンと指を鳴らした。
 刹那、彼の前の空間に映像が映し出される。

「これは──」

「ええ、神の時代……「神期しんき」の記録ですよ」

 海斗が観た映像には、自然に満ちた世界。そして、その地に住む人型──或いは異形の者が共存している姿が映し出されていた。 
 殆ど人と変わらない姿の者から、動物の頭を持つ者。多くの腕を持つ者など、そのバリエーションは様々だった。

「地上における神々──創造主と区別して「アイオーン」とでも呼びましょうか。彼らの時代は3000年ほど続きましたが、今から6000年前、神々に比肩する力を持つ悪魔との戦いを機に終幕を迎える事になったんですよ」

 彼女が言うと、彼が視ている映像が切り替わる。
 それは数秒前まで見ていたような美しいものではなく、大地は震え、雷鳴が轟轟と鳴り響いている。
 先ほどまでは穏やかに人と接していた筈の神々は武器を取り、何者かと戦っていた。

「これは、戦争か……?」

 映像を見ながら、彼はふと零した。
 それ以外に、今観ているモノを形容する言葉は見つからなかった。
 神々と悪魔による、地上の支配権を賭けた戦い──後に、地上世界で「大戦」として語り継がれる大戦争。
 さながら「終末」。
 克明に記される、一つの神話の終着点だ。

 彼女は続いて、その顛末を語った。その声はどこまでも落ち着いていて、さながら昔話を聞かせる親の声にも似ていた。

「悪魔と対を為す天使の加勢もあり、神々は辛勝。いやぁ、ホンっとギリギリでしたよ」

「────」

こめかみに手を当て、当時の記憶を思い返しながらアインが零した。
 再び指を鳴らすと、テレビの電源が落ちるかのように、流し込まれた映像が途切れる。

「あれだけの主神たちの力を以てしても、本当にギリギリの戦いだったんだな。知る限りじゃ、他にも有力な神は数多くいた筈だけど」

「悪魔達は「神々の敵対者」ですからね、そりゃ主神級のバケモノもいましたよ。──それから、敗北した悪魔は地下深くに幽閉、晴れて地上の支配権を死守した神々でしたが、戦争に勝利してからある事に気付いたのです」

「ある事?」

「……簡単に言えば「被害が出過ぎた」って事に、全て終わってから気付いたんです。人間より力のある三種族が本気で戦ったんですから、巻き添えを食らって犠牲になった人間も多くいました」

 真剣な面持ちの彼女の言葉は伝聞では無く、実際にその眼で見て来た事から来る「事実」。
 神々の時代の終焉から現在に至るまで、その全てを観測し続けて来た彼女のみが知りうる太古の記憶である。

「地上と人を護る為に戦ったのに、か」

「地母神達の尽力もあったので人間が死に絶える事はありませんでしたが、文明を復興させられるかは危ないラインでした。……そんで、自分達がこのまま地上を統べていて良いのかと、疑問を持つようになって行ったんです」

「これは俺個人の意見だけど、死にかけの人類がやり直す為なら、神々の庇護は必要なんじゃないか?」

「それも確かに正しいですが、それではには変わりありません」

 淡々と語るアインの返答に、海斗は目を見張った。
 安寧と豊穣が約束された神の時代を脱却するべきか否か。
 古代から人間を庇護していた彼らにとっての、究極の二択。

「人は信仰を捧げ、神が神たりえる為に必要ですが、神がいなくても自然さえあれば人間は生きていく事が出来るんですよ。現状維持で良いのかと考えた結果──地上から去る事を選んでしまいました」

 腕を組み、呆れ果てたようにアインが言った。
 神々の選択に、心の底から異議を唱えたいといった様子だった。

「「選んでしまいました」って、今は人間達は普通に生きてるんだろ? なら、それはそれで良い事だと思うけど」

「だってコレ、「俺らの戦いのせいで色々とヤバイけど悪魔もう居ないし俺ら居ても人間成長しないから後は頑張ってくれ」って言ってるようなモンですよ? せめてシフト制で人間達のヘルプするぐらいしても良くないですか?」

「シフトって、バイトじゃ無いんだから……」

「まぁ、かくして神の時代は幕を降ろした訳ですよ。それ以降、彼らは天上世界から地上を見守ってますが……神々の時代の残滓としては、マナと呼ばれる物質が未だに残っているぐらいでしょうか」

「マナって確か、魔術やら魔法やらを使う時の燃料みたいなのだったよな。記憶が正しければ、一部の地域で信仰された神秘的な力って話だったけど」

「えぇ、貴方の言う通り、魔力の大元となる物質です。そこは貴方の知るマナと大差は無いみたいですね。ただ、こっちの地上にはマナを用いて魔術を用いる魔術師なんかもいるみたいですが」

「へぇ……って、ちょっと待って。それを扱う魔術師や冒険者がいるって事は、つまり──」

「無論、魔獣もいますよ。んな甘ったれたこと言ってんじゃねぇです」

「ですよね~……」

分かりやすくテンションが下がる海斗。
 異世界では平和に過ごせる、と心の何処かで思っていた自分を、海斗は即座に戒めた。
 犬から蛇、竜などの様々な姿を取り、とりわけ人類や文明に対して仇成す存在にして、英雄に討伐される異形である。
 落胆したように項垂れる海斗に対し、アインは笑みを浮かべながら、

「でもご安心下さい。異世界でも生きていけるように、私の方で最低限の調整はしますので」

「調整って……俺の身体を弄るってことか!?」

「正直な話、今のまま地上に行って魔獣に遭遇でもしたら、確実に死にます。ですので、そうならない様に身体とかその他諸々をこっちで弄らせて貰います。あぁ、リクエストは受け付けてませんので、そこはご了承下さいね」

 そう言うと、彼女の後方の空間に歪みが生じ、小さな孔が空く。
 何処かに繋がっていそうな穴の奥から、徐々に白い──否、映る景色全てを反射する銀色のシルエットが姿を顕わにする。
 彼女はソレの中心。武器で言う「柄」に相当するであろう部分を掴み、手渡した。

「それと、私から一応これも渡しておきますから」

「……何これ。剣?」

 海斗に手渡された物は、確かに「武器」だった。
 しかし奇妙な事に、本来であれば一つだけである筈の刃が、柄の部分から伸びた上下の両端に付いてる。真っ直ぐに突き立ててみると、その全長は自分の身の丈程あった。
 派手な装飾は無く、無骨といえば無骨だが、現実で使う事は殆ど無いであろう「両刃の剣」。
 メリットよりデメリットの方が多いと呼ばれる、殆どフィクションのみの物と言っていい武器だ。

「護身用の武器、金剛杵です」

 彼女はそれが何なのかを簡単に説明するが、彼の記憶にある物とは大きく食い違っていた。
 金剛杵は本来、仏教における仏尊が扱うとされる武器の一つ。
 あらゆる煩悩を砕き、魔性を祓うとされるモノだが、何より刀身を含めて自分の身の丈程の長さはなかった。

「──えっと、ごめん。金剛杵ってこんな形だったっけ?」

全てを鏡のように反射する刀身を見ながら、海斗は疑問を口にする。
 彼の記憶が正しければ、いくつかのバリエーションはあれど、基本的には手で握ると刃が少しだけ出る程度の大きさだった。
 更に言えば、これほどまでに長く鋭利な刃が付いていたかどうか怪しい。

「あぁそれ、貴方が連想してる金剛杵じゃなくて「インドラのヴァジュラ」です。それ」

「あぁ、なるほど。インドラのヴァジュラね……────は?」

 刹那、海斗の思考が止まる。
 彼女は海斗が手にしている代物が何であるかを端的に述べたに過ぎない。
 しかし、その伝承、性質について知る者にとって、放たれた言葉の衝撃は尋常では無い。

「いや「は?」じゃなくて、ヴァジュラですって。雨宮さんが重い浮かべてるのは仏尊達の物でしょうけど、それは実際にインドラが使っていた正真正銘のヴァジュラです」

「インドラ……って」

 アインから語られた神の名に、一瞬思考が停止する。
 それは、彼の住む日本でも比較的メジャーな神格であった。
 
 古代インドの神話において、かつては最高神として絶大な信仰を受けた雷霆を司る戦神。
 時代が変わり、主神が交替してからも「神々の王」として数多くの賛歌が捧げられる存在だ。

 そして、ヴァジュラは多くの説話の中において彼が用いた、インドラを象徴すると言っても過言では無い武器だった。

「いやいやいや!! どう考えてもオーバースペック過ぎるでしょ!?」

「大丈夫ですよ。別に勝手に使ったってバチは当たりません。神々に準ずる者として、そこだけは保証しますよ!」

「いや、そういう問題じゃなくて……!」

 ドヤ顔と共に親指を立てるアインに、やや呆れた様子で言葉を返す。

 異世界モノにはチートが付き物という風潮こそあった。
 だが実際問題、現実でそれが本当かは分からない。神の武器をただの人間が扱える、そんな美味しい話があるのかと若干疑う自分もいた。
 項垂れる海斗は頭を上げ、アインを見ながら問いかける。

「……貰えるのは有難いけど、俺みたいなただの人間が扱っていい代物なのかよ?」

 不満げな声で、問いかけた。
 美味しい話には裏があるのが常だ。確実に何かデメリット、或いは呪い紛いの類があっても不思議ではない。
 すると、アインは少し考える素振りを見せた後に、

「普通に使う分には特に問題は無いでしょう。単純に身を護る為だけに使うならば。ね」

「ん。なんか含みのある言い方だな……」

「勿論です。ヴァジュラはインドラを象徴する神の兵器。それに備わっている本来の力を引き出すなんて事は余程の者では無い限りはまず不可能ですし、もし貴方が使えたとしても、肉体の方が負荷に耐えられませんから」

 ボソっとそんな事を呟いたのが聞こえていたのか、アインは補足するように言葉を連ねる。

「使う使わないは貴方の自由ですが、それが死を招くかもしれないという事だけは念頭に入れておいてください」

 刺すような視線と共に、アインは海斗に告げる。
 それは禁忌であり、人が上位の存在である神の力を安易に振るってはいけないという強い戒めだった。
 聖書の中に記される十戒においては、人は神の名を安易に口にしてはいけないのだという。
 本質的にはそれと同じの様に思える。

「ただ、そうですね。どうせ使うのなら、神無き時代を生きる人々の為に……あなたがこの先出会う人たちのために、神の遺産を使って下さい。その方が、天にいる神も喜ぶでしょうから」

 少し表情を緩め、微笑みを浮かべるアイン。
 この場所から地上を観測し続けて来た彼女は、海斗が思っている以上に人間のことを気にかけている。
 神のいない世界。
 いかなる苦難、脅威が立ちはだかろうと、今を生きる人々は自分たちの力だけで突き進んでいくしかない。
 アインは海斗に対し、ヴァジュラをその「手助け」として使ってくれと語ったのだ。

「方法は簡単です。ただ一言──"テウルギア"、そう唱えて下さい」

「……」

 握り締めた諸刃の剣を見つめながら、彼女の言葉を強く心に刻み込む。
 自分に与えられたのは神の兵器。あまりにも自分の身に余る力──俗に言う「チート」に分類されるものである事は、火を見るよりも明らかだった。
 身を護る為の武器だが、使えば死が待ち受けている。どんな矛盾だとツッコみたくもなるが、海斗は寸での所で抑えて、

「……分かった。有難く借りる事にするよ」

 視線を再びアインへと戻し、感謝を述べる。
 その言葉を聞き届けた彼女はうっすらと笑みを浮かべ

「という事は、異世界に行く事を受け入れるという事で大丈夫ですね?」

「あぁ。というか、「行く」以外の選択肢なんて、最初から用意されて無いんだろ?」

「おっ、分かってるじゃないですか。────でも、大丈夫です。持ってて良かったって思う日が、きっと来ますから」

 語りつつ、彼女はゆっくりと掌を翳す。
 その動作に空間全体が呼応するように、足元の水面の上に幾何学模様が形成され、蒼白い光が発生する。

「此処に契約は成されました。次なる世界では、そうですね……アウラとでも名乗って下さい。日本名ではちょっと不自然でしょうし」

「アウラ、か……名前くれるのは有難いけど、なんか意味とか──」

「名前の意味は特に無いです。今考えました」

「いや雑!!」

 食い気味にツッコむ海斗。
 真面目なのか不真面目なのか分からない自称天使。
 短い間の対話だったが、掴みどころのない性格だという事だけはハッキリと理解できた。

「縁があれば、また会う事もあるでしょう」

「何それ、また俺が死ぬだろうって事!?」

「さあ? それは貴方の異界での生き方次第ですよ」

 はぐらかすように言葉を返す。
 光は徐々に強くなっていき、視界が飲まれて行く。気が付けば彼女の姿も見えなくなっていた。
 引き返す事は出来ない。家族や友人に何も言えなかった事が後悔だが、それは叶わない。
 ならせめて、次は後悔しないような選択を。


「────光あれ。どうか貴方の旅路に、万軍の加護があらん事を」


 旅路の無事を祈るかの如き、祝福の言葉。
 その文言を聞いたのを最後に、彼の意識は再びプツりと途切れた。
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