4.201号室、見合いの小旅行 4
戻ってきた田衛門は、どうなっているのか喉を膨らませている。それから、げこげこ、と数度鳴いた後で、ゆったりと自分の席に腰を下ろした。
人の形をしただけの蛙だ。
皓子は失礼だとは思ったが、ついついその様子を眺めてしまう。
だが、向こうも同じだったようで、田衛門も戻ってきて座るなりじろじろとこちらを見ている。
検分するような、舐めるような視線だ。おかしいところでもあるだろうかと緊張してしまう。ぎょろりとした黄色の丸目玉は、黒い瞳孔が横に開いており忙しなく動いている。
「そちらの。水茂様の友、淡紅とやら」
身構えていれば、案の定話しかけられた。人間でいうと中年男性に見える田衛門は外見に見合った渋い声だ。
「はい」
皓子が応えれば、田衛門は「楽を」と言った。
「楽、ですか」
「笛をたしなむと申しておったろう。腕前はいかほどか。ぜひ、お聴かせ願いたい」
どうしようかと膝元に置いてある笛を見る。さっそく又三郎の土産が役立ちそうだ。ほっとしながら両手で握り持つ。
(……吹いて、いいかな)
そろりとアリヤを見るが、首を傾げられた。そうこうしている間に急かされる。
「我は楽が好きでな。さ、さ。早う、遠慮などいらぬ」
「では、あの、お耳汚しを失礼します」
皓子は、おそるおそる笛に口を付けてひと吹きしてみた。
軽やかで天まで抜けるような。
高音から深く包み込むような低音までよく鳴る。この調子ならなんとかなりそうだ。
音階を気をつけながら、吉祥の悪魔的な指導に基づいて身についた曲を一つ奏でてみる。小学校で聞いた覚えのある、ふるさとを思うやさしい童謡だ。
緊張して指がつりそうになるが、どうにか堪えて吹き続ければ、笛の音に合わせてゲコゲコケロケロと鳴く声がした。
(よ、喜んでいる、のかな? いいの、よね?)
よくわからないながらに、最後まで吹ききって笛を膝に下ろす。
すると、満足そうな様子の田衛門が皓子に笑いかけた。
「うむ、珍しい曲だ。大義である」
「ありがとうございます」
「ところで、そなたはそちらのオス……松葉、と言ったか。その者とはつがいか?」
「つがい……」
アリヤを見るが、じ、と見返されただけだ。
これは肯定していいものか。不興を買う可能性もある。
(女好きという話だったし、なるべく愛想よくしておけば考えてることも出てくるかも。それなら、うん)
皓子は田衛門を見て、否定を選んだ。愛想よく返事をする。
「いえ、彼は心配して来てくれた人で」
「なれば、オスと争い勝ち取るということもしなくてよいと」
「は、はあ」
「水茂様との話は、まだ結果は見えてはおらなんだが。我は新たな後妻のほかに子らの世話をする者も、その嫁もついでと手広く探しておる」
「はあ……」
なんだか話が怪しい方向になってきた。機嫌よく話す田衛門の言葉は止まらない。
「淡紅よ、そなたの楽を奏でる腕はまだまだ伸びしろがある。どうじゃ、我らの巣へ参らぬか」
「え」
ずいずいと田衛門が机越しに前のめりに近寄ってくる。
大きながま口が横に伸びて、唇の間から長い舌が見えた。思わず、皓子は座ったまま後ろに下がる。
じりじりにじり寄る姿は、皓子にとっては怯んでしまうものだ。しかし、同時に困惑していた。
(害意、や敵意ではなくて、好意? でも、何か、嫌な感じがする……)
「いかがか、淡紅」
かと思えば、するりと腰元に腕が回った。は、と腕の主を見る。アリヤだ。
「皓子ちゃん、駄目だよ。口には気をつけないと」
声を潜めてアリヤが言う。耳に当たる声がくすぐったい。
「悪意がないから平気ってわけじゃないの、わかる? 良かれと思って、やらかすヤツはいるんだよ」
妙に実感がこもった言葉である。
皓子は目を白黒させながらうなずく。それから、アリヤは一つ小さく息を吐いてから、田衛門へと言った。
「彼女は、俺が口説いているので。横入りはやめていただけると」
「うむ……? だが淡紅はそうでないと」
「恥ずかしがり屋で奥ゆかしい女性なので」
「だが」
「ご遠慮願います」
きっぱりと告げて、腰元に回した腕に力を入れてくる。
顔が見えていたなら、おそらく貼り付けたような有無を言わさぬ笑顔なのだろうと予想ができた。
「ではオス同士でメスを奪い合うための戦いを」
「彼女は、争いごとが苦手なので。そういう輩は好まれません」
「ぬ……そ、そうか」
田衛門はあからさまにがっかりした様子で皓子を見てくる。
「それに、この見合いは泉源様が用意したのでしょう。勝手をすればお怒りを買うのでは?」
「ぬぬ、一理ある」
(おお……丸め込んだ)
淡々と指摘したアリヤに、渋々ながら田衛門がうなずく。腰を元の席に落ち着けたところで、また新たな騒動のもとが現われた。
ばん、と突き抜けるような乱暴な音を立てて襖が開いた。
見れば、怒り心頭の穂灯が立っている。
あからさまに機嫌悪く大股で席に戻るが、その怒りにあわせて人の形から飛び出た耳や尻尾がばさばさと動く。
出て行く前とくらべて、ずいぶんと狐寄りの姿に戻っている。細面の顔にいたっては、目はつり上がり、伸びた鼻をすんと動かしている。
盗み聞くつもりはないが、ぶつぶつと「あのずる賢しい獣め」だとか「いやらしい媚びを売って」だとかが耳に入ってくる。寄りそったままのアリヤの体に緊張が走っているのか、ぐ、と腰元の指先に力が入ったのがわかった。
感情の高ぶりをそのまま表したかのように、穂灯の周囲に赤や橙の火が灯って浮かぶ。
迷惑そうに田衛門が一声鳴いた。
「失敬」
つゆともそう思ってなさそうな声で、穂灯が言う。
場の空気は悪い。知れず、持っていた笛を握りしめる。
こちらに敵意は向けてはいないものの、居心地が悪い。近くに居るアリヤの体温がありがたく感じるほどだ。
(このままじゃ、まずい空気だし……よし)
皓子の力の使いどころだ。害意や敵意を緩め、緊張を和らげるならば、今ここに居る誰よりも皓子が適任だった。
一つ息を吐いて、吸って、皓子はまず隣のアリヤへと声をかけた。
「あのね、ちょっといいかな」
そっと言えば、アリヤの顔がこちらを向く。
「なにか話でもしよっか」
「……え?」
「待っている間も、暇じゃない?」
「ええ?」
暇だからと言ってこの最悪に近い空気の中で団らんをしろというのか。本気か。
そんなアリヤの声が聞こえてきそうだ。
皓子の想像だが、大体あっているのだろう。
だが、あえて気にした風もせず、「そうだねえ」と続ける。急な皓子の発言に、田衛門も穂灯もわずかに反応してこちらを注目しているのを感じながら、言葉を選ぶ。
「来月、私の学校は球技大会があるんだあ」
「続けるんだ……あ、うん。球技大会。俺のとこもあるかな」
普段あれだけの視線を受けてるから動じないのだろうか。話題を振れば、ぎこちなく応えてくれる。
そういうところは律儀で人が良い。無視をすることだってできるのに。
「私のところはバスケと卓球とドッジだったんだ。それでね、ドッジに入ったんだけど」
「……狙われなかった?」
すこし間を開けてアリヤが聞く。皓子はわざと明るく「そう」と言った。
「ぜんぜん狙われないから、異名つけられちゃった。人呼んで、無敵の女」
「似合わないね」
「ふふふ、私の球技大会の勇姿を見たら、同じように思うかもしれないよ。あ、でも。純粋に勝負だとか親しみを込めてくれた人は普通に当たるから、そこが気をつけなきゃいけないところなんだけどねえ」
「そっか」
言いながら、余計なことまで思い出してしまった。
なんであの子ばっかり贔屓してるの。
こっそりと、そんな言葉を皓子に呟いてきた女の子。
珍しいと思っていたのに、その敵意は相手がボールを向けた瞬間、人が変わったように笑いながらスローボールを投げてきた。わかっていたことだったが、気まずくてしょうがなかった。
通り過ぎていた苦さが思い返したことで込み上がってきたが、口の中で飲み込んで、蓋をする。不審に思われないように、おどけたように言う。
「そっちは、どう? 球技大会」
「俺?」
いつの間にか腰元にあった腕は離れて、近くに座布団を寄せて座るだけになっている。良い感じに緊張が緩んだのだろうか。それなら良いと思いながら、話を続ける。
アリヤはやや考えてから、話題に乗ってきてくれた。
「……ソフトボールとバレーとバドでどれか選ぶはずなのに、クラスのやつにバレー入れって言われたんだよね」
「へえ、得意なんだ」
「全然……いや、ちょっとは、できるけど。苦手だよ」
「そうなんだ。あ、狙われるから?」
「うん、そう。めちゃくちゃアタック飛んでくる。ローテで俺が前衛に出てもずっと狙ってくるから。めっちゃくちゃ好かれてるね、俺」
「そりゃあ人気者だあ。分かる気がする」
思わず笑ってしまうと、アリヤがぴたっと止まった。
「ねえ、あのさ」
「もしかして、話したくないことだった?」
「いや、そうじゃないけど……」
わざとらしい大きな息を吐いて、アリヤが居住まいを崩す。
さあ次は、と対面を向く。田衛門はアリヤの様子に何かわかったような顔をしていた。又三郎が言っていたことを思い出す。
――ガマの旦那のほうがよほどマシ。
少なくとも、隣でわけのわからない顔をしている穂灯よりは皓子たちのことについて理解していそうだ。
それならば。
「穂灯さまは、お狐様なのですね」
今の穂灯の顔は七割くらい狐だ。
ミュージカルで見たことがあるような特殊メイクをした感じに近い。指摘をすれば、あわてて両手で顔を撫でて、最初に見た人間の顔に戻した。
「これは、お恥ずかしい。未熟を晒しまして」
「いいえ。狐、実は私、よく見たことがなくって。新鮮です。むしろ眼福でした」
「そ、そうですか」
口元がもにょもにょと動いている。まだ隠れていない尻尾がゆらりと揺れた。まんざらでもなさそうだ。
堂々とした田衛門や話し上手の又三郎と比べると、素直に表情が動く。若造と言っていたことから、年若い化け狐なのだろうなと思わせた。
「はい、私の地元ではあまりいないようで。狸のほうがよく見ます」
「狸!」
なんてことだ、と続けそうな声で穂灯の背筋が伸びた。
「やや、いけませんいけません。やつらはああ見えて、狡猾ですからね。淡紅殿も気をつけるとよろしい」
「たしかに。狸はなあ……年を重ねるほど厄介なものだわい」
同意をした田衛門に、穂灯が何度もうなずいた。
「そうでしょうとも。かく言うわたくしもですな、強突く張りの左兵衛狸めにだまされ、土地を追い出されまして。こうして新たな土地を得るべく、わたくし一人飛び出し、方々駆け回る次第なのです。おかげさまで、立派な化け狐になれましたがね、あの狸には恨みこそすれ感謝などしませんよ」
あれだけ一生懸命であったのは、こういった理由があったのか。
とはいえ、又三郎を見下して高慢な態度をしたことには変わらない。
だが、住む場所に追われて、一人がんばらざるを得なかったというのは、皓子の同情心に引っかかった。
皓子も祖母がいなくて、父から手放されたなら今頃どうしていたかわからない。親近感がわけば、ちょっぴりだけ優しい気持ちになれた。
「穂灯さまは、がんばられたのですね」
「はい。生きていくためにですがね」
「とても立派だと思います。その努力がこの場によばれた切っ掛けなのかもしれませんね」
褒め言葉を送れば、シャープな輪郭の頬に朱が差した。
「淡紅殿は、お優しくていらっしゃる」
「そうでしょうか」
打算もあるのだが。
首を傾げれば、ほほほ、と笑われた。すっかり怒り心頭ではなくなったことに安心する。
苛々していた穂灯が落ち着けば、場の空気も和らいだ。
田衛門も先ほどの狸の話を振って、いざとなれば力になろうかと声をかけるほどだ。
皓子を巣に誘うことには驚いてしまったが、義理人情にあふれる性格でもあるらしい。悪い人、いや、悪い神様ではないのだろう。
「皓子ちゃん、俺のこと言えないからね」
緩んだ空気の中で、ぼそりとアリヤが呟く。
「松葉、こうこちゃんとやらは、淡紅の特別な呼び名か?」
「なれば、わたくしもお呼びしたく……」
その言葉に反応した田衛門と穂灯にアリヤはそっぽを向いて知らないふりをした。
それならばとばかりに、皓子のほうをなんだか気安くなった二人が見てくる。
なんと言えばいいのか困った末、是とも否ともとれるような曖昧な返事を、皓子はしてしまったのだった。