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作者: こむらまこと
1-1. 山下公園 バラが咲く庭
 11月初旬。横浜は山下公園、秋バラが咲き誇る小さな庭園のベンチに、三本部海洋怪異対策室室長・九鬼龍蔵が仏頂面で腰掛けていた。
『あの男の人、とっても大きいわねえ』
『霊力もすごいわあ』
『厭らしいまじないの匂いもしないし』
 ベンチからやや離れた秋バラの茂みからは、葉擦れの音に似た精霊たちの囁き声がそよそよと伝わってくる。
 190cmの高身長に、寄る年波など微塵も感じさせない筋骨隆々とした逞しい肉体。加えて、およそ人間のものとは思えぬほどの潤沢かつ良質な霊力が全身に漲っており、ただそこに居るだけで精霊たちの注目の的になるのは無理からぬ事だった。
『でも、顔がおっかないのが残念ね。あの顔で睨まれたら動けなくなっちゃいそう』
『そいで、そのまま捕まっちゃったりして!』
『キャーッ!』
『コワーイ!』
 九鬼から害意が感じられないを良い事に、無邪気ではばかりを知らない精霊たちは、茂みをガサゴソと揺らしながら言いたい放題に言い合う。
『ねえねえ、試しに話しかけてみましょうよ。ほら、人間がやる肝試しってやつ』
『あたしはイヤよ! あなた独りでやってご覧なさいな』
『何よ、イジワル!』
『誰がイジワルですって!』
 九鬼が聞いている事を知ってか知らずか、はたまたそんな事はどうでも良いのか、かしましい葉擦れの音はどんどんとヒートアップしていく。
(これは、場所を変えた方が良さそうだな)
 九鬼は太い親指で眉間を揉むと、岩のような巨体をのっそりと持ち上げてその場を離れようとした。
「やあ。待たせてしまって済まない」
 葉擦れの音がピタリと止んだ。
 周囲の音が遠ざかり、グルマンノートの甘い香りが九鬼の鼻孔を小さくくすぐる。
花家はないえ
 九鬼はベンチに座り直すと、身体をずらしてスペースを空けた。花家と呼ばれた男はベンチの端に腰掛けると、懐から何かを取り出して口に咥えようとする。
「おい、禁煙だぞ」
「おっと」
 九鬼の注意を受け、花家は口から加熱式タバコを離して懐に戻した。
「分かってはいるんだけど、つい癖でね」
「差し出がましいようだが、警視の立場にある人間として、もう少しくらい部下たちの模範となるべき勤務態度というものを意識してみても良いんじゃないのか」
「それは無茶振りというものだよ」
 花家は手袋をした両手を広げると、大仰おおぎょうに肩を竦めた。
「あの一癖も二癖もあり過ぎる個性豊かな対策課の面子メンツを従えるにはね、とてもじゃないが堅物警察官なんかじゃいられないのさ」
「俺には、愉しんでやっているようにしか見えないがな」
 九鬼は腕まくりをした腕を組むと、花家の出で立ちをジロジロと眺め渡した。
 ダークグリーンのオーダースーツと派手なストライプ柄のネクタイに、ロングノーズの小洒落た革靴。ウルフロングの黒髪にはグレーのボーラーハットを乗せ、九鬼よりも線の細い手はダークブラウンのエレガントな手袋で覆われている。
 県警怪異対策課課長・花家桂馬。それが、誰がどう見ても警察官には見えない、奇術師や詐欺師とでも言われた方が納得してしまう怪しげな風体をしたこの男の肩書と名前だった。
「まあまあ、そう堅苦しい事は言わずにさ」
 花家は九鬼の小言を軽く受け流すと、ビジネスバッグの中から角2の封筒を取り出して九鬼に手渡した。
「三浦の件の捜査資料だ。先に言っておくと、小泉の行方はまだ掴めていない」
「うむ」
 九鬼は捜査資料に目を走らせながら、角ばった顎を撫でて小さく唸る。
「親族や組員の証言も勘案すると、いよいよ喰われたとしか考えられんな」
「例によって、証拠は全く出てこないけどさ」
「跡形もなく喰い尽くしているのだから、当然と言えば当然か」
 捜査資料の行方不明者一覧を目で追いながら、九鬼は眉間に寄せた皺を更に深くした。
 去る8月に起きた牛鬼と濡女の一件以降、九鬼は県警怪異対策課に足繁く通い、情報収集にいそしんできた。普段は海保が関わってくる事を良しとしない警察も、怪異を利用した大胆かつ悪質な「犯罪」の存在が九鬼からもたらされた事により、この案件に関しては九鬼の協力を積極的に受け入れ、捜査情報の共有もある程度は容認していた。
「それでも、小泉の場合は親族が割合協力的だったからやり易かったみたいだよ。他の組員や密漁者なんか、未だに行方不明者届を出さないような親族が何人もいるっていう話だから」
 小泉というのは、横須賀に存在する二大勢力のうち、「鷹取会」の次期会長候補と目されていた男である。かつての鷹取会会長・笹倉公平を牛鬼・野分のわきに差し出し、その後も笹倉公平に擬態した野分を陰になり日向になりして助けていたという重要人物だったが、野分が牛魔王への〈変質オルタレーション〉を果たした夜を境に、ようとして行方が知れなくなっていた。
「そういえば、ひとつ面白い事が分かったよ」
 花家が、色素の薄い唇に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「松越組から消えた田中って男だけど、どうやら金を持ち逃げしてたらしい。最近になって、組長が捜査員に渋々打ち明けたって」
「なるほどな」
 九鬼は、松越組組長の邸宅を訪れた時の記憶を振り返って得心した。信頼していた部下による手酷い裏切りが発覚したほんの数時間後に、海上保安官が聞き込みにやってきたのだ。殺気立った雰囲気になるのは当然と言えた。
「だが、全体として調査は難航していると言わざるを得ない」
 花家が、口許から笑みを消した。人差し指を真っ直ぐに立てると、右に左にゆっくりと動かす。
「いくら裏とはいえ、少なくない数の人間が消えてるんだ。普通は、何かしらの痕跡が残ってるはずなんだけどねえ」
 前提として、例え背後にいるのが人間だったとしても、「犯行」の手段として怪異や妖、呪術などを用いていた場合、それは法に定めるところの犯罪にはならない。何故なら、それらは非科学的な存在であり、かつ霊力の少ない人間には認識不可能な、即ち存在しないも同然の存在だからだ。
 ただし、まじないを実行する過程で何かしらの法を犯していた場合、それらを取り締まる事によって「行き過ぎた」行為に釘を刺す事は可能である。分かりやすい例を挙げると、呪符を貼るために他人の敷地に立ち入った場合は住居侵入罪、神社の樹木に藁人形を打ち付けたら器物損壊罪といった具合である。
 しかし、牛鬼と濡女の一件においては、その手の小さな不法行為の痕跡は、3ヶ月近く経った現在も発見に至っていなかった。
「8月に急に閉店した〈翠雲山〉ってクラブにしてもさ、その牛鬼の相手をしてた〈羅刹女〉についての記録が不自然なほど残っていなくてね。やっとこさ元従業員を探し当てたと思っても大した情報は持ってないし、これはいよいよ対策課の領分になりそうなんだけど」
「止めておいた方がいい。まず間違いなく感知される」
「だよねえ」
 花家は人差し指で帽子のツバを上げると、ニッコリと笑って九鬼を見た。
「んじゃ、後は海異対にお任せするよ。俺ら対策課は、必要になった時に呼んでくれればいいから」
「…………」
「あれ、駄目?」
「そうじゃない」
 目をぱちくりさせる花家に、九鬼は武骨な手を軽く振った。
「そんなにあっさりと我々にヤマを譲ってしまって平気なのかと思っただけだ」
「なんだ、そんな事」
 花家が、さも可笑しそうに肩を揺すった。
「俺は、海保と警察の縄張り争いには何の興味も無いから。それに、現世うつしよにしろ幽世かくりよにしろ、海の世界は勝手が違い過ぎる。餅は餅屋って言うし、ここは専門家に任せるのが賢い選択だろ?」
「……確かに、あそこの立地は海に不慣れな者にはひどく不親切だからな」
 九鬼は、捜査資料を封筒に入れ直すと花家に返却した。
「そういう事なら、後は我々が引き受けよう。部下共々、今のうちに海の幽世に慣れておいてくれ」
「参ったなあ。あいつら、素直に海水浴してくれる気がしないんだけど。あ、そういえば」
 九鬼から返された捜査資料をビジネスバッグに仕舞いながら、花家がと思い出した顔をした。
「何だ?」
「風間紀良だよ。あのおっさん、今どこに居るか知らない? ちょいと聞きたい事があってだな」
 風間紀良は、九鬼が牛鬼と濡女の一件を通じて知り合った呪術師である。管狐の使役を得意としているが、手に負えない案件は迷わず放棄し行方をくらますという潔さと無責任さを持ち合わせている。
「前回、話した通りだ。しばらく関東には戻らないと言っていたし、俺も行き先は聞いていない」
「本当に?」
「お前に嘘を吐いても意味無いだろう」
 探るように見つめる薄茶色の瞳を、九鬼は眼力を込めて睨み付ける。
「必要なら、今ここで風間氏に連絡してみるが」
「いいよ。気を悪くさせてしまって済まない」
 花家が、ベンチから立ち上がった。
 秋の薄い日差しが、花家の足元にか細い影を落とす。
「もう行くのか」
「実は、途中で抜けてきたんだよ。あいつら、俺がいないとすぐにキャットファイトを始めるからさ」
「それは早く行ってやれ」
「んじゃ、また連絡よろしく」
 花家がその場を去ると、周囲に音が戻ってきた。グルマンノートの甘い香りは秋のそよ風に霧散し、秋バラの茂みでは精霊たちが興奮気味に囁き声を交わす。
 九鬼はベンチに座ったまま、半眼になって鼻の下に指を当てた。
(初めて会った時より強くなっている気がするが……。他人の俺が立ち入るべき話ではないな)
 たっぷり1分が過ぎるのを待ってから、九鬼はベンチから立ち上がった。小さな庭園を早足で抜けて海に面した遊歩道に出ると、ようやくスマホを取り出して通知を確認する。
(村上はまだ対応中か)
 九鬼はスマホから顔を上げると、大さん橋の向こう側にある開港波止場の方向に目を向けた。
(よもや、人間の子供が龍宮城に出入りし化外の者たちと親交を持つという、漫画やアニメのような話が現実に存在したとはな)
 九鬼は、海鳥が飛び交う穏やかな海面に視線を移した。
 幽世との距離が近過ぎる、ましてや一般市民の彼女と海異対の人間が業務の範囲外で交流を深めるのは、九鬼としては気が進まないというのが正直なところである。しかし、本人の熱烈な希望があり、かつ受ける側も乗り気となれば、そこに九鬼が口を挟む余地など無い。
(とにかく、奴の魔の手からは何がなんでも死守せねば)
 九鬼は、鼻持ちならない上官の声を脳内から追い出すと、秋バラが咲き誇る山下公園を去っていった。
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