1-6.再び 横浜港の龍宮城
「それでは、私はこれにて」
潮路が一礼して扉を閉めると、だだっ広い板敷の広間には、カナと蘇芳の2人だけが残った。
潮路の気配が広間から遠ざかるのを感じながら、大人の姿になったカナは、壇上から降りた状態で自分を迎えた蘇芳と静かに相対する。
蘇芳の立ち姿は、この海の絶対的支配者たる龍神の名に恥じない威風堂々としたものだった。軽く2メートルを上回る高身長に、均整のとれた筋骨逞しい肉体。踝までの長さがある美しい蘇芳色の髪は金銀の髪飾りでざっくりと編み込まれ、中華風の衣装と豪奢な宝飾類が、内面から滲み出る王者然とした風格を見事に装飾している。
しかし、美丈夫という言葉が相応しいその面に浮かぶのは、王者らしからぬ畏まった態度だった。
「…………」
蘇芳が、神霊力を持つ神の証である黄金色の瞳を慎ましやかに伏せた。そして、右手で拳を作り、その拳に左手を被せる「拱手礼」の姿勢をとると、カナに対して恭しく頭を下げたのである。
「心よりお待ち申し上げておりました、〈母なる海〉よ」
周囲の海水が、ざんとさざめいた。
「――――」
〈母なる海〉と呼ばれた人魚の白髪が何かの生き物のようにざわつき、金色の瞳の中央にある漆黒の瞳孔がすうっと糸のように細くなる。
得体の知れない気配が広間の海水を隅々まで満たそうとする中、蘇芳は朗々とした声で口上を述べていく。
「天地開闢より後、幾千億の有情らが生命の根源たる海より見出し、想いを重ねてきた、豊穣の象徴としての母という概念、その表象と心象。その膨大な集積の果てに魂が生じ、顕現した存在……」
蘇芳は一旦言葉を切ると、顔を上げてカナを見た。その黄金色の瞳には、配下たちにはまず見せることのない、思慕の情が表れている。
「それが、現在は幼子の姿でカナと名乗る貴方様の、本当のお姿でありましょう」
「…………母。母、のう」
海水のさざめきが、ふいに消失した。ざわついていた白髪は動きを止め、漆黒の瞳孔は元通りに円くなる。
カナは、期待を込めて自分を見つめる蘇芳から視線を外すと、自分の肉体をまじまじと見下ろしてみた。
確かに、今のカナの外見は、蘇芳の言うところの「豊穣の象徴としての母」の特徴をいくつも兼ね備えていた。おおよそ40代後半の豊満な乳房を持った女性の上半身に、ウェーブのかかった腰までの豊かな白髪。肉付きは全体的にふくよかで、腰のくびれからクジラの下半身にかけての輪郭は大胆かつ魅惑的な流線形を描いている。
しかし、当のカナとしては、蘇芳が申し述べた内容をすんなりと認める気にはなれなかった。
カナは視線を蘇芳に戻すと、いかにも不服そうな顔つきで唇を曲げてみせた。
「わしはな。古往今来、誰かの『母』になった覚えは、ただの一度たりとて無い。人が、神が、わしを勝手に母と呼ぶに過ぎぬ」
豊かな乳房を押さえつけるようにして腕を組み、片眉を吊り上げて蘇芳に問いかける。
「して、お前さんはわしを何と呼ぶ?」
「恐れながら申し上げます」
蘇芳は再び頭を下げると、己が望みを躊躇いなく口にした。
「御母上とお呼びさせていただきとうございます」
「その心は?」
カナが眉間の皺をますます深くする一方、蘇芳は拱手を保ったまま一層深く頭を下げる。
「千古の闇に生じ、この海を統べる龍神として永き時を孤高に在り続けた我が身にとって、海は単なる住処というだけに留まらず、生誕の地であり故郷であり、我が心の寄る辺でもあります」
「…………」
「無論、龍神である私めと〈母なる海〉である貴方様の間には、現世に生きる有情たちのような血の縁など存在し得ません。しかし、この身を育み、包容し続けてきた偉大なる海、その化身とも言える貴方様には、人の子がその母に対して向けるような素朴な敬愛の念を抱かずにはいられないのです」
蘇芳が口を閉じると、だだっ広い板敷の広間には海水がたゆたう静かな音が戻ってきた。
カナは、自分に向かって頭を下げ続ける蘇芳の頭頂部を眺めながら、自分が蘇芳に対して投げ遣りな気分になってきていることを自覚する。
(いくつか、突っ込み所が無いわけでも無かったが……)
知り合ってたったの数ヶ月、それも、直接言葉を交わすのは今日が初めてという相手からの頼み事としては、大いに暑苦しく感じるというのが率直な感想である。とはいえ、相手が神霊力を持った神である以上、ここで素気ない対応をとれば、2つの世界を巻き込んだ面倒事に発展する可能性も充分に考えられた。
(龍神の機嫌は、現世の気象や海象とある程度は連動していたはず。こやつの頼みを無下にしてこの街の人間共を困らせるのは、ちと気の毒な気もするのう)
こうした逡巡の果てに、カナはわざとらしく盛大な溜め息を吐いてみせると、つっけんどんな声で言い放ったのだった。
「勝手にせい!」
「感謝いたします」
蘇芳が、やっとの事で拱手を解いて身体を起こした。男らしく勇ましいその面立ちには、それこそ人間の子供が母親に向けるような安堵の表情を浮かべている。
(とことん謙っているようでいて、その実、何がなんでも己の欲求を押し通さんとする我の強さ。わしを慕う感情は本物なだけに、相当に質が悪いと言えるのう)
カナは、この龍神からの溺愛を幼少期から現在に至るまで受け続けるまりかの身の上を思い起こし、その心情を慮るのであった。
ベルベットの寝椅子にクジラの長身を横たえ、美酒が注がれた盃を口に運んでいると、同じく盃を傾けていた蘇芳がおもむろに切り出してきた。
「おいでになったのは、まりかの件でありましょう?」
「うむ。というか、そもそもはお前さんが呼びつけたのじゃろう」
カナは盃から口を離すと、さっさと本題に入れと顎をしゃくった。蘇芳にしても、「母」に対してくどくど御託を並べ立てるつもりはないらしく、海の幸が山と盛られた脚付き膳に盃を置くと、口の中で小さく何かを唱えた。
すると、互いの膳を挟んで向かい合うカナと蘇芳の間に、螺鈿細工が施された漆塗りの小箱が出現する。
カナが静観する中、蘇芳は蓋も継ぎ目も見当たらない奇妙な小箱に手を翳すと、再び小さく何かを唱えた。
小箱の側面を蘇芳色の閃光が走り抜け、上半分がゆっくりと持ち上がり、何人たりとも開けることの叶わぬ小箱の中身が露わになる。
「なんじゃい、これは」
「これらは、まりかの両親から託されたものです」
小箱の中に収められていたのは、白色の産着と小さな桐箱、そして、二つ折りにされた一枚のメモ書きだった。
「桐箱に入っているのは、まりかの臍の緒です。これに関しては、まりかが保護されて数日後に取れたものだと聞いています」
「すると、その人形に着せるような小さな服と紙切れは……」
「お察しの通り、どちらの品も、赤ちゃんポストに捨て置かれていたまりかが身に着けていた、唯一のものになります」
蘇芳は、男らしい太い眉を悩ましげに寄せると、まりかとの出会いについて語り始めた。
「朝霧エリカ、あの風の乙女が、幼いまりかを連れてこの龍宮城を訪れたのが、全ての始まりでした――」
人間の愛を受けて実体を得た風の精霊と、人間の子供。常に退屈しのぎを求めている蘇芳にとって、この二者が母娘関係を名乗っているという事実だけでも、謁見を許可する理由としては充分なものだった。
初めて訪れる幽世の深い海や龍宮城に目を輝かせるまりかとは対象的に、思い詰めた表情をしたエリカは、遠方の銘酒や銘菓などの珍しい品々を供物として捧げると、平身低頭、救いを求める言葉を口にした。
『横浜の海を統べたもう寛大なる心の龍神・蘇芳よ、どうか我が娘を助けていただけないでしょうか』
『まあ、そうだな。とにかく事情を聞かないことには何も分からぬからな、全部話してみろ』
このようにして、エリカは蘇芳の許可を得ると、赤子だったまりかを夫である朝霧利雄と共に引き取った経緯や、日増しに強くなるまりかの霊力、誰に教わるでもなく彷徨える魂を海へと導いてしまった出来事、まりかの霊力を風の精霊の力で抑えようにも限界がある事などを切々と訴えた。
「もしも、下らない願い事を口にしようものなら、供物だけを受け取って追い返すつもりでした。しかし、エリカの話を聴くうちに、これはただ事ではないと感じたため、まりかの身体を隅々まで検分してみることにしたのです」
蘇芳は、まりかの肉体や幽体、魂の状態から始まり、霊力の量や質、肉体と霊的次元とを繋ぐチャクラの働き、エリカが注いだ風の精霊の力との相互作用についてなどの多様な項目を、神霊力を駆使して徹底的に調べ上げた。
その結果、まりかの強過ぎる霊力や並外れて高機能なチャクラ、加えて、それらを抑制しようとする風の精霊の力が、幼い身体に重い負担となりつつある事が判明したのである。
『精霊……、朝霧エリカと言うたか。このような無理な抑え方をしていては、この娘は遠からぬうちに心身に不調をきたしてしまうぞ』
このままではまりかの生命が危ういと判断した蘇芳は、神霊力を用いて7つある全てのチャクラに制限をかけた。その上で、経過観察のため今後も定期的に龍宮城に通うようにと命令したのである。
「ふうむ、なるほどのう」
カナは、小鉢に盛られたホタルイカの沖漬けを呑み込むと、盃を持った手で小箱の中身を示した。
「して、その桐箱やら何やらは、どういった理由でお前さんの預かりとなっておるのじゃ」
「これらをエリカより託されたのは、2回目の訪問の折でした」
蘇芳が、小箱に向かって軽く手を差し伸べた。
小箱が音もなく滑り出し、カナの目の前で停止する。
「人間の家屋で保管するより、龍宮城で私の管理下に置く方が遥かに安全だろうと、そのように朝霧利雄と話し合ったと言っておりましたな」
「安全? それはどういう意味じゃ」
カナが、盃を膳に置いた。空になった盃には瞬く間に酒が満たされるが、カナの興味はとっくに酒からは逸れている。
「私が説明するより先に、そのメモ書きをご覧になられた方が早いと存じます」
「メモ書きというと、この紙切れのことか」
カナは、大人の女性らしいすらりとした手指でメモ書きをつまみ上げた。
「まりかは、産みの両親については何も判らなかったと言っておったが……」
怪訝に思いながらも二つ折りになったメモ書きを開き、そこに書かれている内容を上から順番に黙読していく。
〈出生日時 7月20日 午後11時33分〉
〈体重 約2.6kg〉
「これは、まりかが生まれた直後の記録ということか?」
メモ書きから顔を上げて蘇芳に訊ねるも、蘇芳は無言のまま、続きを読むようにと目線で促す。
カナは、メモ書きに視線を戻した。
〈授乳 母乳2回、ミルク1回〉
〈その他、特筆すべき異常無し〉
そして、メモ書きの下端に書かれている言葉に辿り着いたカナは、その不可解さに思わず声を荒げていた。
「なんだあ、これは?」
〈この赤子の受け入れについては、公式記録に残さないことを強く推奨する〉
メモ書きの内容は、それで終わっていた。
「…………」
カナは、メモ書きを何度か読み返すと、裏面や空白部分に見えない字で何かが書かれていないか、何らかの術や呪法の痕跡が残っていないかなどを、妖力を凝らして精査した。
その上で、書かれている内容以上の情報が得られない事実を確認すると、メモ書きの最後に書かれた言葉を改めて吟味してみることにする。
「『この赤子』、『推奨する』」
薄い罫線が引かれただけの地味な紙片に、几帳面な字で綴られた事務的な情報。
無機質という印象すら受ける、まるで他人事のような言葉遣い。
「……これが、仮にも産みの母親が、我が子を託すにあたって残す言葉だというか?」
「そのメモ書きは、産みの母親が書いたものではないだろうというのが、朝霧利雄の推察です」
蘇芳が、盃を揺らしながら淡々と説明する。
「朝霧利雄によると、人間というのは他の動物に比べて難産であり、冷静に記録をとる余裕があったとは考えにくいと述べておりました。また、赤ちゃんポストが設置された産院の立地や時間帯、その他諸々の事情を考慮しても、産みの母親には協力者がいた可能性が高く、メモ書きも協力者が書いたと考えた方が現実的だなどど宣っておりましたな」
「現実的、のう」
カナはメモ書きを小箱に戻すと、今度は産着を手に取って調べてみる。
「至極もっともらしい推理じゃが、所詮は希望的観測の域を出ぬ話じゃろう。よりにもよって産みの母親が、我が子に対して情を感じないはずがないと信じたいがための……、んん?」
産着を広げていた手を降ろすと、じろりと蘇芳の顔を見る。
「おい、蘇芳よ。その言いぶりからすると、朝霧利雄と直接言葉を交わしたのか? 風の精霊が視える程度には霊力が強いというだけの一介の人間を、この龍宮城に招き入れたと?」
「おっしゃる通りです。一度だけですが、まりかやエリカと共に、あの男を龍宮城に呼び付けたことがあります」
蘇芳が、盃を揺らしていた手を止めた。
神の証である黄金色の瞳が、氷のように冷たい光を発する。
「幼いまりかに対して、よからぬことを考えてはいまいか。それを、我が目でしかと視通すためでした。ほんの僅かでも邪念を抱いていた場合、我が雷撃を喰らわせて跡形もなく消し飛ばすつもりだったのですが……」
「それは、そうした疑念を抱くに至った何かが、幼いまりかの言動に表れていたということか?」
「いいえ」
蘇芳は、盃の酒をひと口だけ啜ると、事も無げに言ってのけた。
「血を分けた実の子ですら、ゴミのように捨てる人間が少なくないというのに、血の縁も何も無い赤の他人の子供を実の娘として受け入れているなど、聞いただけでは到底信じられる話ではございませんから」
普段は調子の良い振る舞いを見せている龍神の口から飛び出したえげつない言葉に、カナは肩幅よりも広いクジラの尾ひれをゆるゆると動かした。
(やはり、ただの阿呆とは違うようだな)
つい先日もあったように、子供の姿に変化して人間の街に繰り出し、菊池明を財布代わりに遊び呆けるなどという、龍神としてあるまじき行為だけを切り取ってみれば、なるほど、蘇芳はいかにも人間に好意的な存在であると思えてしまう。
しかし、あくまでもそれは、一時的な享楽を得るために人間の生み出した文化や技術を娯楽として消費しているというだけの事に過ぎず、人間存在そのものに対する評価は、それとは完全に別の問題として切り分けて考えているのだろう。
「……しかし、あの男をどれだけ透視しようと、まりかに対する邪な感情は極微たりとも出てきませんでした」
蘇芳が、盃を振って新たな酒を満たした。黄金色の瞳からは、既に冷たい光は消えている。
「何せ、出会ってたったの数時間で風の精霊との結婚を決めてしまうような変人です。他人の子供も、同じようにすんなりと受け入れられてしまうのでしょう」
「ふうむ……」
カナは、曖昧に相槌を打った。
実の子ではないどころか、縁戚関係ですらない赤の他人の子供を受け入れ、成人年齢に達するまで育て上げたという事実を、「変人だから」という雑な理解で片付けてしまって良いのか。そこには、朝霧利雄という人物が持つ、類まれなる徳の高さが表れているのではないか。尊敬と親愛を込めて父との思い出を語るまりかをずっと見てきたカナは、蘇芳の見解に大いに疑問を感じる。
しかし、蘇芳としては、まりかへの害意を持たない事が判明した以上、一介の人間に対してそれ以上の興味は湧かないらしく、朝霧利雄についての話題はここで終了となってしまった。
「話が少々脱線してしまいましたが、産みの両親についての話でしたな」
「うむ、そうじゃったな」
カナは、何度か目を瞬かせると、ウェーブのかかった豊かな白髪を顔の横から払いのけた。
「続けてくれ」
「では、メモ書きの話から。朝霧夫妻によると、メモ書きの最後に書かれた言葉を受けて、産院の関係者や各関係機関の担当者たちと話し合った結果、まりかの身の安全を最優先し、産みの両親の捜索は行わないことにしたそうです」
「そして、その方針は現在に至るまで続いていると?」
「ええ。まりかが16歳の誕生日を迎えた後、エリカと朝霧利雄は、メモ書きの内容も含めて、まりかの出生に関わる全ての事実を伝えました。その後、親子間で幾度も話し合いを重ねた結果、産みの両親の捜索は今後も行わないと決めたと、まりかが私に教えてくれたのです」
「……蘇芳よ。わしはな、以前からずっと疑問に思っておった事がある」
カナは、ベルベットの寝椅子から身を乗り出した。
どんな感情の変化も見逃すまいと、伏目がちになった蘇芳の顔に突き刺すような視線を注ぐ。
「お前さん、前に一度、まりかの過去視をした事があるらしいな。分からなかったとは、どういうことだ? 人間の過去視など、龍神であるお前さんには容易い事ではないのか?」
蘇芳は、すぐには答えなかった。
腕組みをして押し黙った後、居住まいをしてカナの視線を正面から受け止める。
「御母上に、折り入ってお願い申し上げたい事がございます」
「なんじゃ、申してみよ」
「もしも、まりかの過去視をされましたら、まりかの過去に何をご覧になったのか、私にもお教えいただきたいのです」
「…………まさか、本当は何かが視えていたのか?」
カナは目つきを険しくして蘇芳を睨みつけると、語気を強めて問いかけた。
「視えたというのなら、何故嘘を吐いた? それは、わしにすら言えぬ事だというのか?」
「…………」
蘇芳は、またしても答えなかった。
痺れを切らしたカナがもう一度問いかけようとしたところで、ようやく蘇芳が重い口を開こうとする。
「あれは……」
何かを言いかけて、打ち消すように首を振り、結局は口を噤んでしまう。
そこに、神霊力を持つ神としての深い苦悩を見て取ったカナは、それ以上の追及を止めたのだった。
秋空の下、子供の姿に戻ったカナは、朝霧海事法務事務所の入るビルの屋上で、ビーチパラソルとテーブル、ベッドの三点セットを広げ、のんべんだらりと寝そべっている。まりかからは「季節外れも甚だしい」という手厳しい批評をもらっているが、時節柄などという人間の文化から自由な立場にいるカナとしては、やりたい時にやりたい事をやって何がおかしいという気持ちである。
高い空に広がる鰯雲をぼうっと眺めながら、カナは今朝方の蘇芳との「会談」の内容を頭の中で繰り返し反芻する。
(肝心なところが、何も聞けずじまいじゃったのう)
ひとまず知りたい事は知れたものの、かねてよりのカナの疑問が解けたというわけではなく、いくつかの点においては却って謎が深まってしまった。
そのひとつが、潮路と黒瀬である。
(蘇芳の阿呆はともかくとして、あのふたりが人間の娘に愛情を注ぐ道理があるのか?)
蘇芳に関しては、明るく素直な人間の幼子と接するうちに自然と愛情が湧いてしまったのだろうと、一応は納得できる。だが、龍神の側近である潮路と黒瀬が、まるで祖父母であるかのように人間の娘を可愛がるというのは、よくよく考えてみると不自然極まりない。
ましてや、潮路も黒瀬も、その本性は子育てという習性を持たない海洋生物なのだ。怪異化して久しいとはいえ、人間の娘と親密な関係を築こうなどと自ら欲するとは考えにくい。
となると、蘇芳がふたりに命じたのだろう。
まりかの祖父母たれ、と。
「――――」
頬が微かにピリつくような感覚に、カナはのっそりと上体を起こした。
ビーチベッドに座ったまま、ビルの前に広がる横浜港の海と空をぐるりと見渡してみる。
「……ふん」
金色の瞳が、見慣れない陸鳥の姿を捉えた。
黒色と青色の美しい羽根を持つその陸鳥は、カナの目に留まるや否や、翼を広げて欄干から飛び立つと、海とは反対の方向へと去ってしまった。
カナは再びビーチベッドに寝そべると、テーブルの上からキンキンに冷えたクリームソーダを取り上げる。
「せっかく手に入れた手駒、活用せねば損というもの」
やや嗄れた声で呟くと、ストローから緑色の甘いソーダ水を吸い上げた。
季節は、実りの秋から凍てつく冬へと移ろっていく。
潮路が一礼して扉を閉めると、だだっ広い板敷の広間には、カナと蘇芳の2人だけが残った。
潮路の気配が広間から遠ざかるのを感じながら、大人の姿になったカナは、壇上から降りた状態で自分を迎えた蘇芳と静かに相対する。
蘇芳の立ち姿は、この海の絶対的支配者たる龍神の名に恥じない威風堂々としたものだった。軽く2メートルを上回る高身長に、均整のとれた筋骨逞しい肉体。踝までの長さがある美しい蘇芳色の髪は金銀の髪飾りでざっくりと編み込まれ、中華風の衣装と豪奢な宝飾類が、内面から滲み出る王者然とした風格を見事に装飾している。
しかし、美丈夫という言葉が相応しいその面に浮かぶのは、王者らしからぬ畏まった態度だった。
「…………」
蘇芳が、神霊力を持つ神の証である黄金色の瞳を慎ましやかに伏せた。そして、右手で拳を作り、その拳に左手を被せる「拱手礼」の姿勢をとると、カナに対して恭しく頭を下げたのである。
「心よりお待ち申し上げておりました、〈母なる海〉よ」
周囲の海水が、ざんとさざめいた。
「――――」
〈母なる海〉と呼ばれた人魚の白髪が何かの生き物のようにざわつき、金色の瞳の中央にある漆黒の瞳孔がすうっと糸のように細くなる。
得体の知れない気配が広間の海水を隅々まで満たそうとする中、蘇芳は朗々とした声で口上を述べていく。
「天地開闢より後、幾千億の有情らが生命の根源たる海より見出し、想いを重ねてきた、豊穣の象徴としての母という概念、その表象と心象。その膨大な集積の果てに魂が生じ、顕現した存在……」
蘇芳は一旦言葉を切ると、顔を上げてカナを見た。その黄金色の瞳には、配下たちにはまず見せることのない、思慕の情が表れている。
「それが、現在は幼子の姿でカナと名乗る貴方様の、本当のお姿でありましょう」
「…………母。母、のう」
海水のさざめきが、ふいに消失した。ざわついていた白髪は動きを止め、漆黒の瞳孔は元通りに円くなる。
カナは、期待を込めて自分を見つめる蘇芳から視線を外すと、自分の肉体をまじまじと見下ろしてみた。
確かに、今のカナの外見は、蘇芳の言うところの「豊穣の象徴としての母」の特徴をいくつも兼ね備えていた。おおよそ40代後半の豊満な乳房を持った女性の上半身に、ウェーブのかかった腰までの豊かな白髪。肉付きは全体的にふくよかで、腰のくびれからクジラの下半身にかけての輪郭は大胆かつ魅惑的な流線形を描いている。
しかし、当のカナとしては、蘇芳が申し述べた内容をすんなりと認める気にはなれなかった。
カナは視線を蘇芳に戻すと、いかにも不服そうな顔つきで唇を曲げてみせた。
「わしはな。古往今来、誰かの『母』になった覚えは、ただの一度たりとて無い。人が、神が、わしを勝手に母と呼ぶに過ぎぬ」
豊かな乳房を押さえつけるようにして腕を組み、片眉を吊り上げて蘇芳に問いかける。
「して、お前さんはわしを何と呼ぶ?」
「恐れながら申し上げます」
蘇芳は再び頭を下げると、己が望みを躊躇いなく口にした。
「御母上とお呼びさせていただきとうございます」
「その心は?」
カナが眉間の皺をますます深くする一方、蘇芳は拱手を保ったまま一層深く頭を下げる。
「千古の闇に生じ、この海を統べる龍神として永き時を孤高に在り続けた我が身にとって、海は単なる住処というだけに留まらず、生誕の地であり故郷であり、我が心の寄る辺でもあります」
「…………」
「無論、龍神である私めと〈母なる海〉である貴方様の間には、現世に生きる有情たちのような血の縁など存在し得ません。しかし、この身を育み、包容し続けてきた偉大なる海、その化身とも言える貴方様には、人の子がその母に対して向けるような素朴な敬愛の念を抱かずにはいられないのです」
蘇芳が口を閉じると、だだっ広い板敷の広間には海水がたゆたう静かな音が戻ってきた。
カナは、自分に向かって頭を下げ続ける蘇芳の頭頂部を眺めながら、自分が蘇芳に対して投げ遣りな気分になってきていることを自覚する。
(いくつか、突っ込み所が無いわけでも無かったが……)
知り合ってたったの数ヶ月、それも、直接言葉を交わすのは今日が初めてという相手からの頼み事としては、大いに暑苦しく感じるというのが率直な感想である。とはいえ、相手が神霊力を持った神である以上、ここで素気ない対応をとれば、2つの世界を巻き込んだ面倒事に発展する可能性も充分に考えられた。
(龍神の機嫌は、現世の気象や海象とある程度は連動していたはず。こやつの頼みを無下にしてこの街の人間共を困らせるのは、ちと気の毒な気もするのう)
こうした逡巡の果てに、カナはわざとらしく盛大な溜め息を吐いてみせると、つっけんどんな声で言い放ったのだった。
「勝手にせい!」
「感謝いたします」
蘇芳が、やっとの事で拱手を解いて身体を起こした。男らしく勇ましいその面立ちには、それこそ人間の子供が母親に向けるような安堵の表情を浮かべている。
(とことん謙っているようでいて、その実、何がなんでも己の欲求を押し通さんとする我の強さ。わしを慕う感情は本物なだけに、相当に質が悪いと言えるのう)
カナは、この龍神からの溺愛を幼少期から現在に至るまで受け続けるまりかの身の上を思い起こし、その心情を慮るのであった。
ベルベットの寝椅子にクジラの長身を横たえ、美酒が注がれた盃を口に運んでいると、同じく盃を傾けていた蘇芳がおもむろに切り出してきた。
「おいでになったのは、まりかの件でありましょう?」
「うむ。というか、そもそもはお前さんが呼びつけたのじゃろう」
カナは盃から口を離すと、さっさと本題に入れと顎をしゃくった。蘇芳にしても、「母」に対してくどくど御託を並べ立てるつもりはないらしく、海の幸が山と盛られた脚付き膳に盃を置くと、口の中で小さく何かを唱えた。
すると、互いの膳を挟んで向かい合うカナと蘇芳の間に、螺鈿細工が施された漆塗りの小箱が出現する。
カナが静観する中、蘇芳は蓋も継ぎ目も見当たらない奇妙な小箱に手を翳すと、再び小さく何かを唱えた。
小箱の側面を蘇芳色の閃光が走り抜け、上半分がゆっくりと持ち上がり、何人たりとも開けることの叶わぬ小箱の中身が露わになる。
「なんじゃい、これは」
「これらは、まりかの両親から託されたものです」
小箱の中に収められていたのは、白色の産着と小さな桐箱、そして、二つ折りにされた一枚のメモ書きだった。
「桐箱に入っているのは、まりかの臍の緒です。これに関しては、まりかが保護されて数日後に取れたものだと聞いています」
「すると、その人形に着せるような小さな服と紙切れは……」
「お察しの通り、どちらの品も、赤ちゃんポストに捨て置かれていたまりかが身に着けていた、唯一のものになります」
蘇芳は、男らしい太い眉を悩ましげに寄せると、まりかとの出会いについて語り始めた。
「朝霧エリカ、あの風の乙女が、幼いまりかを連れてこの龍宮城を訪れたのが、全ての始まりでした――」
人間の愛を受けて実体を得た風の精霊と、人間の子供。常に退屈しのぎを求めている蘇芳にとって、この二者が母娘関係を名乗っているという事実だけでも、謁見を許可する理由としては充分なものだった。
初めて訪れる幽世の深い海や龍宮城に目を輝かせるまりかとは対象的に、思い詰めた表情をしたエリカは、遠方の銘酒や銘菓などの珍しい品々を供物として捧げると、平身低頭、救いを求める言葉を口にした。
『横浜の海を統べたもう寛大なる心の龍神・蘇芳よ、どうか我が娘を助けていただけないでしょうか』
『まあ、そうだな。とにかく事情を聞かないことには何も分からぬからな、全部話してみろ』
このようにして、エリカは蘇芳の許可を得ると、赤子だったまりかを夫である朝霧利雄と共に引き取った経緯や、日増しに強くなるまりかの霊力、誰に教わるでもなく彷徨える魂を海へと導いてしまった出来事、まりかの霊力を風の精霊の力で抑えようにも限界がある事などを切々と訴えた。
「もしも、下らない願い事を口にしようものなら、供物だけを受け取って追い返すつもりでした。しかし、エリカの話を聴くうちに、これはただ事ではないと感じたため、まりかの身体を隅々まで検分してみることにしたのです」
蘇芳は、まりかの肉体や幽体、魂の状態から始まり、霊力の量や質、肉体と霊的次元とを繋ぐチャクラの働き、エリカが注いだ風の精霊の力との相互作用についてなどの多様な項目を、神霊力を駆使して徹底的に調べ上げた。
その結果、まりかの強過ぎる霊力や並外れて高機能なチャクラ、加えて、それらを抑制しようとする風の精霊の力が、幼い身体に重い負担となりつつある事が判明したのである。
『精霊……、朝霧エリカと言うたか。このような無理な抑え方をしていては、この娘は遠からぬうちに心身に不調をきたしてしまうぞ』
このままではまりかの生命が危ういと判断した蘇芳は、神霊力を用いて7つある全てのチャクラに制限をかけた。その上で、経過観察のため今後も定期的に龍宮城に通うようにと命令したのである。
「ふうむ、なるほどのう」
カナは、小鉢に盛られたホタルイカの沖漬けを呑み込むと、盃を持った手で小箱の中身を示した。
「して、その桐箱やら何やらは、どういった理由でお前さんの預かりとなっておるのじゃ」
「これらをエリカより託されたのは、2回目の訪問の折でした」
蘇芳が、小箱に向かって軽く手を差し伸べた。
小箱が音もなく滑り出し、カナの目の前で停止する。
「人間の家屋で保管するより、龍宮城で私の管理下に置く方が遥かに安全だろうと、そのように朝霧利雄と話し合ったと言っておりましたな」
「安全? それはどういう意味じゃ」
カナが、盃を膳に置いた。空になった盃には瞬く間に酒が満たされるが、カナの興味はとっくに酒からは逸れている。
「私が説明するより先に、そのメモ書きをご覧になられた方が早いと存じます」
「メモ書きというと、この紙切れのことか」
カナは、大人の女性らしいすらりとした手指でメモ書きをつまみ上げた。
「まりかは、産みの両親については何も判らなかったと言っておったが……」
怪訝に思いながらも二つ折りになったメモ書きを開き、そこに書かれている内容を上から順番に黙読していく。
〈出生日時 7月20日 午後11時33分〉
〈体重 約2.6kg〉
「これは、まりかが生まれた直後の記録ということか?」
メモ書きから顔を上げて蘇芳に訊ねるも、蘇芳は無言のまま、続きを読むようにと目線で促す。
カナは、メモ書きに視線を戻した。
〈授乳 母乳2回、ミルク1回〉
〈その他、特筆すべき異常無し〉
そして、メモ書きの下端に書かれている言葉に辿り着いたカナは、その不可解さに思わず声を荒げていた。
「なんだあ、これは?」
〈この赤子の受け入れについては、公式記録に残さないことを強く推奨する〉
メモ書きの内容は、それで終わっていた。
「…………」
カナは、メモ書きを何度か読み返すと、裏面や空白部分に見えない字で何かが書かれていないか、何らかの術や呪法の痕跡が残っていないかなどを、妖力を凝らして精査した。
その上で、書かれている内容以上の情報が得られない事実を確認すると、メモ書きの最後に書かれた言葉を改めて吟味してみることにする。
「『この赤子』、『推奨する』」
薄い罫線が引かれただけの地味な紙片に、几帳面な字で綴られた事務的な情報。
無機質という印象すら受ける、まるで他人事のような言葉遣い。
「……これが、仮にも産みの母親が、我が子を託すにあたって残す言葉だというか?」
「そのメモ書きは、産みの母親が書いたものではないだろうというのが、朝霧利雄の推察です」
蘇芳が、盃を揺らしながら淡々と説明する。
「朝霧利雄によると、人間というのは他の動物に比べて難産であり、冷静に記録をとる余裕があったとは考えにくいと述べておりました。また、赤ちゃんポストが設置された産院の立地や時間帯、その他諸々の事情を考慮しても、産みの母親には協力者がいた可能性が高く、メモ書きも協力者が書いたと考えた方が現実的だなどど宣っておりましたな」
「現実的、のう」
カナはメモ書きを小箱に戻すと、今度は産着を手に取って調べてみる。
「至極もっともらしい推理じゃが、所詮は希望的観測の域を出ぬ話じゃろう。よりにもよって産みの母親が、我が子に対して情を感じないはずがないと信じたいがための……、んん?」
産着を広げていた手を降ろすと、じろりと蘇芳の顔を見る。
「おい、蘇芳よ。その言いぶりからすると、朝霧利雄と直接言葉を交わしたのか? 風の精霊が視える程度には霊力が強いというだけの一介の人間を、この龍宮城に招き入れたと?」
「おっしゃる通りです。一度だけですが、まりかやエリカと共に、あの男を龍宮城に呼び付けたことがあります」
蘇芳が、盃を揺らしていた手を止めた。
神の証である黄金色の瞳が、氷のように冷たい光を発する。
「幼いまりかに対して、よからぬことを考えてはいまいか。それを、我が目でしかと視通すためでした。ほんの僅かでも邪念を抱いていた場合、我が雷撃を喰らわせて跡形もなく消し飛ばすつもりだったのですが……」
「それは、そうした疑念を抱くに至った何かが、幼いまりかの言動に表れていたということか?」
「いいえ」
蘇芳は、盃の酒をひと口だけ啜ると、事も無げに言ってのけた。
「血を分けた実の子ですら、ゴミのように捨てる人間が少なくないというのに、血の縁も何も無い赤の他人の子供を実の娘として受け入れているなど、聞いただけでは到底信じられる話ではございませんから」
普段は調子の良い振る舞いを見せている龍神の口から飛び出したえげつない言葉に、カナは肩幅よりも広いクジラの尾ひれをゆるゆると動かした。
(やはり、ただの阿呆とは違うようだな)
つい先日もあったように、子供の姿に変化して人間の街に繰り出し、菊池明を財布代わりに遊び呆けるなどという、龍神としてあるまじき行為だけを切り取ってみれば、なるほど、蘇芳はいかにも人間に好意的な存在であると思えてしまう。
しかし、あくまでもそれは、一時的な享楽を得るために人間の生み出した文化や技術を娯楽として消費しているというだけの事に過ぎず、人間存在そのものに対する評価は、それとは完全に別の問題として切り分けて考えているのだろう。
「……しかし、あの男をどれだけ透視しようと、まりかに対する邪な感情は極微たりとも出てきませんでした」
蘇芳が、盃を振って新たな酒を満たした。黄金色の瞳からは、既に冷たい光は消えている。
「何せ、出会ってたったの数時間で風の精霊との結婚を決めてしまうような変人です。他人の子供も、同じようにすんなりと受け入れられてしまうのでしょう」
「ふうむ……」
カナは、曖昧に相槌を打った。
実の子ではないどころか、縁戚関係ですらない赤の他人の子供を受け入れ、成人年齢に達するまで育て上げたという事実を、「変人だから」という雑な理解で片付けてしまって良いのか。そこには、朝霧利雄という人物が持つ、類まれなる徳の高さが表れているのではないか。尊敬と親愛を込めて父との思い出を語るまりかをずっと見てきたカナは、蘇芳の見解に大いに疑問を感じる。
しかし、蘇芳としては、まりかへの害意を持たない事が判明した以上、一介の人間に対してそれ以上の興味は湧かないらしく、朝霧利雄についての話題はここで終了となってしまった。
「話が少々脱線してしまいましたが、産みの両親についての話でしたな」
「うむ、そうじゃったな」
カナは、何度か目を瞬かせると、ウェーブのかかった豊かな白髪を顔の横から払いのけた。
「続けてくれ」
「では、メモ書きの話から。朝霧夫妻によると、メモ書きの最後に書かれた言葉を受けて、産院の関係者や各関係機関の担当者たちと話し合った結果、まりかの身の安全を最優先し、産みの両親の捜索は行わないことにしたそうです」
「そして、その方針は現在に至るまで続いていると?」
「ええ。まりかが16歳の誕生日を迎えた後、エリカと朝霧利雄は、メモ書きの内容も含めて、まりかの出生に関わる全ての事実を伝えました。その後、親子間で幾度も話し合いを重ねた結果、産みの両親の捜索は今後も行わないと決めたと、まりかが私に教えてくれたのです」
「……蘇芳よ。わしはな、以前からずっと疑問に思っておった事がある」
カナは、ベルベットの寝椅子から身を乗り出した。
どんな感情の変化も見逃すまいと、伏目がちになった蘇芳の顔に突き刺すような視線を注ぐ。
「お前さん、前に一度、まりかの過去視をした事があるらしいな。分からなかったとは、どういうことだ? 人間の過去視など、龍神であるお前さんには容易い事ではないのか?」
蘇芳は、すぐには答えなかった。
腕組みをして押し黙った後、居住まいをしてカナの視線を正面から受け止める。
「御母上に、折り入ってお願い申し上げたい事がございます」
「なんじゃ、申してみよ」
「もしも、まりかの過去視をされましたら、まりかの過去に何をご覧になったのか、私にもお教えいただきたいのです」
「…………まさか、本当は何かが視えていたのか?」
カナは目つきを険しくして蘇芳を睨みつけると、語気を強めて問いかけた。
「視えたというのなら、何故嘘を吐いた? それは、わしにすら言えぬ事だというのか?」
「…………」
蘇芳は、またしても答えなかった。
痺れを切らしたカナがもう一度問いかけようとしたところで、ようやく蘇芳が重い口を開こうとする。
「あれは……」
何かを言いかけて、打ち消すように首を振り、結局は口を噤んでしまう。
そこに、神霊力を持つ神としての深い苦悩を見て取ったカナは、それ以上の追及を止めたのだった。
秋空の下、子供の姿に戻ったカナは、朝霧海事法務事務所の入るビルの屋上で、ビーチパラソルとテーブル、ベッドの三点セットを広げ、のんべんだらりと寝そべっている。まりかからは「季節外れも甚だしい」という手厳しい批評をもらっているが、時節柄などという人間の文化から自由な立場にいるカナとしては、やりたい時にやりたい事をやって何がおかしいという気持ちである。
高い空に広がる鰯雲をぼうっと眺めながら、カナは今朝方の蘇芳との「会談」の内容を頭の中で繰り返し反芻する。
(肝心なところが、何も聞けずじまいじゃったのう)
ひとまず知りたい事は知れたものの、かねてよりのカナの疑問が解けたというわけではなく、いくつかの点においては却って謎が深まってしまった。
そのひとつが、潮路と黒瀬である。
(蘇芳の阿呆はともかくとして、あのふたりが人間の娘に愛情を注ぐ道理があるのか?)
蘇芳に関しては、明るく素直な人間の幼子と接するうちに自然と愛情が湧いてしまったのだろうと、一応は納得できる。だが、龍神の側近である潮路と黒瀬が、まるで祖父母であるかのように人間の娘を可愛がるというのは、よくよく考えてみると不自然極まりない。
ましてや、潮路も黒瀬も、その本性は子育てという習性を持たない海洋生物なのだ。怪異化して久しいとはいえ、人間の娘と親密な関係を築こうなどと自ら欲するとは考えにくい。
となると、蘇芳がふたりに命じたのだろう。
まりかの祖父母たれ、と。
「――――」
頬が微かにピリつくような感覚に、カナはのっそりと上体を起こした。
ビーチベッドに座ったまま、ビルの前に広がる横浜港の海と空をぐるりと見渡してみる。
「……ふん」
金色の瞳が、見慣れない陸鳥の姿を捉えた。
黒色と青色の美しい羽根を持つその陸鳥は、カナの目に留まるや否や、翼を広げて欄干から飛び立つと、海とは反対の方向へと去ってしまった。
カナは再びビーチベッドに寝そべると、テーブルの上からキンキンに冷えたクリームソーダを取り上げる。
「せっかく手に入れた手駒、活用せねば損というもの」
やや嗄れた声で呟くと、ストローから緑色の甘いソーダ水を吸い上げた。
季節は、実りの秋から凍てつく冬へと移ろっていく。