1-3. 横浜港の龍宮城
横浜の海を統べる龍神の御前で、蛇の娘と鮫の男が、互いの喉元目がけて凄まじい殺気を迸らせている。
蛇の娘は、海洋怪異対策室の一員であり、祖母を妖に持つ〈異形〉の伊良部梗子。くっきりとした目鼻立ちに黒褐色のショートヘア、頬骨や首筋、肘や手の甲、踝などの皮膚の一部が青色と黒褐色をした蛇の鱗となっており、髪やまつ毛は薄い青色を反射している。
対する鮫の男は、数百年を生きる大妖であり、龍神・蘇芳の側近である黒瀬。本性がホシザメである黒瀬は、手足や胴体などの外形こそは人間を模しているものの、その体表は楯鱗と呼ばれる硬く細かい鱗に覆われており、毛髪は頭部も含めて1本も生えていない。また、眼球も鮫そのままの楕円形をしており、全体的に鮫の特徴を多分に残した姿をしていた。
「そろそろ1時間になるぞ……」
睨み合う両者から充分に離れた板敷の広間の端で、菊池明が、右手首に装着したフルメタルのGショックを見ながら小声でまりかに話しかけた。このGショックは、蘇芳から授かった妖刀・〈水薙〉が形を変えたものなのであるが、これまでのところ〈水薙〉本人からの抗議の声が聞かれないため、日常生活においては普通の腕時計として使用している。
「まさか、ここまで拮抗するなんて」
まりかもまた、口許を手で覆いながら声を潜めて明に返した。試合開始から30分が経過するまでは、まりかを含めた全員が身動ぎひとつせずに静粛を保っていたものの、人であれ妖であれ集中力には限界があるため、それ以降は張り詰めた空気を乱さない程度に言葉を交わしている状況である。
「梗子様……」
明のすぐ隣では、海鳥と魚の姿をした式神の少女・水晶が、両翼を胸の前でそわそわと動かしながら試合を見守っていた。水晶にとって梗子は、自身の創造主のひとりであり、親にも似た存在となる。その梗子が龍神の側近を相手に真剣勝負に挑んでいるのを目の当たりにして平常心を保てと言うのは、「子」である水晶にとっては酷な話だろう。
「あの黒瀬が、あそこまで圧されるなんてねえ。大したものじゃないの、あの娘」
不安げな水晶とは対象的に、蘇芳のもうひとりの側近である潮路は、どこかウキウキとした様子で試合を観戦していた。おおよそ50代前半の老女の姿をした潮路は、本性であるアオウミガメをどことなく連想させる服装や髪型をしている。優美かつゆったりとした造りの女官服に、肩よりも短い白髪混じりの濃緑色の髪。その髪が小さな顔の横でふんわりと揺れる様などは、穏やかで自由気ままな彼女の性格を表しているようにも見えた。
「でも、どうして鉄製の武器を使わないのかしら。真剣勝負なのだから、それこそ刀を使っても良いようなものだけど」
潮路が、腕よりも長い女官服の袖で口許を抑えながら、梗子が手にする得物――ウェークに視線を注いだ。沖縄の言葉で木造舟の櫂を意味するウェークは、その名の通り櫂の形状をした琉球古武術の武器のひとつである。全長の半分弱が細長い板、つまりはブレードとなっており、武器として用いるために本来の用途よりも周縁部分を薄く削ることで軽量化が計られている。
なお、今回の手合わせに際して、梗子がこのウェークの使用を強く希望したために、黒瀬もまた木製の武器である木刀を得物として選んでいる。
「梗子さん、誓いを立てているのだそうです」
まりかが、試合の様子を伺いながら潮路にそっと囁いた。
「真にやむを得ない場合を除いて、相手に容易に致命傷を与えうる武器は使わないと決めているって、この間の稽古の時に話してくれました」
「俺も、聞いたことがあります」
ふたりの会話を聞きつけた明が、横から静かに補足する。
「室長との稽古で、青竜刀や釵の練習をしているのは見たことがあります。でも、現場ではウェークか棒術、徒手空拳で立ち向かうところしか見たことがありません」
「まあ、そうなの。となると、その誓いというのは……」
潮路が、疑問を口にしようとした時だった。
パンッ! パンッ!
だだっ広い板敷の広間に、目が覚めるような手拍子の音が響き渡った。
「ええい、このままでは埒が明かん!」
立会人として壇上から試合を見守っていた蘇芳が、ついに痺れを切らして声を張り上げた。
蘇芳は、ラタン調の寝椅子の上で胡座をかいて背筋を伸ばすと、相変わらず睨み合いを続ける両者に対して厳然と命令を下した。
「十を数えるうちに、勝敗を決せ。さもなくば、両者共に我が雷撃を見舞ってやろう」
「ッ!」
この海の絶対的な支配者である龍神の最後通告に、広間の端で試合を見守っている一同は身を硬くした。
しかし、肝心の梗子と黒瀬はというと、まるで蘇芳など最初から存在しないとでも言わんばかりに、生返事すら返そうとしない。
「では、いくぞ」
蘇芳は呆れたように両者を見やると、特に不敬罪を課すことはせず、まずは1回、強く手を叩いた。
「十!」
ダンッ!
梗子と黒瀬の足が、同時に板敷を離れた。
「――――!」
焼き切れるような超高温の殺気が火花を散らして激突する中、蛇の娘と鮫の男が、電光石火の早業で交差し、離れていく。
勝敗は、一瞬間に決していた。
「………………ッ」
カラン、カラン。
ウェークが、板敷の上で乾いた音を立てた。
「ぎっ」
梗子が、喉が詰まるような音を漏らして膝から崩れ落ちる。
「勝負あり!」
「梗子様っ!」
「伊良部さん!」
真っ先に動いたのは、水晶と明だった。
明は急いで梗子の元に駆け寄ると、小柄ながらも筋肉質な身体を仰向けにひっくり返して容態確認に取りかかる。
「ああっ! どうしよう、そんな!」
「落ち着け! 今、心肺蘇生を――」
広間が騒然とする中、勝利を手にした黒瀬だけが、不気味な沈黙を貫いたまま微動だにせずに立ち尽くしている。
その首筋からは、鮮やかな赤色がとめどなく滴り落ちていた。
「黒瀬を手負いにするなんて、あなた凄いじゃないの! 気に入ったわ」
潮路が、梗子の背中に両手を翳しながら上機嫌な笑顔で話しかけた。性格の合わない同僚が敗北寸前まで追い込まれたことが余程に嬉しかったのか、梗子の蘇生に自ら手を貸した上に、回復のための妖力を分け与えるという大盤振る舞いをしているところである。
「お、恐れ入ります……」
梗子が、い草で編まれた円座の上で身を縮こまらせた。妖の血を四分の一しか持たない梗子にとって、龍神の側近を務めるほどに強大な妖力を持つ潮路は、畏怖とまではいかずとも、それなりに近寄り難い存在なのである。
(黒瀬さん、何だかんだ言って、私には手加減してくれてたんだわ)
普段の威勢の良さは見る影もなく、すっかりとしおらしくなってしまった梗子の姿に、まりかは自分がいかにぬるま湯に浸かっていたのかをひしひしと実感する。
(鍛錬のレベルを上げてもらうように、後で頼んでみよう)
そう密かに決心したまりかであったが、その黒瀬はというと、何故か悄然とした面持ちで蘇芳と相対していた。
「たかだか二十数年を生きただけの小娘に急所を捉えられるとは、この黒瀬、まだまだ修行が足りませぬ。かくなるうえは、側近の地位を返上し」
「早まるでない、黒瀬。向こう数百年はお前に居てもらわねば、何かと困るのだ」
「その通りです! 黒瀬様が居なくなっちまったら、オイラたちは路頭に迷っちまいます!」
側近の座を退こうとする黒瀬を、蘇芳や配下の多聞丸が必死になって引き止めている。
「黒瀬さんって、武術マニアみたいなところがあるからさ」
まりかは、手持ち無沙汰で龍宮城の面々を眺めている明と水晶に話を振った。
「杖術にしたって、私が子供の頃に習ってた杖道に興味を持ったのがきっかけで習得したくらいだから。そこから自己流の杖術を編み出して、私に教えてくれたのよ」
「なるほど、そういう経緯が……」
「そうなのですね」
「まったく、黒瀬には困ったものですよ」
潮路が、梗子に妖力を注ぎ込みながら、やれやれと嘆息した。
「黒瀬が武術にうつつを抜かすものだから、私が人間社会や陸の幽世の事情に精通せねばならなかったのですよ。それが、どれだけ大変だったことか!」
聞えよがしにそう言ってのけると、表情を明るくして再び梗子に話しかけた。
「さあさあ! こんなつまらない話は終わりにして、あなたの話を聞きたいわ。あなた、お祖母様が妖なんですってね」
「ええ、はい。エラブウミヘビっつう、海に棲む蛇が怪異化した存在でして……」
エラブウミヘビは、主に南西諸島の沿岸域に生息するコブラ科の爬虫類である。櫂のような形状をした側扁な尻尾を使って海中を泳ぐが、普通の蛇のように陸地を這う事も可能である。また、幼体は青色と黒褐色の鮮やかな縞模様をしているが、成長するにつれて黄みがかった褐色へと変化するなどの特徴がある。
「あらまあ、そうなの」
こうした梗子の解説を感心したように聞いていた潮路だったが、解説が終わると、今度は期待に満ちた表情で次なる質問をぶつけてきた。
「それで、エラブウミヘビのお祖母様は、人間のお祖父様とどうやって知り合ったの?」
「そっ、それは……」
梗子が、何故か口ごもった。
少しの間、逡巡するように視線を右往左往させていたが、最後には真顔になって居住まいを正すと、自らの祖母と祖父の馴れ初めを語り始めたのである。
「もう何十年も前の話です。祖父・太一は、子供の頃から三線を弾くのが好きでした」
梗子の祖父・伊良部太一は、沖縄本島北部のとある海辺の村に住んでいた。とにかく三線が大好きで、毎晩のように縁側で海や月を眺めながら、古い唄や民謡を弾き唄っていたという。
そんなある日の事。1匹のエラブウミヘビが庭先に現れ、唄三線が流れている間、ずっと庭先に滞在するようになった。最初は全く意に介していなかった太一だが、日を重ねるうちに、まるで弾き唄いに耳を傾けているかのようにも見える蛇の様子に、次第に好奇心を掻き立てられるようになったという。
『お前、イラブーのくせに三線が好きなのか。そんなに聴きたいなら、もっと近寄って聴かねえか』
ある月夜の晩、太一は面白半分に誘いかけた。「イラブー」は、沖縄の言葉でエラブウミヘビを指す。「イラブー汁」という郷土料理が存在するように、沖縄では食材として親しまれているものの、太一にはエラブウミヘビを好んで食べる習慣は無かった。かと言って、特段蛇が嫌いというわけでもなかったため、蛇であれ何であれ自分の唄三線を好いてくれるのなら悪い気はしないというのが、太一の本音だったのだ。
すると、まるで太一の言葉を理解しているかのように、その蛇はするすると太一の足元に近づいてきたという。
その後の展開は、言わずもがなである。
「――月が満ちては欠けを幾度も繰り返した末の、海が鏡面のように凪いだある夏の日の夜。祖母はついに、人の姿をとったそうです。祖父は、祖母に『ナギ』って名前を与えて、その日のうちに契りを交わしたと聞いています」
梗子は口を閉じると、気まずそうにポリポリと頬を掻いた。
(そっか、だから梗子さん……)
まりかは思わず、明や水晶と顔を見合わせた。
先月に発生した東京湾における無線交信妨害事件では、声だけの怪異・メルルファへの対抗策として、まりかや明たちは船上バンド演奏作戦を実施していた。その作戦の立役者となったのがバンド演奏の経験が豊富な梗子だったのだが、最初に作戦を思いついて提案したのは、後輩である明だった。
(梗子さんがあそこまで熱烈な指導をしたのは、仕事に対する責任感だけじゃない。音楽によって想いを伝えようとした明の姿に、お祖父様の影を重ねていたんだ)
まりかと同様の気づきを得たのだろう、明と水晶もまた、胸を打たれたような表情で梗子を見つめている。
「まあまあ、素敵な話じゃないの!」
妖力を注ぎ終わった潮路が、品の良い小さな手で梗子の背中をパタパタと叩いた。
「じゃあ次は、あなたのお母様とお父様の出会いについて聞かせてちょうだいな!」
「えっと、その……」
「あの、潮路さん」
しどろもどろになった梗子を見かねたまりかが、潮路を押し留めようとする。
ところが、華やかな「恋バナ」の空間は、突如として割り込んできた鋭い一声によって幕を閉じたのだった。
「伊良部梗子!」
「はいっ!」
黒瀬の呼びかけに、梗子が円座の上でビシッと背筋を伸ばして即答する。
合気道の道着に派手な柄の羽織とバンダナという奇抜で個性的な格好をした黒瀬が、普段は穏やかな鮫の目を険しくして梗子を睨み付けている。
その黒瀬が、誰もが予想だにしなかった「命令」を梗子にぶつけた。
「紙一重の勝利など、敗北とさしたる違いはない。このままでは俺の気が収まらん。お前、俺の師となり、弟子となれ」
「は、はい!?」
目を白黒させる梗子には構わず、黒瀬は重々しい口調で不退転の覚悟を述べていく。
「お前が知りうる技の全てを、瓶の水を移すが如く俺に伝授するのだ。そうして己が血肉と成し、そこから新たに編み出した技によって、お前を更なる高みへと引き上げてやろう」
「黒瀬、あなた言ってる事がおかしいわよ」
潮路がすかさず突っ込みを入れたものの、黒瀬は一瞥もくれることなくピシャリと跳ね除ける。
「潮路、これは武人同士の話だ。お前は引っ込んでおれ」
「望むところです!!」
鬼気迫る黒瀬の決意表明に圧倒されていた梗子が、弾かれたように円座から立ち上がった。
ずんずんと黒瀬の前に進み出ると、早速ウェークを取り出して黒瀬と差し向かう。
「では、手始めに――」
「もう、仕方のない妖たちね」
潮路は、救いようが無いというように肩を竦めると、女官服の長い袖で広間の出口を示した。
「まりか様、それから菊池様も。〈門〉を開けて差し上げますから、巻き込まれないうちにお帰りなさいな」
「では、お言葉に甘えて……」
まりかと明は、潮路の勧めに従うことにした。
一同は蘇芳や多聞丸に暇を告げると、潮路の案内に従って廊下を抜けて門を潜り、龍宮城の外に出る。
「明と水晶は、まだ仕事?」
「そうだな。事務仕事が結構残ってるから、今日は残業になりそうだな」
「まりかさん、カナさんによろしくお伝え下さい」
「うん、伝えておくね。多分、明日の朝までには何食わぬ顔をして帰ってきてると思うから」
このように挨拶を交わすと、まりかは象の鼻桟橋に、明と水晶は横浜海上防災基地に繋がる〈門〉を通り抜けて、それぞれの帰途についたのだった。
蛇の娘は、海洋怪異対策室の一員であり、祖母を妖に持つ〈異形〉の伊良部梗子。くっきりとした目鼻立ちに黒褐色のショートヘア、頬骨や首筋、肘や手の甲、踝などの皮膚の一部が青色と黒褐色をした蛇の鱗となっており、髪やまつ毛は薄い青色を反射している。
対する鮫の男は、数百年を生きる大妖であり、龍神・蘇芳の側近である黒瀬。本性がホシザメである黒瀬は、手足や胴体などの外形こそは人間を模しているものの、その体表は楯鱗と呼ばれる硬く細かい鱗に覆われており、毛髪は頭部も含めて1本も生えていない。また、眼球も鮫そのままの楕円形をしており、全体的に鮫の特徴を多分に残した姿をしていた。
「そろそろ1時間になるぞ……」
睨み合う両者から充分に離れた板敷の広間の端で、菊池明が、右手首に装着したフルメタルのGショックを見ながら小声でまりかに話しかけた。このGショックは、蘇芳から授かった妖刀・〈水薙〉が形を変えたものなのであるが、これまでのところ〈水薙〉本人からの抗議の声が聞かれないため、日常生活においては普通の腕時計として使用している。
「まさか、ここまで拮抗するなんて」
まりかもまた、口許を手で覆いながら声を潜めて明に返した。試合開始から30分が経過するまでは、まりかを含めた全員が身動ぎひとつせずに静粛を保っていたものの、人であれ妖であれ集中力には限界があるため、それ以降は張り詰めた空気を乱さない程度に言葉を交わしている状況である。
「梗子様……」
明のすぐ隣では、海鳥と魚の姿をした式神の少女・水晶が、両翼を胸の前でそわそわと動かしながら試合を見守っていた。水晶にとって梗子は、自身の創造主のひとりであり、親にも似た存在となる。その梗子が龍神の側近を相手に真剣勝負に挑んでいるのを目の当たりにして平常心を保てと言うのは、「子」である水晶にとっては酷な話だろう。
「あの黒瀬が、あそこまで圧されるなんてねえ。大したものじゃないの、あの娘」
不安げな水晶とは対象的に、蘇芳のもうひとりの側近である潮路は、どこかウキウキとした様子で試合を観戦していた。おおよそ50代前半の老女の姿をした潮路は、本性であるアオウミガメをどことなく連想させる服装や髪型をしている。優美かつゆったりとした造りの女官服に、肩よりも短い白髪混じりの濃緑色の髪。その髪が小さな顔の横でふんわりと揺れる様などは、穏やかで自由気ままな彼女の性格を表しているようにも見えた。
「でも、どうして鉄製の武器を使わないのかしら。真剣勝負なのだから、それこそ刀を使っても良いようなものだけど」
潮路が、腕よりも長い女官服の袖で口許を抑えながら、梗子が手にする得物――ウェークに視線を注いだ。沖縄の言葉で木造舟の櫂を意味するウェークは、その名の通り櫂の形状をした琉球古武術の武器のひとつである。全長の半分弱が細長い板、つまりはブレードとなっており、武器として用いるために本来の用途よりも周縁部分を薄く削ることで軽量化が計られている。
なお、今回の手合わせに際して、梗子がこのウェークの使用を強く希望したために、黒瀬もまた木製の武器である木刀を得物として選んでいる。
「梗子さん、誓いを立てているのだそうです」
まりかが、試合の様子を伺いながら潮路にそっと囁いた。
「真にやむを得ない場合を除いて、相手に容易に致命傷を与えうる武器は使わないと決めているって、この間の稽古の時に話してくれました」
「俺も、聞いたことがあります」
ふたりの会話を聞きつけた明が、横から静かに補足する。
「室長との稽古で、青竜刀や釵の練習をしているのは見たことがあります。でも、現場ではウェークか棒術、徒手空拳で立ち向かうところしか見たことがありません」
「まあ、そうなの。となると、その誓いというのは……」
潮路が、疑問を口にしようとした時だった。
パンッ! パンッ!
だだっ広い板敷の広間に、目が覚めるような手拍子の音が響き渡った。
「ええい、このままでは埒が明かん!」
立会人として壇上から試合を見守っていた蘇芳が、ついに痺れを切らして声を張り上げた。
蘇芳は、ラタン調の寝椅子の上で胡座をかいて背筋を伸ばすと、相変わらず睨み合いを続ける両者に対して厳然と命令を下した。
「十を数えるうちに、勝敗を決せ。さもなくば、両者共に我が雷撃を見舞ってやろう」
「ッ!」
この海の絶対的な支配者である龍神の最後通告に、広間の端で試合を見守っている一同は身を硬くした。
しかし、肝心の梗子と黒瀬はというと、まるで蘇芳など最初から存在しないとでも言わんばかりに、生返事すら返そうとしない。
「では、いくぞ」
蘇芳は呆れたように両者を見やると、特に不敬罪を課すことはせず、まずは1回、強く手を叩いた。
「十!」
ダンッ!
梗子と黒瀬の足が、同時に板敷を離れた。
「――――!」
焼き切れるような超高温の殺気が火花を散らして激突する中、蛇の娘と鮫の男が、電光石火の早業で交差し、離れていく。
勝敗は、一瞬間に決していた。
「………………ッ」
カラン、カラン。
ウェークが、板敷の上で乾いた音を立てた。
「ぎっ」
梗子が、喉が詰まるような音を漏らして膝から崩れ落ちる。
「勝負あり!」
「梗子様っ!」
「伊良部さん!」
真っ先に動いたのは、水晶と明だった。
明は急いで梗子の元に駆け寄ると、小柄ながらも筋肉質な身体を仰向けにひっくり返して容態確認に取りかかる。
「ああっ! どうしよう、そんな!」
「落ち着け! 今、心肺蘇生を――」
広間が騒然とする中、勝利を手にした黒瀬だけが、不気味な沈黙を貫いたまま微動だにせずに立ち尽くしている。
その首筋からは、鮮やかな赤色がとめどなく滴り落ちていた。
「黒瀬を手負いにするなんて、あなた凄いじゃないの! 気に入ったわ」
潮路が、梗子の背中に両手を翳しながら上機嫌な笑顔で話しかけた。性格の合わない同僚が敗北寸前まで追い込まれたことが余程に嬉しかったのか、梗子の蘇生に自ら手を貸した上に、回復のための妖力を分け与えるという大盤振る舞いをしているところである。
「お、恐れ入ります……」
梗子が、い草で編まれた円座の上で身を縮こまらせた。妖の血を四分の一しか持たない梗子にとって、龍神の側近を務めるほどに強大な妖力を持つ潮路は、畏怖とまではいかずとも、それなりに近寄り難い存在なのである。
(黒瀬さん、何だかんだ言って、私には手加減してくれてたんだわ)
普段の威勢の良さは見る影もなく、すっかりとしおらしくなってしまった梗子の姿に、まりかは自分がいかにぬるま湯に浸かっていたのかをひしひしと実感する。
(鍛錬のレベルを上げてもらうように、後で頼んでみよう)
そう密かに決心したまりかであったが、その黒瀬はというと、何故か悄然とした面持ちで蘇芳と相対していた。
「たかだか二十数年を生きただけの小娘に急所を捉えられるとは、この黒瀬、まだまだ修行が足りませぬ。かくなるうえは、側近の地位を返上し」
「早まるでない、黒瀬。向こう数百年はお前に居てもらわねば、何かと困るのだ」
「その通りです! 黒瀬様が居なくなっちまったら、オイラたちは路頭に迷っちまいます!」
側近の座を退こうとする黒瀬を、蘇芳や配下の多聞丸が必死になって引き止めている。
「黒瀬さんって、武術マニアみたいなところがあるからさ」
まりかは、手持ち無沙汰で龍宮城の面々を眺めている明と水晶に話を振った。
「杖術にしたって、私が子供の頃に習ってた杖道に興味を持ったのがきっかけで習得したくらいだから。そこから自己流の杖術を編み出して、私に教えてくれたのよ」
「なるほど、そういう経緯が……」
「そうなのですね」
「まったく、黒瀬には困ったものですよ」
潮路が、梗子に妖力を注ぎ込みながら、やれやれと嘆息した。
「黒瀬が武術にうつつを抜かすものだから、私が人間社会や陸の幽世の事情に精通せねばならなかったのですよ。それが、どれだけ大変だったことか!」
聞えよがしにそう言ってのけると、表情を明るくして再び梗子に話しかけた。
「さあさあ! こんなつまらない話は終わりにして、あなたの話を聞きたいわ。あなた、お祖母様が妖なんですってね」
「ええ、はい。エラブウミヘビっつう、海に棲む蛇が怪異化した存在でして……」
エラブウミヘビは、主に南西諸島の沿岸域に生息するコブラ科の爬虫類である。櫂のような形状をした側扁な尻尾を使って海中を泳ぐが、普通の蛇のように陸地を這う事も可能である。また、幼体は青色と黒褐色の鮮やかな縞模様をしているが、成長するにつれて黄みがかった褐色へと変化するなどの特徴がある。
「あらまあ、そうなの」
こうした梗子の解説を感心したように聞いていた潮路だったが、解説が終わると、今度は期待に満ちた表情で次なる質問をぶつけてきた。
「それで、エラブウミヘビのお祖母様は、人間のお祖父様とどうやって知り合ったの?」
「そっ、それは……」
梗子が、何故か口ごもった。
少しの間、逡巡するように視線を右往左往させていたが、最後には真顔になって居住まいを正すと、自らの祖母と祖父の馴れ初めを語り始めたのである。
「もう何十年も前の話です。祖父・太一は、子供の頃から三線を弾くのが好きでした」
梗子の祖父・伊良部太一は、沖縄本島北部のとある海辺の村に住んでいた。とにかく三線が大好きで、毎晩のように縁側で海や月を眺めながら、古い唄や民謡を弾き唄っていたという。
そんなある日の事。1匹のエラブウミヘビが庭先に現れ、唄三線が流れている間、ずっと庭先に滞在するようになった。最初は全く意に介していなかった太一だが、日を重ねるうちに、まるで弾き唄いに耳を傾けているかのようにも見える蛇の様子に、次第に好奇心を掻き立てられるようになったという。
『お前、イラブーのくせに三線が好きなのか。そんなに聴きたいなら、もっと近寄って聴かねえか』
ある月夜の晩、太一は面白半分に誘いかけた。「イラブー」は、沖縄の言葉でエラブウミヘビを指す。「イラブー汁」という郷土料理が存在するように、沖縄では食材として親しまれているものの、太一にはエラブウミヘビを好んで食べる習慣は無かった。かと言って、特段蛇が嫌いというわけでもなかったため、蛇であれ何であれ自分の唄三線を好いてくれるのなら悪い気はしないというのが、太一の本音だったのだ。
すると、まるで太一の言葉を理解しているかのように、その蛇はするすると太一の足元に近づいてきたという。
その後の展開は、言わずもがなである。
「――月が満ちては欠けを幾度も繰り返した末の、海が鏡面のように凪いだある夏の日の夜。祖母はついに、人の姿をとったそうです。祖父は、祖母に『ナギ』って名前を与えて、その日のうちに契りを交わしたと聞いています」
梗子は口を閉じると、気まずそうにポリポリと頬を掻いた。
(そっか、だから梗子さん……)
まりかは思わず、明や水晶と顔を見合わせた。
先月に発生した東京湾における無線交信妨害事件では、声だけの怪異・メルルファへの対抗策として、まりかや明たちは船上バンド演奏作戦を実施していた。その作戦の立役者となったのがバンド演奏の経験が豊富な梗子だったのだが、最初に作戦を思いついて提案したのは、後輩である明だった。
(梗子さんがあそこまで熱烈な指導をしたのは、仕事に対する責任感だけじゃない。音楽によって想いを伝えようとした明の姿に、お祖父様の影を重ねていたんだ)
まりかと同様の気づきを得たのだろう、明と水晶もまた、胸を打たれたような表情で梗子を見つめている。
「まあまあ、素敵な話じゃないの!」
妖力を注ぎ終わった潮路が、品の良い小さな手で梗子の背中をパタパタと叩いた。
「じゃあ次は、あなたのお母様とお父様の出会いについて聞かせてちょうだいな!」
「えっと、その……」
「あの、潮路さん」
しどろもどろになった梗子を見かねたまりかが、潮路を押し留めようとする。
ところが、華やかな「恋バナ」の空間は、突如として割り込んできた鋭い一声によって幕を閉じたのだった。
「伊良部梗子!」
「はいっ!」
黒瀬の呼びかけに、梗子が円座の上でビシッと背筋を伸ばして即答する。
合気道の道着に派手な柄の羽織とバンダナという奇抜で個性的な格好をした黒瀬が、普段は穏やかな鮫の目を険しくして梗子を睨み付けている。
その黒瀬が、誰もが予想だにしなかった「命令」を梗子にぶつけた。
「紙一重の勝利など、敗北とさしたる違いはない。このままでは俺の気が収まらん。お前、俺の師となり、弟子となれ」
「は、はい!?」
目を白黒させる梗子には構わず、黒瀬は重々しい口調で不退転の覚悟を述べていく。
「お前が知りうる技の全てを、瓶の水を移すが如く俺に伝授するのだ。そうして己が血肉と成し、そこから新たに編み出した技によって、お前を更なる高みへと引き上げてやろう」
「黒瀬、あなた言ってる事がおかしいわよ」
潮路がすかさず突っ込みを入れたものの、黒瀬は一瞥もくれることなくピシャリと跳ね除ける。
「潮路、これは武人同士の話だ。お前は引っ込んでおれ」
「望むところです!!」
鬼気迫る黒瀬の決意表明に圧倒されていた梗子が、弾かれたように円座から立ち上がった。
ずんずんと黒瀬の前に進み出ると、早速ウェークを取り出して黒瀬と差し向かう。
「では、手始めに――」
「もう、仕方のない妖たちね」
潮路は、救いようが無いというように肩を竦めると、女官服の長い袖で広間の出口を示した。
「まりか様、それから菊池様も。〈門〉を開けて差し上げますから、巻き込まれないうちにお帰りなさいな」
「では、お言葉に甘えて……」
まりかと明は、潮路の勧めに従うことにした。
一同は蘇芳や多聞丸に暇を告げると、潮路の案内に従って廊下を抜けて門を潜り、龍宮城の外に出る。
「明と水晶は、まだ仕事?」
「そうだな。事務仕事が結構残ってるから、今日は残業になりそうだな」
「まりかさん、カナさんによろしくお伝え下さい」
「うん、伝えておくね。多分、明日の朝までには何食わぬ顔をして帰ってきてると思うから」
このように挨拶を交わすと、まりかは象の鼻桟橋に、明と水晶は横浜海上防災基地に繋がる〈門〉を通り抜けて、それぞれの帰途についたのだった。