残酷な描写あり
Track:3 - There's Danger in Your Eyes
――“絶望”。
Qはある夜のことを思い出した。
それは6年前。冷たい雨の夜だった。すべてを失った夜。始まりの夜。
……かつて、自分が死んだ夜。
――土砂降りでも落ちない返り血をつけ、戦友に追われ、どこに出るかも分からない裏路地を走っていた。片手には“彼女”の手の温もりを、もう片手には赤色の愛銃を握り、絶望に抗っていた。未来に向かって――走っていた。
「待て。待たないか!!」
戦友だった者の声がして、“彼女”の足が止まる。
「何してんだッ! 逃げるぞ!」
「待って。あの人、女の子、狙ってるよ……」
「え――――ッ!?」
そして聞こえた銃声とマズルフラッシュ。その先は……思い出したくもない。
癒えない傷。6年という時間でも傷口は塞がれず、ただ化膿したのみ。日常の中で忘れることはできても、不意に立ち現れる恐怖は拭えない。
それこそが“絶望”。かつてQも味わった人生の袋小路だ。
――それを、この小さな少年は抱えていたのだ。
リオンは倒れた。
過労ではない。寝たワケでもない。
ただ、彼の中に眠るペンデュラムの力が呼び覚まされたのだ。
「……マジに倒れちまったじゃねェかよ!」
マスターは慌てる。シュガーも口を覆って驚いていた。
リオンの“絶望”を見抜いていたQは、賭けに勝ったこと、彼が能力を得たこと、それらのことを純粋に喜べずにいた。
「こんなガキでも、過去を持ってるヤツもいるもんだな……」
――それは決して喜ばしいことではない。
Qも、シュガーも、マスターも、それぞれがそれぞれの暗い過去を持つ。だからこそリオンに同情せざるを得ない。
シュガーはリオンに駆け寄り、彼の身体を揺さぶった。
彼はパチリと目を覚ます。勢いよく起き上がり、落ち着かない様子でバーの中を見回した。
「あ……? なんだ?」
ただならぬ気配を察知したQとマスターの2人だったが、少し遅かった。
「いッ! たぁ……」
シュガーの腹部にはリオンの拳が深く沈み込んでいた。そこから飛び退いたリオンは、彼女に鋭い視線を飛ばす。
「リ、リオン? 一体どうしたの……?」
「殴られたのか! 大丈夫かよ」
「こいつはマズいかもしれねェな。敵意があるらしい。Q、やるぞ」
マスターは“拡張体”の拳を握り、リオンを睨みつけた。サングラスの上でも分かる一触即発の形相。
バーのマスターとしての彼はそこにはいない。
Qは右足を抑えながら立ち上がる。
「待ってくれマスター。カクテルを頼んだのは俺だ。俺がやる」
「……そう言うんならケジメつけやがれ」
Qはリオンの眼差しを受け止めるや否や、右手を自身の胸元に据える。内ポケットの得物を取り出す構えだ。
「ッ! ダメだよ、Q!!」
「傷つけるために助けたんじゃねェよ」
リオンの目には明らかな敵意が宿っていた。殺すだけでは飽き足らないだろう。Qが死んでもなお、その身体をズタズタにしてやらんとする者の眼だ。
「おっかねェな……将来が心配だぜ」
リオンも自身が不利な状況にあることを理解しているらしい。膠着状態が続いた。
しかし、そこでリオンが口を開ける。
「――“イービルアイ”。君は、またしても私を殺すのか」
『“イービルアイ”』。その言葉を聞いたQとマスターは困惑した。シュガーには何のことかさっぱり分からない。
「お、おい、何で坊主がそんなこと知ってんだよ!」
「…………まさか」
Qにだけ心当たりがあった。厄介なことになったかもしれない。Qは苦い顔で銃を下ろす。マスターは慌てて声を上げた。
「――バカ野郎ッ!!」
リオンはQに肉薄する。手前で踏み込んだリオンは、下から拳を伸ばして彼のみぞおちを狙った。
素人ではない動き。Qの勘は的中する。嫌な方向で。
彼は丸腰でリオンの攻撃を受けようとしたわけではない。リオンの攻撃を左手でいなし、彼の背中を銃床で叩く。
そのままソファーに突き飛ばして、リオンの身動きを封じるべく組み伏せた。
「勝てるワケねェのは分かってるはずだろうが……」
「――きゅ、Qさん……痛いです」
「あ? お前さんは今どっちだよ? 俺を化かすつもりじゃねェだろうな」
「へ? な、なんでぼくがQさんのことを……」
Qはシュガーに目配せをする。彼女は飛ぶようにカウンターの方へ走って、黄色の缶を片手に戻ってきた。彼女がプルタブを開け、缶を彼の口に持っていく。
それを飲んだQは、改めてリオンに問いただした。
「今のお前は正真正銘のリオンで、俺たちに敵意はないんだな?」
「も、もちろんです」
Qはようやく安心して、リオンを解放した。
「悪かったな。お前さんのペンデュラムが厄介だったもので。自分が何をしたか覚えているか?」
「い、いえ。気がついたら、Qさんに……」
「“乗り移り”、か」
「えっ、ぼく、誰かに乗り移られてたんですか!?」
「それがあんたのペンデュラムの力だ」
Qは突き放すように言って、内ポケットからライターを取り出した。吸って吐いた煙の向こう側で、リオンは驚き戸惑っていた。
「――右。お前さんのその右ポケットの中を見てみろ」
リオンは言われるがままに、ポケットの中にあった一枚の紙切れを取り出した。『Q』のカード。
「“極夜の11番道路”、その終点にこのバーがあって、そこに俺たち何でも屋がいる。“絶望”を乗り越える手伝いをするのが俺たちの仕事だ。お前さんは、どうしたい?」
「ぼくは…………」
リオンの声は先細りしていった。Qは険しい顔で彼を見つめる。
ここで彼が助けを求めてくれなければ、助けられない。
――頼む。Qは心の中で祈った。
「……父を殺した人を、捜しています」
その一言でQは脱力した。大きな煙の塊とともに安堵の息をつく。
「それなら人探し、かな? 大丈夫。人口850万人のアーデントでも、ウチらなら――」
「――違います。そいつを見つけ出して、復讐を……殺さなきゃ…………!! ぼくが、この手で殺して、そしてケリをつけるんです。過去に……」
子供とは思えない恨みの強さ。本気でそう思っているらしい。殺意がひしひしと伝わってきた。
「殺す……!? そんな……」
「……あんた、強いな。俺とは大違いだ。いいぜ、乗った」
その過激な単語に困惑するシュガー。Qは動揺せず、テーブルの上の紙をリオンに差し出す。
「うちは正真正銘の何でも屋だ。俺たち2人に実害が発生しない限り、何でもやってみせる。もちろん、依頼料と“信頼関係”の上に、な。前金ってヤツだ」
「は、はい……」
「だが、あんたは正真正銘のガキ。報酬は後からでいい。金額は、そうだな……“人ひとりが当分の間生活できる程度”、少なくとも300万ってとこか」
「さ、さんびゃくまん……」
リオンは狼狽える。想像できないほどの大金だ。しかし、彼は額面に負けず力強い返事をした。
「そのくらいなら出せます。死んだ父の手当があるので」
「なら、サインでそれを証明してみな」
Qはペンで紙を指し示す。彼がペンを転がすと同時に、リオンはそれを取った。リオン・コーエン、彼自身の名前を。
「書けました」
「『コーエン』、か…………整った字だこと。育ちの良さが知れるな」
Qはペンを取り上げ、契約書の空いた欄をくまなく埋めていく。慣れた手つきだ。
「そうだな…………2日だ。2日で犯人を見つけて、あんたの前に突き出そう。いいな?」
リオンは頷きながら、Qの話に耳を傾ける。
「――最後に確認しよう。犯人を探して報復するために、あんたにも協力してもらう。構わないな?」
「わかりました」
「契約成立だ。以上、俺は一服してくる」
Qは右足を引き摺りながらバーを出た。マスターもそそくさと後に続く。
室外機に腰掛け、Qは煙草に火をつけた。
換気扇、車、重く響く低い音の数々、街の胎動。わざわざ音楽を聴かずとも、それらの音だけで心は満たされる。
同じようにマスターも座るが、室外機は痛そうにメキメキと音を立てた。
「おい、Q。あいつは何者なんだ?」
「見ての通りのガキさ。まだ一人で生きてくのは危ういだろうな」
マスターは身体の大きさに似合わない煙草をちょこんと咥えた。葉巻なんか吸う大人になっちゃいけない、とはマスターの言葉だ。
「お前だってまだガキだ、“煙草道”にゃまだ早え。それとも俺が信用ならねェか?」
「まさか……。俺は加害者なんだ」
「斬新な自己紹介だな」
Qは深呼吸をして息を整える。吐き出すのにも思い切りが必要だった。
「そして、あいつ――リオンは被害者。俺はあいつの父親を殺したんだ」
それは、いつか白状しようとしていた過ち。いや、彼が現れなければ隠し続けていただろう。
――リオンの依頼は、Qを殺すことだった。
なあなあにしていた罪悪感が、その言葉を辿ってQの全身に降り掛かった。どうして今まで自分がのさばり生きていたのかとすら思う。
「……それはいつのことだ」
「あんたと出会った夜。6年前さ」
「どうしてリオンの依頼を請け負った。過去を清算するいい機会だとでも思ったか?」
「そんなに思い上がってないさ。あいつを助けてやりたい。それだけだ」
「フン。よく言うぜ……お前こそ助けて欲しがってる癖によ。『2日』ってのはどういう魂胆だ」
「俺にも準備はいる。そしてあいつが1人でも生きていけるように、お膳立てしなきゃな」
マスターは煙草を室外機に押し付け、立ち上がった。そして一呼吸、二呼吸をおいて口を開く。
「そうだな……シュガーに打ち明けるのは然る時が来たらでいい。お前が“お人好し”で死のうとしてんのなら、あいつは許しちゃくれねェぞ」
それだけを言い残してバーへ戻った。まさにQが憧れたハードボイルドの体現者だ。根掘り葉掘り聞こうとしないのがありがたかった。
――この依頼が終わったとき、果たしてリオンは幸せになれるだろうか。シュガーは。
そして自分はどうか。Qは思いに耽った。
煙草の先から出る煙は換気扇の風に吹かれ消えてゆく。Qは深めに吸い込み、濃い煙を吐き出してみた。
「ブローウィンインザウィンド……」
小さく呟く彼は、その煙の行く末を見届けることなく、ただ目を閉じて、作り笑いをしてみせたのだった。