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作者: 沖房 甍
暗躍者
 事は数日前に遡る……。
 牧と咲楽は山梨の二日間ですっかり意気投合してしまい、神奈川に舞台を遷したこの初日、牧は咲楽の事務作業を手伝う約束を交わしていた。だいぶ早めに会場入りしてスタッフ用のプレハブに入ると一台デスクトップが据えられた事務スペースにどっかと腰を据える。そこで咲楽が自前のノートPCを開き、その脇で牧がちょこんと座って雑務に備えた。

「こうして掲示板への書き込みとか見ているとどこにでもいるのね、アンチとかクレームとか送り付けてくる人が。咲楽さん、しんどくない?」
「いえ、もう慣れちゃったから」

 実際こうした手合いは今に始まった事では無い、牧がここを訪れる直前にもコミュニティーにとって大きな事件があったばかりなので、咲楽にはすっかりその耐性が身についていたのである。

「コロナ疲れをはじめとして、社会的不安やストレスにネット特有の利己的正義感が相まっちゃって、被害者を装って加害者の側に回る事で快楽や欲求解消を求める人たちが増えてるんでしょうね。でもいちいち相手にしていたらキリ無いです」
「そうかもね。でもネットだとみんな最初は理解や称賛で近寄って来るから判別が難しくて困っちゃうな……いや、私はそーゆーのあまりしない方だけど」

 そう言えば去年インスタ開設したのに今はすっかり放置状態だった……と牧は我が事ながらに呆れ返る、基本的に自分はSNSの類にはあまり興味無いのだろうと自己分析している。

「判別が難しいと言えば、最近ちょっとトラブルになった人もそんな感じでした……」

 他ならぬヴェラティの一件である、咲楽はかいつまんでその事の起こりを語り始める。

「その人も最初は過ぎるほどフレンドリーだったのだけど段々企画に口出しする様になって、色々注意したら豹変しちゃって……。しばらく放っておいたら掲示板に姿を現さなくなったんだけど、間をおいて書き込みが再開された時にはもう喧嘩腰だったのよ。最終的には会場で騒ぎを起こす事を示唆するような書き込みを始めたんだけど、丁度不破さんが出入りしてくれていた時期でね……、あの人のおかげで事無きを得ることが出来たんです」

 ついこの間の事だったのに何だか妙に懐かし気に語る咲楽。喉元過ぎれば何とやらで、事件当時はあれほど気分が滅入っていた記憶がその後の日々の充実具合でこうもあっけらからんと語ることが出来てしまうのかと、咲楽は何とも奇妙な気分に囚われる。

「ん~……あれぇ?」

 だが一方の牧は彼女の話を聞いているうちに、何が気になったのか首を捻りだす。

「……どうしたの? 何か疑問でも?」
「うん、………何かさ……その人本当に最初の頃と同じ人?」
「……えっ?」

 牧の一言に咲楽が絶句する。それがあまりに大きな驚き様だったためか、牧の方が今度はそのリアクションに戸惑いを見せた。

「いや、そんなに驚く事じゃ……咲楽さん?」

 牧が彼女の目の前で掌をちらちら左右に振る。大丈夫ですとばかりに咲楽はその手を即座に受けて止めた。

「……それ、不破さんにも同じこと聞かれた」
「あ、そうなんだ」

 身に染み付いたものは簡単には払拭できないとはよく聞く話だが、こと仕事に関して随分色々なものが彼の影響として自身に染み付いちゃってんだなァ……などと牧はつくづく思い知る。ほんの少し前であればそれを快くは思えなかったかも知れない……が、今の自分はそれを踏まえた上で更に自身のアイデンティティーを確立できるという覚悟と自信がある。
 そんな牧に何か感ずるものでもあったのだろうか、咲楽は感嘆にほんの少しの羨望の混じった眼差しを向けて問いかける。

「何なんだろ? 牧さん達みたいな仕事している人たちだから分かる様な何かがあるのかな?」
「う……ん、何だろね? 先輩が何をもってそう言ったかは分からないけど、私がその話を聞いて思うのは──」

 漠然とした感触を頭の中で象らせて言語化を試みる。

「──たぶん、この人の態度……前後を繋いでいる真ん中……というか、過程が無いのよ。だから突然脈略も無く変わっちゃっている様に感じるのかな? ……まるで別人になったかの様に……」
「過程……ですか」
「そう。聞いたところその人、一度大人しくなった空白期間があったらしいけど、その間に何かがあってそうした攻撃的な性格が増しちゃったのか、でなければ別の誰かになっちゃったか……そう考えられるのよね。で、普通はそうした過程の部分が垣間見えるもんなんだけど、どうしてもそこの所が欠けてるように感じるのよ」
「なるほど……」

 それならば突然人が変わった様になるものの喩えで豹変という言葉もあるのだが、牧の言うところにも一理ある。さすがに別人にすり替わってしまっているなどとは考え難いが、その空白期間に本人の意識が変わってしまうような何かしらの要因があってあの事件に至った可能性は十分あり得る話であろう。
 ネットの世界で起きている事が現実の世界ではなかなか認識できないのと同じ様に、現実の世界で起きている事もネットの側から見ると簡単に認識できるものでは無い。時に人は自身の周囲の空間のみを世界の全てと錯覚してしまう様に、自身を取り囲む情報以外のファクターが存在する事を、自分は失念していたのではないか? ……咲楽は今更ながらそう思うのである。

「それに、仮に前後のその人が同一人物であっても、人間の態度に大きな変化がある時には大抵誰かしらが絡んでいる場合が多いのよ。人間の心って必ず誰かに影響されるものだから」

 実際、自分がそうだった。……もしも松原がいなかったら、自分は今でもここまで自分と向き合えることは出来なかっただろうと思うのだ。だから牧は松原と会えた事に心から感謝する気持ちを今なら持つことが出来る。そうした自分の心理的変化を『正の成長』とでも呼ぶのであれば、このヴェラティの変貌は正に『負の成長』とでも呼べるのかも知れない。

「もしかして、ヴェラティの一件って裏で糸を引いていた……いや、それは大袈裟として……そそのかした人間がいたって事?」
「あくまで、可能性の話としてね……」

 牧は明言を避けたが、そうなると咲楽としては終わったはずの事件に不安要素が発生してくる。べラティの凶行未遂は只の氷山の一角だったのではないか……と。

「もしも……もしもそれが本当だとしたら、まだ事件は終わっていないんじゃ……?」

 咲楽は不吉な予感に襲われてこれまでのヴェラティの書き込みとDMのファイルを開く。二度と開くつもりは無いと思っていたファイルに記録された吐き気を催すような悪意の塊に、不快な気持ちをぐっと抑えてその変貌の瞬間を探り出す。程無くして作業の手を止めた咲楽は手元のノートPCの画面を牧に向ける。

「ねぇ牧さん、ちょっと見てくれる? これは彼女──ヴェラティの書き込みが一旦途絶える直前の日付。そしてこっちはそれまで同時進行で毎日送付されてきたDMが途絶えた日付なんだけど……」

 牧が画面をのぞき込む。これによると書き込みが途絶えた日付はDMが途絶えた二日後になっている。

「二日のズレがある……?」
「うん、もちろん彼女のスケジュール的な都合でそのズレが生じた可能性も否定はできないんだけど……この日付のズレって私には何だか奇妙に思えるのよ。牧さんは客観的に見てどう思う?」
「その人すっごい粘着質だったんでしょ? どっちもいっぺんに途絶えるならまだ分かるんだけど、二日DMが先に途絶えているって……違和感は感じるよね……それに──」

 牧はヴェラティのDMが途絶えた直後のメール……こちらサイドからの返答のメールを指差す。

「この直後のメールってここの人がそのヴェラティって人に出したメールよね?」
「うん、私が返信した」
「他人にマウント取るタイプの人間って一つ顕著な傾向があるのよ……って、これは先輩の受け売りなんだけど──」

 別に今言うべき事では無い前置きに牧はちょっと気恥ずかし気に目を伏せ、再び続きを語りだした。

「──そういう人って必ず自分が最後に捨てゼリフを吐いてやり取りを終わらせないと気が済まないらしいのよ……って、いや、自分がやりとりの最後にならないと気が済まない人が全員マウント体質……って訳じゃなくって、マウント体質の人間がそうである……って意味だけど。ともかくこの人の場合、空白期間寸前のこのメールに限って咲楽さんの返信に何にもリアクションすること無く終わっちゃっているのが気になるんだよね」

 言われて咲楽がそれ以前のやり取りを確認し出す、確かに必ずと言って良いほど最後はヴェラティからの捨てゼリフで終わっている。こちらの反論反証を返そうものならその度にこちらを罵る言葉を突き返さなければやり取りは延々終わる事が無かったのだ。

「そこで何かがあったのならその後に書き込みも無くなるはずだよね? または両方とももっと激しくなるはず。でも実際には書き込みだけがこの後二日間続いている……これって変よね?」
「そうね……、でもそれってどういう事だろ?」

 咲楽は明解な理由を導き出せず徒に前後のDMを行ったり来たり……だがしばらくそれを繰り返した後、急にキーボードを叩く手が止まった。

「………あ」
「え、どしたの咲楽さん? 何か分かったの?」

 思わず絶句してしまった咲楽の肩越しに牧が画面を覗き込む、そうしたところで牧には何も分からないのだが……。
「ひょっとしたら……、いえ、でもそうなると………そんな事が……」

 一体何に気付いてしまったのか、咲楽は目に見えて狼狽うろたえている。

「咲楽さんっ!」

 見かねた牧は両手で咲楽の頬を挟み込んでこちらに顔を向けると、正面からその目を見つめる。

「どうしたの? 一人でおろおろしていてもしょうがないでしょ?」
「え……うん……」

 我に返った咲楽は牧に頭をホールドされたまま頷く。

「今DMの履歴を見て気付いて……、その……可能性……の話だけど、その二日間に誰かがこのアカウントからヴェラティにDMを出して……それで……そのメッセージを消去している……………かも……」

 とても認めたくないといった調子で途切れ途切れに言葉を絞り出す咲楽の様子に、牧もその狼狽の意味を悟って顔色が変わる。

「……え? だって、そしたら……それって……」
「うん、信じられないけど……スタッフの……誰かが、ヴェラティとつながって……いた…って事になっちゃう……」

 後はもう言葉にならない。だがそれが事実だとしたら一連の騒動にスタッフの誰かが加担していたことになってしまうのだ。幸いなのか不幸なのか、彼女たち二人しかいないプレハブが重苦しい沈黙に覆われる。


 しばしの間をおいて、口を開いたのは牧。

「………ま、まだここの人がやったとは限らないじゃない? このアカウントを管理できるPCっていくつあるの?」
「アカウントを見るだけならスタッフ全員が各々の端末で出来ますけど、ダイレクトに管理出来るのは私のこのPCの他はそのデスクトップだけ……」

 咲楽は後ろのテーブルに乗せられたデスクトップを指し示す。

「でも、パスワードさえ知っていれば外からだって管理は出来ちゃう……それは中枢のスタッフで共有しているから、その人たちなら全員が可能だって事になる……けど……」

 それより先を語ることにためらいを見せる咲楽。中枢といっても恐らくその面子は限られている事だろう。HPや事務連絡を担当している咲楽本人はともかくとして、企画の九品礼、各種申請を扱う蹲、経理の中林辺りはその対象となる……が、そうであっても、これまで共に事に当たってきた仲間であるわけだから本当はそんな可能性さえ考えたくない咲楽の気持ちは理解できなくはない。

「それじゃあ……その消されたDMを元に戻すことは?」
「うちのSNSで使っているツールでは無理……一度消去したメールの復元は出来ない様になっているもの。でも消去は自分の側だけに限られているから、DMを送った相手の方の記録には残っているかも──」

 ……と、口にして咲楽がハッとした表情を上げる、すぐにPCに向かって何やら操作を始めると、一瞬だけ躊躇するかの様な素振りを見せて、だが意を決して牧に向き直った。

「ねぇ、牧さん………これから私のする事、絶対に秘密にしてもらえる?」
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