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作者: 沖房 甍
裏聖火リレー
 誰かが砂に足を取られて転倒した。どうやら年配のランナーらしい、周囲から同じグループらしき老人たちが駆け付け助け起こす。トーチの火も転倒の際に砂をかぶって消えてしまったらしいが当の本人はげらげらと笑っている。

「……気楽なもんだ」

 その光景を眺めていた不破の口からほとんど無意識に呟きが漏れる。虚無感に支配されていた今の不破にとってはその光景も大した関心を引かれるものではなかったのだ。

──だが、幸せそうだな……。

 不破がそんな事をぼんやりと考えていると県道側から一台の小型車が降りてきて彼の前で停車した。

「お待たせして申し訳ありませーん、東京から来た記者さんですよね?」

 不破の姿を認め車内から出てきたのは大きな丸眼鏡をかけた小柄な女性だった。彼女は不破を見るなり一度「あっ」と声を上げると、すぐに何事も無かったかのようにあどけのない笑顔で不破の許に駆け寄ってくる。
 一見すると高校生にしか見えないような幼い顔立ちとどこかあか抜けていない格好、標準語を用いているが僅かにイントネーションに訛りが混じっている。人懐っこそうだが若干野暮ったさを感じる娘だ……というのが彼女の第一印象だった。

「初めまして、この『勝手に聖火リレー』で広報を担当してます咲楽詩穂サクラ シホと言います」

 そう名乗って女性はぺこりと頭を下げた。

「週刊慧哲の不破です」

 少し屈んで不破は咲楽に名刺を渡す。

「え、……あー、すいませんっ! 私、名刺持ってなくって……」

 名刺を受け取ると一瞬困惑を浮かべた咲楽は、慌てて懐からスマホを取り出す。

「代わりにこれで……」

 そう言うと申し訳なさげに自分の電子名刺を不破のスマホに送信した。

「……あの…、こういうのは失礼だったでしょうか……?」

 少し遠慮がちな上目遣いで頭二つ分も背の高い不破を見上げる。その何とも素人然とした拙い対応に思わず不破の気も緩む。

「いや、十分ですよ。取材を受けて頂いて感謝いたします」
「はい、こちらこそよろしくお願いします!」

 こちらの態度の軟化を見て取りようやく安心したのか咲楽も満面の笑顔で不破に応じた。

──よほど自分は怖い顔をしていたのだろうか?

 さっきもこっちの顔を見て驚いていたのを思い出す。実に反応が判りやすい咲楽のリアクションに不破は自身を省みた。

──いや、きっと険しい顔をしていたんだろうな……。

 そう言えばここ暫くずっと気を張っていた事に今更ながらに気付くのだ。もちろん先日までの件がずっと尾を引いていることは間違いない。だがそれ以前からもどこか心の奥底に澱みを抱えてきたこともまた否めない。……一体いつから自分は腹の底から笑うことをしなくなったのだろうか……?
 古巣の新聞社を辞めた時か? 確かにそれは人生において大きな傷を負い、都落ちするように第一線から追いやられた時期だった。その後は燻ぶる野心の火を抱え、深く静かに再起を図る日々……それが自分から穏やかな感情を奪ったのだろうか?

 ……いや待て、と思い直す。

 それでも笑った記憶はあった。ささくれた感情が癒える様な穏やかな時間の記憶……それは───


「──って、不破さん、聞いてますか?」

 憶えたての舌っ足らずな声が不破の思考を現実に引き戻した。見れば咲楽が不思議そうな面持ちで不破を窺っている。

「ああ、いや、ちょっと考え事を……失礼しました」
「やだ、やめませんか? 敬語は」

 ぷっと吹き出し咲楽は笑い出す。

「あんまり畏まらないで下さいよ。不破さんお客さんなんですから、もっとこう偉そうに……ん? えらそーに??」

 何だか最後の言い回しが間違っているような気がしたのか、咲楽は自分のセリフに首を傾げる。あざといのかそれとも天然なのだろうか……そのどちらであったにせよ、彼女の場合はあまり人に不快感を与える様なタイプでない事だけは確かだ。

「……はぁ、まぁ徐々に砕けていきますよ」

 だからと言っていきなりフランクに接するのも自分には無理があるな……などと内心思う。自分にとって砕けた口調は自身への武装である。それが親しき者に対してであってもその奥底には何かしらの挑戦心や値踏みが含まれていたりするので、よほど自分のそうした性格を承知した人間にしか用いないのだ。

「それで……申し訳ない、聞き逃してたのでもう一度聞かせてくれますか」
「あ、はい。今日はこれから車で私たちの代表の所にご案内します」

 そう言って咲楽が指し示すのは先程彼女が乗ってきた小型車だ。

「会長は……あ、代表のことを私たちはそう呼んでるんですが……この先の海水浴場にいますので、まずはそちらまで。活動の概要は道すがら車内で説明しますね」

 2シーターの狭い車内に潜り込むと咲楽は車を発進させた。路面にかぶった砂で一瞬タイヤを空転させるとおもむろに砂浜に突入していく。

「え、砂浜を走っていくのか!?」
「本当は舗装道路を走る方が早いんですけど、国道は海水浴場付近に直に車を乗り入れる入口が無いんですよ。別のルートだと遠回りになっちゃいますし……ちょっと揺れます~!」

 砂の盛り上がりに乗り上げタイヤが跳ね上がる……ちょっとどころの話ではない。玩具の様な小型車は車輪を砂に沈めながらしばしの間ランナーとの並走を決め込んでいた。
 助手席の不破が左手に目を移すとまた一つランナーの集団を追い越してゆく。ランナーのグループは一つではないらしく、走る先々で別のグループと遭遇する。

「ここの砂浜のドライブウェイを走るのを希望する人が多くって、すったもんだの末に時間を割って走ってもらうことにしたんですよ。当日の許可とか交通規制とか、手続き大変でした」
「思っていたよりもずっと秩序的に運営されているんですね……」

 すっかり感心した様子で不破が感想を述べる。最初に感じた個々のランナーの無秩序っぷりはあくまで走者としての範疇においての話であって、どうやらこのリレー全体はしっかりしたルールによって管理統制が為されたプロジェクトとして成立している様に見受けられるのだ。

「えー? もしかして、もっと無軌道でカオスな、渋谷交差点のハロウィンみたいなお祭り騒ぎを想像してたんじゃないですか~?」

 ちょっといたずらっぽく横目で不破を覗き込む咲楽、砂に車輪を取られてまたもや車体ががくん、と大きく弾んだ。

「いえ、そういうわけでは……」

 慌てて否定してはみたが、渋谷のハロウィンの喩えは実際にそれを言った人間が身内にいただけに何とも心苦しい。それを見透かされたのか否か、ちょっと肩を竦めてみせて咲楽は苦笑を漏らす。

「無理ないですよねー。『裏聖火リレー』なんて、誰が言い出したか知らないですけどイメージ悪いですもん」

 からからと笑い飛ばす咲楽、きっと今までも似た様な陰口に遭ってきたのだろうことは容易に想像がついた。

「本当は『勝手に聖火リレー』って名称があるのに、そっちは全然定着しなかったんですよ──」


 聖火トーチ強奪事件があって間もなくの事……、ネットでも事件は取り沙汰され、特に匿名掲示板ではあること無い事無責任に様々な声が飛び交った。オリンピックの意義であるとか、政治的背景であるとか、中には極論的な中止論を持ち出し議論の場を荒らそうする手合いも決して少なくなかった。
 そうした中、ちょっとした書き込みをきっかけに奇妙なムーブメントが持ち上がる……「それなら自分達の手で理想の聖火リレーを企画してしまえ!」……と。やがてそれは独自のSNSを母体としたコミュニティーの立ち上げを経て実現に至る事となった。
 時にネットに集う不特定多数の力は驚くほどのバイタリティーを社会に示すことがある。件のSNS上では様々なアイデアが挙がり、ルールやレギュレーションの設定、参加者募集告知、運営費用の捻出方法……等々、そうした各種の事務が不特定多数のマンパワーを活かして自主的、具体的に次々と決められていったのである。
 こうして聖火リレーのグランドスタートから遅れることひと月半、通称『裏聖火リレー』こと『勝手に聖火リレー』は本家と同じ福島県からスタートし、各県を移動しながら開催される運びとなった。最初こそ少人数で慎ましやかに執り行われていたものの、回を増すにつれ参加者は次第に増加し始め、現在は非公認ながらも全国規模の大プロジェクトとして世間を賑わすようになったのである。


「とにかく最初のうちは本家のスケジュールに追いつけー! って必死だったんですよー。でも何とか近日中に追いつきそうでホッとしてます」

 この数か月の苦労話をあっけらかんと語る咲楽、実際には話よりもずっと苦労の連続であったことだろう。
 彼らにアポイントメントを試みた不破も、実際に具体的なやり取りを交わせるようになるまでに三週間を要した。もちろんそこには信用を得るために要した時間も含まれているのだが、何よりもそれだけ現場が混乱した状態だったことは想像に難くない。こうして今日、窓口として対応してくれた咲楽をはじめとする運営者らと会えることになったのも、ようやくその活動が安定してきた証と言えよう。


「……さぁ、着きましたよ」

 気を抜いていたために停車の際、ブレーキの反動でぐん、と体がつんのめりシートベルトで締め上げられてしまった。
 砂浜の脇に建てられたレストハウスの駐車場、咲楽はシートベルトを外して下車すると不破がそれに倣うよりも早くさっさかと反対側に回ってドアを開けて促す。車内から身を起こすとつんと潮の香りと焼けた醤油の匂いが流れてきた……どこかで露店でも出しているのだろう。

「どうぞこちらへ。会長はこの先で待ってます」
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