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作者: 鈴奈
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『今夜も、乾杯』

 きゃ~~~~~~~~~~!!!! 緋王様~~~~~~~~~~!!!!

 画面越しの緋王様に乾杯して、一升瓶を飲み干す。
 これまでの「ひおさんぽ」を見ながら、乾杯のたびに一升瓶を飲み干していたら、いつのまにか朝になっていた。

 夜通し推し活をしていたら、皇への萌え感情はすっかり落ち着いていた。
 皇の顔は好きだが、萌え発言をするとき以外の皇に魅力は感じない。顔のよさプラス萌え発言をしたときのギャップの爆発力がどでかくて血迷ってしまっただけなのだ。
 一方、緋王様は素晴らしい。普段の姿は涼やかで穏やかな京都人なのに、俳優として演じるとたちまち美しい登場人物になってしまう。普段はおっとりしているのに、激しいアクションも難しいダンスも華麗にこなしてしまうのも良い。しかもその時の本気の顔がもう、かっこよくってたまらない!
 緋王様こそギャップの塊。魅力の塊!
 緋王様しか勝たん。絶対、一生推す。
 
 リン、と電話のベルが鳴る。
 クソハデスか。
 ため息をつき、指を動かすと、黒電話が大量の空き瓶の中から苦しそうに浮き上がってきた。

『おはよう、キル・リ・エルデ。三日目の日本だね。気分はどう?』

「いい気分です。どうぞご安心を」

『そう。じゃあ、僕のこともいい気分にしてよ。いい土産話を待っているから』

 ガチャリと電話が切れる。
 
 死ね。
 
 私より二、三百年早く生まれ、全知全能の神から西洋の死神を統率するよう命じられたからといって、えらそうに。
 私は、安定した堕落生活が送れるがためにこの地位にいてやっているのだ。そうでなければ、私の方が力は上だ。

 怒りを鎮めようと、一升瓶をにぎり、日本酒を喉に垂らす。
 しかし、一滴ほどしか落ちてこなかった。
 あたりを探るが、空き瓶だらけ。
 しまった。手持ちの日本酒をすべて開けてしまった。
 日本酒は私にとって命の水。これがなくば仕事がままならない。
 
 今日は任務帰りに日本酒を漁りに行こう。

***

 今日は地獄の時間割であった。
 化学、古典、物理、数学、世界史、生物。
 全て座学で皇に何も仕掛けられないし、そもそも、いわゆる理系科目というものに面白みを感じない。
 万物のあらゆるものには定義がある、あらゆるものが数字の配列でできているなどとのたまう人間の至らない思想など、阿呆らしくてくだらない。我々神の存在さえ認識していないくせに、世界の全てを分かったつもりでいるなど、本当に愚かだと思うばかりだ。
 唯一の救いは古典であった。日本の古代の文学! 言葉! ジャパニーズ・ロマンティック……!
 
 だが、その幸福な時間も一時間で終わり、再び退屈で価値のない時間が続くことになってしまった。
 その上、皇は昨日の朝の状態にすっかり戻っていた。
 前髪でメガネの下のきれいな顔を隠し、休み時間は一人ぽつんとパソコンを叩くコミュ障具合。
 私の周りに臭いブタどもがブヒブヒと寄ってきても微動だにしない。
 昨日の「守っていいですか」と言う言葉はなんだったのだ。苛立たしい……。
 しかも、その背姿を撮った運命写真に浮かんだ運命には使えるものがないときた。
 
 退屈と苛立ちとで、私は三限の物理以降、皇のことを考えていた。
 あの美しい顔を長い時間眺めるための方法を――考えそうになったが、頭を振って中断した。

 これまでの失敗と東洋支部からの情報から、皇秀英の魂を狩る方法を冷静に考えようと思ったのである。
 私は死女神。皇秀英は、魂を狩るべき私の標的。奴の魂を狩ることが、私の任務なのだから。

 まず、奴に効果のない方法と、効果がある可能性がある方法とに分類する。
 効果のない方法は、物理的な攻撃全般。物が落ちてきたり、事故が起こったり、爆発が起こったり、銃撃に巻き込んだりといった東洋支部の仕掛けをはじめ、毒物や食中毒、感染症なども結局治ってしまったらしい。高いところから落とすといった私が行った仕掛けも効かない。
 加えて、私が行った洗脳も無効だった。
 
 一方、効果がありそうなのは、ゼロ距離からの攻撃。
 だが、美しい顔と萌え言動によって回避させられてしまう……。

 裏を返せば、顔を見ず、萌え言動をさせなければ簡単に仕事を終わらせることができるということだが、どうにもタイミングが悪くうまくいかない。せめて、萌え言動を抑えられればいいものの、洗脳が効かないのでそれもかなわない。
 
 そもそも、皇はなぜ私の洗脳が効かないのだろう。
 神の力が効かないものなど、自分の力より大きな力をもつ神しかない。私の場合は、それが存在しないのだ。ハデスさえ私の力に及ばないのだから。
 安易に新しい方法を考えるより、奴が洗脳を回避した理由、死を回避できた理由を調べることが先決かもしれない。
 ハデスからうるさく言われるかもしれないが、確実な結果を手にするためには必要な段階だ。
 
 今日は、皇秀英を調べよう。

***

 終会が終わるとすぐに、下駄箱にワープした。豚どもに部活の勧誘で囲まれると面倒だから、あらかじめ回避したのだ。
 
 「えっ、あの子、きれい……」
 「たしか、A組の転校生の……」

 壁に寄りかかって皇を待っていると、他クラスの生徒たちが私を見ながらひそひそしていたが、豚どものようにこちらに寄ってくることはなかった。

 ――来た。皇秀英。

 皇は私を目に映すと、立ち尽くした。

 「途中まで、一緒に帰りましょう。聞きたいことがあるので」
 
 皇は放心しながら、「……はい」と呟いた。

 歩き始めると、上から、「おーい! 皇ー!」と声が聞こえてきた。
 見上げると、実験室から三人ほどの見知らぬ男が手を振っていた。

「部活、手伝ってほしいんだけど、ダメかー?」

「今日はダメ。明日また声かけて」

「この野郎! リア充になったら爆弾なげてやるからなー!」

「きちんと調合してよ」

 驚いた。いつももそもそしゃべっているのに、こんなに大きな声を出せたのか。
 休み時間も一人でいるから、てっきりジャパニーズ・ボッチだと思っていたのに、友人もいるとは。しゃべり方も普通。
 ……これは、もしかして。
 女慣れしていない!? それで私の前だと照れて、もそもそと話して……!?
 やばい……! 萌える! こんな顔のいい男が私に対してそんなうぶな反応をしているなんて……!
 可愛い!
 新しい扉が開く音がする……っ!

 ん? それであれば、どうしてあんな萌え言動ができるのだろう。
 そうだ。そもそもまじめで根暗なこの男のどこからそんな萌え言動が湧いてくるのだ。謎すぎる。
 それも調べよう。
 
「それで、聞きたいのですが」

「おーい皇ー!」

 前方のサクラの木の下にいた男たちが手を振っていた。また、部活を手伝ってほしいという声掛けだ。
 終わったと思ったら、今度は後ろから、はたまた右から、左から、またまた上から……。
 四方八方から声を掛けられる。
 
 ――やかましい! 人間の分際で私の邪魔をするなど小賢しい!!
 
 ぶわり。
 学校の敷地内に私の力がいきわたった。皇に手を振っていた男たちが皆、動きを止め、各々の活動に戻っていく。
 神力を使い、奴らの記憶から一時的に皇の事を忘れさせてやったのだ。
 
 皇はきょとんとした顔をしていたが、すぐに「足を止めてしまい、すみませんでした」と呟くと、歩き出した。

「では、聞きたいのですが」

「すみません、質問、どのくらいありますか」

「二つです」

「分かりました。少し待ってください」
 
 皇は、学生たちが流れていく右の道ではなく、左の道に足を向けた。そして、鞄から黒いスマホを取り出すと、もそもそとどこかに電話を掛けた。「40分後に、愛宕公園に迎えをお願いします」と聞こえた。
 少し歩くと、民家に囲まれた一角に小さな公園があった。目を見張った。一番奥に、大きなサクラが咲いていたのだ。
 吸い込まれるように公園に入る。
 サクラの下に入ると、優しい香りがふわりと香った。柔らかな風が花びらを地面に運び、足元は一面、ピンク色で埋め尽くされていた。
 
「咲いている時も美しいですが、終わりごろに地面が花びらで埋め尽くされている様子も美しいと思います。
 あ、ベンチ、どうぞ」

 サクラの下に木のベンチがあった。皇が花びらを払ったので、腰掛けた。真上からはらはらと、サクラの雨が降っていた。
 前方の砂場で、小学生らしき二人の子どもが子犬におやつらしきものを見せ、「待て!」と叫んでいた。

 「40分後に車を呼びましたので、それまで、よろしくお願いします」

 人一人分離れた場所に座った皇が、礼をする。
 ジャパニーズ・お辞儀。……きれいだ。
 
「では、質問させてもらいますが」

「すみません、その」

 Sit!!!!!!!!!!!
 何回私に「待て」をさせる気だ!!!!!!
 私は神! 犬ではないのだぞ!!
 怒りを飲み込み、皇を睨む。皇はどこかを見つめたまま、もじもじとしていた。

「僕も、聞きたいことがあるので、質問させてもらってもいいですか」

「いいですが、提案したのは私です。私から質問します」

「はい。どうぞ」

 やっとか。私はためにためていた一つ目の問いを投げた。
 
「ここに転校してきた日、案内をしてもらったでしょう。私はサクラに飛びこもうとあなたを誘いました。あの時、どうして一緒に飛び込んでくれたのですか?」

 あの時、私と一緒に飛び込んだということは、初めは少なからず私の洗脳が効いていた可能性がある。
 そうでなければ、飛び込むのをやめようと、はじめから私を止めていたはずだ。

「キ……エルデさんと飛び込んでみたいという興味が勝ったからです。興味あるものを検証したいと思う性分なので。
 それに、確実に死なない計算もできていましたから」

「死んでもいいとは思わなかったのですか」
 
「思いません。死んでしまうのは、悔しいではないですか」

「悔しい……?」

「この世界には、美しいものがたくさんあります。氷の結晶、味噌汁に浮かぶ六角形、適切な土の配合と太陽光を浴びて育ったサクラ、奇跡のような遺伝子配列……。
 まだ見ぬ美しいものがあるはずのこの世界から、それらと出会わずして退場するのは悔しい。だから、死なないための完璧な計算をしたんです。絶対に死なないし、エルデさんのことも傷つけないと確信したから、飛び込みました。これで、答えになりましたか?」

 ……ようするに、「悔しいから死にたくない」という強い負けず嫌いの気持ちによって、洗脳をはじき返した、ということか?
 これまで10年生き延びてきたのも、その気持ちがあったから……?
 なんだ、それは……。

「ひとまず分かりました。では、もう一つ。
 趣味は何ですか?」

「えっ……。
 気になったものと必要なものの研究、でしょうか」

「少女漫画や映画などは観たりしませんか?」

「物語は手に取りません」

「ご兄弟、ご家族の見ているものを一緒に、ということは?」

「ありません」

「では……どうして萌え台詞が言えるのですか?」

「え? 僕、何か言いましたか?」

 無自覚? 嘘だろう? 
 髪にサクラを刺して「美しいです」とほほ笑んだのも、「守っていいですか?」と言ったのも、無自覚?
 天然萌え言動製造機?
 強敵……。例を出してやめろと言っても、おそらく無駄だ。意図的に繰り出されてしまうのも困る。
 私は、「もういいです」と話を切り上げた。

「では、僕も、質問していいですか」

 きゃんきゃん、と前方にいた子犬が吠えた。待たされすぎてじれたようだ。少女が「よし!」と言って餌を与えると、子犬は猛獣のように小さなおやつにがっついた。
 そうだ。私もさっき、あんな風にじらされたのだ。こいつばかりに、さらっと質問させてやるのは平等じゃない。
 そもそも私は神。あれだけの侮辱を受けた罰だ。「待て」に加えて「とってこい」で遊んでやる。

「3秒数えます。その間に、私が指定した数の花びらを採ってきてくれたら、いいですよ。質問して。
 ただし、風に舞っているものだけ」

「それをしたら、自由に質問していいのでしょうか。現時点で27ほど質問事項があるのですが」

 27!? なぜそんなに!?
 逆に気になるが……。

「一回採ってきてくれたら、一つ質問をしていいです」

「分かりました。片手と両手、どちらですか」

「片手で」

「分かりました」

「では、6。ぴったりですよ」

「分かりました。風が吹いてから数えてください」

 分かりました、だと? 神でもないくせに、六枚ぴったりでつかめるはずがないだろう。
 皇は下と上を確認しながら移動し、あまりサクラが咲いていない枝の下で止まった。
 ふわりと風が吹いた。
 
「いち」
 
 皇が手を斜め上に伸ばす。
 
「に」

 皇に、花びらが降る。
 
「さん」

 何かを小さくつぶやきながら、ぱっと手を握る。

「採れました?」

「両手、開いてください」

 両手を開く。皇が、閉じていたこぶしを、私の両手の上で開いた。
 はらはらと、花びらが落ちる。
 1、2、3、4、5……6。
 ぴっ、たり……。

「どう、して……」

「花びらが落ちる数が多くない場所を選んで、花びらが手のひらに入ってきやすい角度に腕を伸ばし、六枚手のひらに入ったところで手のひらを閉じただけです。大した計算はしていません。
 一つ目の質問、お願いします」

 悔しいが、約束は約束だ。私は、「どうぞ」と促した。

「エルデさんは、日本茶は、飲めますか」

 日本茶? ジャパニーズ・ティー。煎茶、抹茶、番茶、ほうじ茶といったあの香ばしい飲み物たちか。

「一度飲んだことはありますが、それきりです。日本文化のものは、何もかも好きです。ただ、普段は日本……」

 酒を飲んでいるから飲まない、といいかけて唇を閉じた。ジャパニーズ・JKは酒を飲んではならないきまりだ。酒を飲んでるなどといったら怪しまれよう。
 適当に、「普段は飲まないです」と言い直すと、皇は「そうですか」と呟いた。
 っていうか、何だこの意味の分からない質問は。もしかして、こういうこまごました質問が続くのか?

「では、二つ目の枚数指定をお願いします」

「31」

 皇は、今度はサクラが多めに咲く枝の下に立った。
 風が、吹いた。
 いや。今度は、私が吹かせてやった。
 爆風で、花びらが上からも下からも舞い上がる。

「いち」

 皇が手を伸ばす。

「に」

 だが、皇のメガネに花びらたちが貼り付いた。
 皇が、「あ」と息のような声を零した。

「さん」

 皇の手のひらが、閉じた。

 皇は、私の両手のひらに、花びらを落とした。
 1,2,3……29。

「残念でしたね」
 
 ふっふふふ! 勝った! 当たり前だ。神の前に、たかが計算ごときが、叶うはずがないのだ!
 皇は、いかにも悔しそうに、下唇を静かに噛んだ。
 そして、メガネを取ってポケットに入れると――前髪を、かき上げた。

 固まった。美しい顔が、露になって……。しかも、本気の顔と言ったらいいのだろうか。昨日見たものより一層鋭さが増している……。
 だめだ、好きすぎる……!
 
「リベンジさせてください」

 皇が手を伸ばす。心なしか、ずっと見ていたはずの手も、美しく見える。
 風が吹いた。

「……いち」

 皇が呟く。

「に……」

 手首を回して花びらを攫う。

「さん」

 手のひらが、閉じた。

 呆然としたままの私に、皇が近づいてきた。
 片膝をついて、私の両手に、花びらを零す。
 私は、どきどきしたまま、皇のきれいな顔から目が離せなかった。

「……31です」

 にっと、勝ち誇ったように皇が笑った。
 ――か、かっこよすぎる――っ!
 この顔の、ポスターが欲しい…………っ!! 壁一面、もはや天井にも貼って、永遠に眺めていたい――っ!
 永遠に、私に、微笑みかけていてほしい……っ!

 「では、二つ目の質問をさせてもらいます。時間も迫っているので……」

 ポケットからメガネを取り出し、かけようとしたので、私は昨日のごとく、「かけないで!」と叫んで止めさせた。
 皇は大きな目を開いたまま固まっていたが、メガネに目を落とした。

「昨日もそのように止められたのですが、どうしてですか?」

 うっ……! なんて答えにくい質問を……!
 というか、昨日は疑問も言わずに言うことを聞いたじゃないか!
 もしかして、女慣れしていないがために、こうして許可をとらないと質問してはならないと思っているのか? そういえば昨日もそうだった……!
 そうやって27も質問をため込んでいたなんて……きっちり真面目ピュア男め!
 くそっ。この顔だからか、どうしようもなく可愛く思える……!
 
 唇を噛んでにやけを抑えていると、「あの」と答えを催促された。
 どうするか……。本当のことを言うのは、なんだか敗北感がする、というか……単純に、恥ずかしい。
 だが、他にいい理由がみつからない! 私の頭の中はこの男の顔がしゅきぃ! という気持ちで満たされまくっていたから考える余地がなかったのだ。

 うっ、うぅ……うううぅ…………っ!

「か、顔が、好きだから……です…………」

 は、恥ずかしい~~~~~~!
 なんとか絞り出したのに……! 顔があげられない……!
 頭から煙が出ているんじゃないかってくらい、顔が熱い……!

 皇が動いたのが、視界の端に映った。ちらっと見ると、皇は、片手で顔を覆っていた。
 見開いた目だけが見えて、あとは全部隠されてしまっている。
 なんでだ! 好きだと言ったのに……! これでは見えない……!
 はっ! そうだ、「顔を見たいから」と言えばよかったのだ……!
 くそ、負けた……! 何にかはよくわからないが、私はひたすら巨大な敗北感の穴に堕ちていた。
 
 「……それは、つまり、僕を…………」

 皇の震える小さな声が聞こえた。だがその言葉は飲み込まれたようだった。
 皇は顔から手を取り、立ち上がった。

「すみません。約束を破って、三つ目の質問をするところでした。枚数指定をお願いします」

 枚数……。正直、もう、この顔が見えていれば何枚だって構わないが……!

「い、いち……」

「わかりました」

 ふわ、と優しい風が吹いた。
 公園の入り口に、黒光りの車が停まった。

「あ……。すみません。時間です」

 黒いベンツは、細い道にぎゅうぎゅうになって止まっていた。
 皇が乗るのかと思ったら、私が一人で乗るようにと言われた。
 
「僕は歩いて帰ります。暗くなってきましたので、ご自宅の前まで送らせてください。運転手に住所を伝えれば、そちらに向かいますので。それと」

 皇が、鞄から水色のノートを取り出した。中を開き、その中に花びらを入れるように言われた。

「塩とお酢で花びらを数日漬けてお湯を注ぐと、桜茶になるので試してみてください。あと、昨日できなかった実験についてノートにまとめているので、これでレポートを完成させてください」

「どうも……」

 車に乗り込もうとすると。
 
「待ってください」

 振り向いた私の髪から、何かがふわりと舞った。
 皇の指がやさしくつまむ。
 それは、サクラの花びらだった。

「1枚取ったので、最後の質問、いいですか」

「え」
 
「キルコさん、とお呼びしてもいいですか。
 頭の中で、ずっとキルコさんと呼んでいるので、皆と同じ苗字呼びにどうしても違和感を抱いてしまって」

「……な、なんでも……」

「よかった。キルコさん」

 皇がほほ笑む。
 ギュン! と心臓に矢が刺さった音がした。
 心臓がバクバクする。
 ほほ笑み、萌えっ!!!! 名前呼び、きゅん――っ!!!!!!

 私の髪を、皇の長い指が撫でた。
 さらりと髪が頬に流れる。
 皇の指には、花びらがひとつつままれていた。

「すみません、もう一枚ついていたので。
 おやすみなさい。……キルコさん」

 扉が閉まる。窓の外の皇が、どんどん遠くなる。
 彼は見えなくなるまで、私が乗った車を見つめていた。

***

 死ぬ。萌え死ぬ。
 皇のノートを抱きながら、私は、自室のソファに指を組んで寝そべっていた。まるで、棺桶の中の死者のごとく。
 
 いや。死ぬのは私ではない。皇の方なのだ。生き返らねば。
 私は、命の水を飲もうと、荒れ放題の床に手を伸ばした。
 ……しまった。命の水――日本酒がない。調達するのを忘れてしまった。くっ……ことごとく、完敗……!
 
 体を起こして、皇のノートを開いた。淡い色の花びらの下に、美しい皇の文字が並んでいた。彼の長い指を思い出す。
 ふわりと、甘い香りが鼻をくすぐる。ノートに沁み込んだ皇の香りだった。

 サクラ茶、というものを思い出して、湯飲みに湯を注ぎ、花びらを二枚浮かべてみた。
 湯をすする。甘い香りと、熱い熱が体に沁み込んだ。
 
 熱いままの顔を覆う。
 萌えに酔ったこの気持ちを、はやく鎮めてしまわなければ……。
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