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作者: 鈴奈
 朝が来た。
 とはいっても、闇でできた私の愛しい部屋に、朝の光は入らない。
 時計もないこの部屋でなんとなく時間が分かるのは、私が神だからなのだろう。

 リン、と電話のベルが鳴った。指で招くと、空の一升瓶とおつまみのゴミで埋め尽くされた床から、黒電話が飛び出した。

「おはようございます」

『おはよう、キル・リ・エルデ。報告がまだのようだけど、どうしたの? まさか、君のような優秀な死女神が24時間かけても魂を狩れないなんて、そんなわけないよね? いつもみたいにすれ違いざまにさっと狩ってきただろう?』

 ハデス……。早朝から催促の電話とは、苛立たしい。
しかも、いつもの煽るような嫌味ったらしい口調に拍車がかかってますます苛立たしくなっている。
私は、今すぐ電話を切りたい衝動にかられた。
 だが、怒りを露にするのは美しくない。こちらの負けになる。
 生きとし生けるものは皆、美しいものに屈服する。すなわち、美しいものこそ優位な存在。
 だから私は人前において、言葉も仕草も姿かたちも美しく存在することを信条として生きている。
 
 髪を払い、私は静かに言葉を返した。

「必ず成果をお持ちしますので、今しばらくお待ちを」

 ガシャン! 受話器を叩きつける。
 
 ――クソハデスが!!
 
 私だって、こんなことになるとは、予想していなかった!
 洗脳が効かず、計算ごときに死を回避され、その上萌えさせられるなんて……っ!
 
 日本につながる鍵を扉に差し込み、怒りに任せて蹴り開いた。

 ビルの上から、地上を眺める。ちょうど、皇 秀英が学校に向かって歩いているところだった。
 
 あんな根暗メガネに萌えるなんて……。
 だが、顔はきれいだった……。
 あの邪魔な前髪と黒縁メガネのせいで、はっきりは見えなかったが……。
 あれらが無かったら、どんな顔をしているのだろう……。気になる。見たい……。
 
 いやいやいや!
 皇は標的。仕事に集中しなければ。

 運命写真を撮る。今日も決定的な死因が起こる出来事はない。
 
 だが、今日こそ確実に魂を狩り取る。
 皇が萌えを発動する前に、殺してやる。
 2000年積み上げたキャリアを守り、悠々自適な推し活生活を営むために。

***

 ……と、意気込んでいたものの、なかなかその機会を作ることができずにいた。

 皇との席は2列分離れている。
 間に何人も座っているために手出しができない。休み時間は、奴が近づいて来る気配はない。ぽつんと自席に座り、パソコンを必死に叩いている。授業中、私をちらちらと振り向いてきていたのだから、話しかけに来ればいいものを……。
 かといって私から行くのは、奴に負けたような形になるのでしたくない。
 私は、醜いものが嫌いだ。負けもまた、この世界の醜さの一つである。
 そもそも私は女神だ。愚かな人間から来るのが道理だ。ああ、この臭い豚どもの輪を割って、私を攫いにくればいいのに……!
 
 などとモヤモヤしていたら、現代国語の時間になった。
 教科書を開いて、思わず、あっと声が漏れた。
 夏目漱石の『こころ』がある……!
 ちょうどこの前、緋王様が「ひおさんぽ」で紹介していた本だ。緋王様は美しい上に頭もよく、立ち寄ったカフェや料亭で「最近読んでいる日本文学」を紹介していくださるのである。それゆえ、もともと好きだった日本文学がこのごろは一層好きになってきた。
 私が愛してやまないジャパニーズ・文学を堪能できる時間があるなんて……。学校というものも、なかなか捨てたものではないようだ。

 チャイムが鳴り、至高の時間は終わってしまった。

「エルデさん! 次は化学です!」
「化学室にご案内します!」
「お荷物をお持ちします!」
「いっそエルデさんをお運びします!」
「汚いぞ豚野郎!」
「黙れ豚が! エルデさんをお運びする豚は俺だ!」
「いいや俺が豚だ!」
「ふざけるな、俺だ!」
「俺に乗ってください!」
「踏み潰してください!」

 豚どもの群れが私の前にひざまずく。
 醜い。そして臭い。
 私がすっと教室を出ると、豚どもは、ブヒブヒと私の後についてきた。
 ああ、化学か。一番興味がないものだ。人間が現象にこじつけを与えているだけで、ロマンのロの字もない。
 萎えた気持ちで化学室に入ると――はっと目を見張った。
 皇 秀英が、白衣を羽織ったところだった。

 ――は……。

 白衣萌え……っ!

 学ランの時より、8割増しで格好良く見える……!
 なんだこれは……魔法か? 魔法なのか?
 ……いやいやいやいや! だめだ。こいつにやすやすと萌えてしまっては……!
 そうだ。緋王様と比較しよう。緋王様の美しいお顔を脳裏に浮かべる。同時に、昨日見た皇の顔が思い出された。
 ――ん? 似て、る……?
 何を! 緋王様に失礼にもほどがある! こんな根暗男と緋王様が似ているわけなどない……!

「エルデさんもどうぞ!」
「さあさあ、ここに袖をお通しください!」

 白衣で白くなった豚たちに着せられて私も白衣を羽織った。

「おおっ! な、なんと美しい!」
「神々しいお姿がますます神々しくっ!! これはまさに、女神!」
「このくそ豚が! エルデさんが女神なのはもともとだっ!」
「例えるならば白百合! いや、白薔薇!」
「そんなものにたとえるなんて失礼だぞ、この豚が!」
「エルデさんは光! 太陽よりまばゆい、光だ!」
「それだっ!!!」

 皇 秀英は自分の場所で薬剤の入ったビーカーを慎重に並べていた。
 これだけ白豚どもがうるさく鳴いていたのに、私の方を振り向くことはなかった。

「今日は三種類の化学平衡の実験をし、グラフを作成し、考察を記入してもらう」

 教員の長々とした説明ののち、豚どもが黙々とビーカーの中の薬品をフラスコに入れ始めた。
 おおかた、薬剤を混ぜて反応を見る、ということだとはわかったが、これの何が楽しいのだろう。
 現代国語が月であれば、こんな作業は、汚れた底なし沼の底に沈むスッポン……。やる気が出ない。

「あの」

 いつ間にか、隣に皇がいた。驚いて、「ひぇっ!?」と声が出た。

「手伝います」

「チクショウ、皇め……!」
「俺たちより6つ先の実験が終わってるんだっけか……」
「天才な上にうまいところを取りやがって……っ!」
「俺は見たぞ……わざわざ先生に交渉してエルデさんのお世話係になっていた!」
「くっ! ずるい! あのボンボンめっ!」

 豚どものひそひそ声に微塵も反応することなく、皇は一滴、二滴と液体を垂らしながら、じっとフラスコを見つめていた。

「変化しました。書いてください」

「どこに、何を?」

「ここです。10mlのところに点を打ってください。そこからは、20mlのところまで弧を描くように点を打ってください」

 すっと伸びてきた指を見て、どきりと胸が鳴った。
 長くて、きれい……。
 この指が、昨日、私の髪にサクラを……。
 ぶわっと顔が熱くなる。
 だめだ! こんなふうに萌えを思い出してしまっては、また手が動かなくなる……!
 私は首を振って言われた通りのことをやった。

「髪飾り……」

「え?」
 
「いえ。よかったです」

 皇はフラスコの中身をジャっと捨てて洗い流した。
 どうやら1つ目が終わったらしい。
 
 少し、いらりとした。
 なんなんだ。もそもそもそもそと。容姿とギャップでつい萌えてしまうが、この男は根暗。
 そう思ったら、萌えの気持ちが萎んでいくのを感じた。

 ――これだ。これなら、殺せる。

 希望を見出し、顔を上げた私の瞳に4本のビーカーが映った。
 同時に、作戦が閃いた。
 
 残り4本のビーカーの中身を劇薬に変え、爆発を起こすのだ。
 そしてメガネを木っ端みじんにし、何も見えない状態にして、鎌を振り下ろす!
 
 東洋支部からの資料には、皇は物理的な攻撃を、ありとあらゆる方法ですべて無効にしてしまう、と書かれていた。
 たとえ人に見えるはずのない死神姿で、死神の鎌を振りかざしたとしても。
 ただの人間に、そのようなことができるものだろうか。謎だ。
 だが、昨日は私が振りかざした鎌に気づいている様子はなかった。
 それはおそらく、皇が私の髪飾りを探そうと、私から目をそらしていたためだろう。
 視界を奪えば、いける!
 そして万一鎌を振り下ろすまでの間に萌えそうな事態に陥ったら、こいつは根暗だと唱え、自分の目を覚まさせればいい。
 完璧。

 ビーカーを見て念じる。透明な液体が劇薬に変わった。
 2本を手にした皇が、ぴたりと止まった。

「臭いが違う……?」

 気づいたか。私は皇の手から2本を奪った。

「だめです、置いてください。それは混ぜると危ない劇薬で……」

「ジャパニーズ・アーティストの、好きな言葉があります。
 ”芸術は、爆発だ”」

 フラスコの中に2つの劇薬を垂らす。たちまち、異臭が立ち上った。
 皇の手が、私の持っていたビーカーを払った。

「伏せて!」

 皇の声とビーカーの落ちる音と煙と異臭に、豚どもが異常事態を察知し、なんだなんだ!と騒ぎだす。
 
 パァン!
 
 破裂音と共に、豚どもの悲鳴が炸裂した。

 私は、皇に両肩を押されて床に尻を突いていた。皇は膝をつき、私の盾になっていた。
 しまった。失敗だ。

「おわっ、皇! 白衣が焦げてるぞ!」

「大丈夫」

 豚の言葉にさらりと返すと、皇は私をさっと抱き上げた。

「――!!!!」

 私を含む全員の声にならない声をあげた。
 立ち上がった皇の体からパラパラとビーカーのガラス屑が落ちた。

「先生。念のため、保健室に行かせてください」

 保健室は一階だった。皇は無言のまま、スルスルと階段を降りていく。
 私は頭が真っ白だった。
 
 なんなんだ、これは……っ!!
 皇とくっついている部分から、体温がじんわり沁みてくる。首元から、甘くていい香りがする……。
 心臓がバクバクする。目の前がチカチカする。
 男の体にはじめてここまでくっついたからこうなっているのか?
 まさか、そんなわけがない! そんな程度の事で、私が動揺しているわけがない!!
 
 はっ! そうだ。
 今なら、首の後ろに腕を回し、奴から見えないように鎌を振れば、いける……!
 萌えるな私! こいつは根暗! 根暗根暗根暗根暗根暗根暗根暗根暗根暗根暗根暗根暗根暗根暗根暗根暗根暗根暗根暗、根暗――――ッ!!!!
 
 くっ……! だめだ……。動けない……。
 ドキドキして、涙がにじんできた……。

 皇が最後の一段を降りる。保健室がガラリと開かれた。

 ***
 
「僕は大丈夫なので、彼女を見てあげてください。目だけ洗わせてください」

 保健室に入ると、皇が、私を椅子に座らせ、奥の手洗い場の方へ行った。

「この子はなんともないみたいよ。皇くんの方が怪我してる可能性ありそうだけどねぇ? 白衣こげてるし」

「大丈夫です。タオル借ります」

 皇は白衣を脱ぎ、カチャリとメガネを置いた。
 
 「それにしても、昨日も今日も背中……。背中運がとことん悪いねぇ。しばらく背中には気をつけなさいな」

 白衣おばさんは、実験室に怪我人がいるかもしれないからと保健室を出て行った。
 皇はザブザブと顔を洗っていた。
 
 遠い距離ではあるが、手がふさがっている今なら、仕掛けられる。
 萌えていない今なら、できない理由もない。
 二度も失敗をしでかしたのだ。これ以上失敗を重ねてたまるか。
 私は髪飾りを鎌に変えた。さっきまでの小さなものではない、天井に着くほど長い鎌。これこそ、私の鎌の本来の姿。
 さあ、三度目の正直だ。
 私は、鎌を振り下ろした。
 鎌の刃が、奴の首を斬りさかんとした、ほんの寸手で――。
 
 皇が、濡れた顔を私に向けた。
 
 手が、止まった。

 あまりに、美しい顔だった……。
 
 前髪は濡れたためか全て上がっていた。メガネも外れていた。だから、皇 秀英の顔が、丸見えになっていた。
 やわらかな生え際も、透明感のある白い肌も、大きくて均等な二重も、整った眉も、すっと細く通った鼻も、薄い唇も、その下にある緋王様と同じほくろも、細い顎も……。
 そのどれもが美しく見えて……つまり……!
 
 顔が、好きすぎる――っ!

 あまりの動揺に、私は鎌を消失させていた。

 「あの」と言いながら、皇は顔を拭き、メガネをかけようとした。

 「かけないで!」

 皇は少しメガネを見つめたが、そっとメガネをたたんだ。

「わかりました。それより、本当に体調は大丈夫ですか。運んでいる時、呼吸が荒かったので、具合が悪かったのかと」

 そんなに、きこえるくらい荒かったのだろうか……!? 
 体の底から恥ずかしさがこみ上がり、私はうつむいた。

 「念のため、目を洗っておいた方がいいかと。痛くなくても、煙による影響で視力が落ちることもあるので。こちらにどうぞ」

 どきりとした。私は、激しく動揺していた。
 だが、おとなしく好きすぎる顔の隣に立った。

 ――くっ! 目が離せない!
 目を離すのがもったいない……!

 皇が「どうぞ」と言って蛇口をひねる。しばらく茫然と皇の顔を眺めていたが、もう一度「どうぞ」と促されたので、しぶしぶ水に目を移した。
 細く流れる水を掬い、私は思い切り顔にたたきつける。おかしいくらい、顔が熱くなっていた。何度水を叩きつけても熱が冷めない。

「そろそろいいと思います。タオルをどうぞ」

 受け取ったままふかふかのタオルに顔をうずめる。
 目を上げると、私の全てを見透かすような皇の瞳が、触れそうなほど近くから私をのぞき込んでいた。

「ひっ!?」

「あ……すみません。目が赤くなっていないか、確かめようと思って……。赤み、ないですね。よかったです。
 もう一つ、確かめたいことがあって。タオル、外してもらえますか」

 おずおずと、タオルを外す。――って、なんでこの私が、大人しく人間の言うことを聞いているんだ!
 
「……エルデさんには、希死念慮がありますか?」

 ――希死念慮。死にたいという願望?
 なぜ? あるはずがないが……。
 こんなに素晴らしい文化にあふれた日本にいる上に、こんなに顔のいい男を目の前にしながら、そんなことを思うわけがないだろう。
 そもそも私は死女神なのだし。死なないのだし。

「あの?」
 
「え? あ、ありませんが……」

 皇は真顔で私をじっと見つめていたが、ほっと目をつむった。

「よかったです。昨日から希死念慮を思わせる言動があったので、もしそうならカウンセリングを薦めようかと。
 そうでないなら、危険より興味を優先している、ということですね」

 先の行動はそうではないが、私の生き方としては、あながち間違ってはいない。そもそも神である私に危険など起こりえないし。
 
「生きとし生けるものは、興味に屈服してしまうものだと僕は思います。
 ですが、死んでしまったり、傷ついてしまったりしたら、その興味を解き明かすことはできません。
 
 なので、もしまたエルデさんが何かに興味を抱き、確かめたいことができたら……。
 
 僕が、守ってもいいですか?」
 
 …………ま、まも……?
 
 ………………も……。
 
 萌え――――――――っ!
 
 好きすぎる美しい顔プラス、甘い言葉……! 萌えすぎる!
 この男の存在が――この男が起こす現象すべてが、萌える……………………っ!!

 ***
 
 あまりの萌えで、その後の私の記憶は消滅していた。
 うなずいたのかうなずかなかったのか……一体どっちだったのだろう。

 放心状態で愛部屋のソファに顔をうずめ、沸いた脳が穏やかになるのを待って、むくりと顔を上げた。
 巨大液晶に念を飛ばし、緋王様の動画をつける。
 美しいお顔……。
 ……だが……。
 
 皇の顔も、好きだ……。

 くっ……!

 くやしい! 好みすぎてくやしい!
 手元にあった日本酒をぐびっと飲み干す。
 ドキドキと鳴り騒ぐ心臓が鎮まらない。
 
 きっと今日は眠れない。この萌えの感情がおさまるまでは。
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