残酷な描写あり
第5回 旅路を守る 山路を越える:4-1
寺院が見えた。
朝のうちにジョイドが空からみつけて、夕方には着きそうだよと予告されてはいたものの、自分自身の目で認めたときには安堵で膝をつきそうになった。
客観的には、山の中である。大抵の人間は山の外から、山の中に入っていって、この寺院に辿り着くのだろう。が、帝国側から来たセディカにとっては、山を越えて辿り着いたゴールであり、山の終わりであった。父も従者たちも越えられるとは思っていなかっただろう、〈連なる五つの山〉を越えたのだ。
「国としては〈錦鶏〉になんのか?」
「〈錦鶏〉?」
「〈錦鶏集う国〉。小さい国だから、帝国じゃそんなに意識してないかもね」
〈五つの山〉の陰に隠れちゃうもの、というジョイドの言が、冗談なのか事実なのかは判然としなかった。今の王が建国した新しい国で、国といっても帝国の一都市ほどの大きさしかないという。
普段なら〈錦鶏集う国〉の概要と建国史でも語り始めそうなところだったが、寺院を目と鼻の先にして足を止めるのもどうかと思ったのか、それ以上は続かなかった。
「ここから先は人間社会ってわけだな。妖怪の秘密を聞き出したかったら今のうちだぜ、セダ」
「お腹いっぱいよ」
代わりのようにトシュがにやりとして、セディカは苦笑した。
それからトシュはくるりと体の向きを変えると、どこへ向けてか呼びかけた。
「野牛どの、あんた一人か。もう一人いるかな」
応えるように、がさがさと繁みが音を立てる。セディカがつい一歩離れたのとほぼ同時に現れた、学生らしい青い制服を着た姿には見覚えがあった。
「その人間が怯えないように隠れていろと、熊の兄者に注意されたのに。そんな風に呼ばれたんじゃ台無しだ」
声の方に聞き覚えはないが、それで正しいはずだ。確か、首領と共にいた二人のうちの一人である。学生の制服をこの山で見たのはあのときだけだ。
「熊どのにも礼を言っといてくれ。交代で護衛してくれたろ」
「護衛というわけでもないんだが」
野牛——らしい——は眉を寄せた。そんな話は聞いていなかったセディカも、内心でやはり眉を寄せる。
「おまえの父上もおかしなやつだったが、おまえも父上に似ておかしいな。本気だということはわかったが、だからこそ、わからん」
「俺はあんたと違ってせっかちなんだよ。あんたは敵も味方もじっくり吟味してから決めるんだろう」
ちらとセディカを見やってから、吟味してる時間なんぞなかったんだけどな、とトシュはぼやくように付け加えた。おかしい、とは人間に味方していることを言っているのだろうか。トシュからもジョイドからも解説が入らないが。
「虎どのはどうしてんだ? 見かけてない気がするが」
「松の爺様とずっと詩の競作をしているよ。芸術の力と徳を信じているからな」
「芸術の……ああ、詩を通して教化してやろうってことか? まあ、詩が好きなやつには効くかもしれねえな」
これは解説というより、トシュ本人も自信がないので確認したのかもしれない。野牛はことさら頷きもしなかったが、訂正もしなかった。
「で、そっちは何の用だ」
もう一度呼ばれてもう一人、四十歳ほどの色黒の男性が現れる。最初の晩のあの集まりの中にいた、つまり木の精の一人であるとセディカは思い出した。黒い肌をしているのは一人しかいなかったから記憶に残っている。
「あんたか」
トシュはそうとだけ言った。
「あなたは竹かな。俺らを最初に受け入れてくれたね」
ジョイドが覚えているよと示すように続ける。
「乱暴なやつだと思ったが、普段はそうでもないんだな。あのときの我々はよほど危ないことをしていたようだ。——と、自分で悟ったわけじゃあなくて、熊どのに諭されたんだがね」
「俺も言ったわ」
「そうだったな。すまない」
むっつりするトシュに、竹——だそうだ——は笑いつつも詫びた。悪かったなとこちらにも謝られて、セディカは反応に困る。居心地は悪かったけれども、危険な目に遭っている自覚はなかったし、今だって実感があるわけではない。
「わかってくれてよかったよ。この先また人間が迷い込むことがあったら、この子みたいな目には遭わせないでね」
ジョイドが助け船を出した。おうとも、と胸を張る竹は、正直なところ安請け合いに見えたが、そうとは指摘しない方が賢明だろう。
トシュは野牛に視線を戻した。
「俺らはこれから人間の領分に踏み込むんでな、あんたらとはここまでだ。他に何か聞いとくことはあるか?」
「いや、特にはないな。父上のためにも達者で過ごせ。……ああ、いや」
不意にこちらを向いたから驚く。トシュでもジョイドでもなく、自分に?
「あんたの三味は聴き応えがあったよ。わたしは琴の方をもっと聴きたかったが」
「どうせなら虎どのに聴かせたかったんだけどなあ」
琴も案外聞こえたのか、とトシュが呟いた。
セディカは目を剥いた。
「聴いてたの?」
破魔三味を、時に神琴を、弾かせていたのはトシュだ。護衛をしていた、即ち近くに潜んでいたと、セディカは聞かされていないがトシュは気づいていたらしい。破魔三味の激しい音なら、小屋の外でも聞き取れただろう!
「言ってよ!」
「聴衆がいるなんて知ったら緊張するだろ」
「聴衆っていうほどいたの?」
「聴衆っていうほどはいないよ」
トシュはけろりとしているし、ジョイドのフォローもフォローとしては力及ばずであった。知らぬ間に知らぬ相手に聴かれていた事実は減じないし、つまりはジョイドも知っていたわけだ。
「もう……! 嫌い!」
少女は恩人相手とは思えない剣幕で怒鳴った。三人が癪に障るほど微笑ましげにしている横で、野牛だけが目をぱちくりさせていた。
朝のうちにジョイドが空からみつけて、夕方には着きそうだよと予告されてはいたものの、自分自身の目で認めたときには安堵で膝をつきそうになった。
客観的には、山の中である。大抵の人間は山の外から、山の中に入っていって、この寺院に辿り着くのだろう。が、帝国側から来たセディカにとっては、山を越えて辿り着いたゴールであり、山の終わりであった。父も従者たちも越えられるとは思っていなかっただろう、〈連なる五つの山〉を越えたのだ。
「国としては〈錦鶏〉になんのか?」
「〈錦鶏〉?」
「〈錦鶏集う国〉。小さい国だから、帝国じゃそんなに意識してないかもね」
〈五つの山〉の陰に隠れちゃうもの、というジョイドの言が、冗談なのか事実なのかは判然としなかった。今の王が建国した新しい国で、国といっても帝国の一都市ほどの大きさしかないという。
普段なら〈錦鶏集う国〉の概要と建国史でも語り始めそうなところだったが、寺院を目と鼻の先にして足を止めるのもどうかと思ったのか、それ以上は続かなかった。
「ここから先は人間社会ってわけだな。妖怪の秘密を聞き出したかったら今のうちだぜ、セダ」
「お腹いっぱいよ」
代わりのようにトシュがにやりとして、セディカは苦笑した。
それからトシュはくるりと体の向きを変えると、どこへ向けてか呼びかけた。
「野牛どの、あんた一人か。もう一人いるかな」
応えるように、がさがさと繁みが音を立てる。セディカがつい一歩離れたのとほぼ同時に現れた、学生らしい青い制服を着た姿には見覚えがあった。
「その人間が怯えないように隠れていろと、熊の兄者に注意されたのに。そんな風に呼ばれたんじゃ台無しだ」
声の方に聞き覚えはないが、それで正しいはずだ。確か、首領と共にいた二人のうちの一人である。学生の制服をこの山で見たのはあのときだけだ。
「熊どのにも礼を言っといてくれ。交代で護衛してくれたろ」
「護衛というわけでもないんだが」
野牛——らしい——は眉を寄せた。そんな話は聞いていなかったセディカも、内心でやはり眉を寄せる。
「おまえの父上もおかしなやつだったが、おまえも父上に似ておかしいな。本気だということはわかったが、だからこそ、わからん」
「俺はあんたと違ってせっかちなんだよ。あんたは敵も味方もじっくり吟味してから決めるんだろう」
ちらとセディカを見やってから、吟味してる時間なんぞなかったんだけどな、とトシュはぼやくように付け加えた。おかしい、とは人間に味方していることを言っているのだろうか。トシュからもジョイドからも解説が入らないが。
「虎どのはどうしてんだ? 見かけてない気がするが」
「松の爺様とずっと詩の競作をしているよ。芸術の力と徳を信じているからな」
「芸術の……ああ、詩を通して教化してやろうってことか? まあ、詩が好きなやつには効くかもしれねえな」
これは解説というより、トシュ本人も自信がないので確認したのかもしれない。野牛はことさら頷きもしなかったが、訂正もしなかった。
「で、そっちは何の用だ」
もう一度呼ばれてもう一人、四十歳ほどの色黒の男性が現れる。最初の晩のあの集まりの中にいた、つまり木の精の一人であるとセディカは思い出した。黒い肌をしているのは一人しかいなかったから記憶に残っている。
「あんたか」
トシュはそうとだけ言った。
「あなたは竹かな。俺らを最初に受け入れてくれたね」
ジョイドが覚えているよと示すように続ける。
「乱暴なやつだと思ったが、普段はそうでもないんだな。あのときの我々はよほど危ないことをしていたようだ。——と、自分で悟ったわけじゃあなくて、熊どのに諭されたんだがね」
「俺も言ったわ」
「そうだったな。すまない」
むっつりするトシュに、竹——だそうだ——は笑いつつも詫びた。悪かったなとこちらにも謝られて、セディカは反応に困る。居心地は悪かったけれども、危険な目に遭っている自覚はなかったし、今だって実感があるわけではない。
「わかってくれてよかったよ。この先また人間が迷い込むことがあったら、この子みたいな目には遭わせないでね」
ジョイドが助け船を出した。おうとも、と胸を張る竹は、正直なところ安請け合いに見えたが、そうとは指摘しない方が賢明だろう。
トシュは野牛に視線を戻した。
「俺らはこれから人間の領分に踏み込むんでな、あんたらとはここまでだ。他に何か聞いとくことはあるか?」
「いや、特にはないな。父上のためにも達者で過ごせ。……ああ、いや」
不意にこちらを向いたから驚く。トシュでもジョイドでもなく、自分に?
「あんたの三味は聴き応えがあったよ。わたしは琴の方をもっと聴きたかったが」
「どうせなら虎どのに聴かせたかったんだけどなあ」
琴も案外聞こえたのか、とトシュが呟いた。
セディカは目を剥いた。
「聴いてたの?」
破魔三味を、時に神琴を、弾かせていたのはトシュだ。護衛をしていた、即ち近くに潜んでいたと、セディカは聞かされていないがトシュは気づいていたらしい。破魔三味の激しい音なら、小屋の外でも聞き取れただろう!
「言ってよ!」
「聴衆がいるなんて知ったら緊張するだろ」
「聴衆っていうほどいたの?」
「聴衆っていうほどはいないよ」
トシュはけろりとしているし、ジョイドのフォローもフォローとしては力及ばずであった。知らぬ間に知らぬ相手に聴かれていた事実は減じないし、つまりはジョイドも知っていたわけだ。
「もう……! 嫌い!」
少女は恩人相手とは思えない剣幕で怒鳴った。三人が癪に障るほど微笑ましげにしている横で、野牛だけが目をぱちくりさせていた。