残酷な描写あり
第3回 虎が遮る 大蛇が塞ぐ:3-2
「でも、山を下りるところまでは送らせてほしいな。正直、この山の中で一人になって、君が生き延びるビジョンが見えない」
「怖がらすなっつったのは誰だよ」
「怖く……なんか」
ようよう、セディカは口を利いた。思った以上に声が掠れた。
「純粋な人間の——純粋な帝国人の方が、よっぽど怖いわ……」
自分をこの山に置き去りにした二人の従者も、そうするよう指示した張本人であろう父も、人間だったはずだ。そして、昨日一晩、屋根の下で、獣に襲われる心配もなく、ぐっすり眠って過ごせたのは、トシュとジョイドのおかげだった。
「過去のことじゃないわ。今だって……危なかったら飛んで逃げるって言ってたじゃないの。逃げなかったのは、……わたしのせいでしょ」
トシュは雲に乗って追いかけてきた。ジョイドは鷹の妖怪だというから、きっと鷹の姿になって飛ぶことができるだろう。逃げてしまえば簡単だろうに、危険を冒して虎や大蛇と渡り合ったのは——セディカを連れては飛べないから、だ。
赤の他人の言い分を丸ごと信用できるわけではない。昨夜の宴が人間に障るから引き離したというのは偽りで、実は獲物を横取りしただけだった可能性もある。だが、虎と大蛇と野牛と、野牛と同時に現れた二本足で立つ獣は、本物だ。本物の、明確な危険だ。その危険から守られたことは真実だ。
口先が当てにならないとしても。二人は、行いで示したではないか。
……ただ。それでも、不安が残るとしたら。
「その……人間は、食べないでしょう?」
恐る恐る、尋ねる。四分の一は人間なのだ。話を聞く限り、少なくとも母親は、人里で育っているのだ。よもやとは、思うが。
トシュは目を円くしてから、笑い出して手を振った。
「食わん食わん。何なら肉全般食わねえわ」
「ちょっとおもしろいこと教えてあげようか。妖怪はね、人間どころか妖怪でも食べるようなやつと、人間に限らず肉を全然食べないやつと、大体両極端に分かれるの」
ジョイドも思わずといった体でにっこりしている。
「年経て化けるところまで行くようなやつって絶対数が少ないから、狼の妖怪だけで集まるとか、鷹の妖怪だけで集まるってことにはなかなかならないわけ。だから狼と猿と鷹と犬が徒党を組むようなことになるんだけど、……狼と猿と鷹と犬じゃピンと来ないけど、例えば俺が豚だとして、こいつが豚肉は大好物だぜとか言ってたらお近づきになりたくないじゃん」
「目の前で豚肉を食うようなことは流石にしないだろうけどな。豚肉を食った次の日に偶然会うとか、こいつと会った次の日に宴会に行ったら豚肉が出てきたとかなったら、どんな顔していいかわかんねえだろ。こいつと喋ってるときに、横で他のやつに『こいつこの前豚肉を美味そうに平らげてたよな』とか思われんのもあれだし」
「他の妖怪と付き合う気があるかどうかなんだよね。対等に付き合う気があるかどうか、かな」
ぺらぺらと喋る二人を、途中から唖然としてみつめていたセディカは、だが、ややあって我に返ると、
「——笑うほどありえない話なんだったら最初に言いなさいよ! 怖かったら逃げていいとか何とか言う前に!」
怒鳴った。
「食べられるわけじゃないなら怖がる理由なんて何もないじゃないの!」
「いや、もうちょっとあるだろ」
「いや、うん、ごめんごめん。確かにそれは重要だわ。食べるやつは実際食べるし、狼も鷹も犬も肉食だしね」
泣かないで泣かないで、と宥められてぐいと目元を拭う。恐れではない、怒りの涙だ。何が四分の一は人間だ、人間のことなど何もわかっていない。
トシュは今一つ腑に落ちないようだった。
「食わねえぐらいで安心されてもな。虎と熊と牛と蛇の群れをぶちのめして追っ払うやつなんて普通に恐怖だろ」
「食べるかどうかは全然違うのっ」
熊もいたのか。二本足で立っていたのがそれか。
「ええと、嫌われなくてよかったってほっとすればいいのかな、俺らは」
「嫌い」
ぎろりと睨む。あーともうーともつかない声を出して困り果てているジョイドは、拗ねた子供に手を焼いているようにしか見えない。嫌いだ。嫌いだ。人の恐怖を甘く見て。
とはいえ、三人の間の緊張は、セディカの質問とセディカの怒声をきっかけに緩んでいたのだったが。
——不意にトシュが戸の方へと向き直りながら立ち上がった。戸というよりも、その横の覗き窓に向いたのかもしれない。
「続きは後だ、セダ。話のわかるやつが来たわ」
深刻とは行かぬまでも真剣な響きに、セディカもふざけるのをやめたように真顔になった。今までも大いに真面目だったのだが。
おっと、とジョイドも呼応するように腰を上げたが、
「ここは任せた」
「え、一人で行く気? 余計な喧嘩売らない?」
「じゃ、訊くがな。最悪の場合に親父の名前を出して効果があるのはどっちだ」
「……俺をやり込めるためだけにそういうことを言っちゃうから心配なんだけど」
失言だったのだろうか、天井を仰いでいる。
「わかったよ、君は二人になれないものね。セディには俺がついてるから、安心して行っておいで」
「……てめえ」
自分こそトシュをからかうためだけに持ち出された気がしたが、追及は控えた。その代わり、
「誰が、来たの?」
肝腎の、そこを問う。二人の間では通じているのだろうが、こちらは無論、わかるはずもない。
トシュは別段勿体もつけずに振り返った。
「この山の首領だ」
「怖がらすなっつったのは誰だよ」
「怖く……なんか」
ようよう、セディカは口を利いた。思った以上に声が掠れた。
「純粋な人間の——純粋な帝国人の方が、よっぽど怖いわ……」
自分をこの山に置き去りにした二人の従者も、そうするよう指示した張本人であろう父も、人間だったはずだ。そして、昨日一晩、屋根の下で、獣に襲われる心配もなく、ぐっすり眠って過ごせたのは、トシュとジョイドのおかげだった。
「過去のことじゃないわ。今だって……危なかったら飛んで逃げるって言ってたじゃないの。逃げなかったのは、……わたしのせいでしょ」
トシュは雲に乗って追いかけてきた。ジョイドは鷹の妖怪だというから、きっと鷹の姿になって飛ぶことができるだろう。逃げてしまえば簡単だろうに、危険を冒して虎や大蛇と渡り合ったのは——セディカを連れては飛べないから、だ。
赤の他人の言い分を丸ごと信用できるわけではない。昨夜の宴が人間に障るから引き離したというのは偽りで、実は獲物を横取りしただけだった可能性もある。だが、虎と大蛇と野牛と、野牛と同時に現れた二本足で立つ獣は、本物だ。本物の、明確な危険だ。その危険から守られたことは真実だ。
口先が当てにならないとしても。二人は、行いで示したではないか。
……ただ。それでも、不安が残るとしたら。
「その……人間は、食べないでしょう?」
恐る恐る、尋ねる。四分の一は人間なのだ。話を聞く限り、少なくとも母親は、人里で育っているのだ。よもやとは、思うが。
トシュは目を円くしてから、笑い出して手を振った。
「食わん食わん。何なら肉全般食わねえわ」
「ちょっとおもしろいこと教えてあげようか。妖怪はね、人間どころか妖怪でも食べるようなやつと、人間に限らず肉を全然食べないやつと、大体両極端に分かれるの」
ジョイドも思わずといった体でにっこりしている。
「年経て化けるところまで行くようなやつって絶対数が少ないから、狼の妖怪だけで集まるとか、鷹の妖怪だけで集まるってことにはなかなかならないわけ。だから狼と猿と鷹と犬が徒党を組むようなことになるんだけど、……狼と猿と鷹と犬じゃピンと来ないけど、例えば俺が豚だとして、こいつが豚肉は大好物だぜとか言ってたらお近づきになりたくないじゃん」
「目の前で豚肉を食うようなことは流石にしないだろうけどな。豚肉を食った次の日に偶然会うとか、こいつと会った次の日に宴会に行ったら豚肉が出てきたとかなったら、どんな顔していいかわかんねえだろ。こいつと喋ってるときに、横で他のやつに『こいつこの前豚肉を美味そうに平らげてたよな』とか思われんのもあれだし」
「他の妖怪と付き合う気があるかどうかなんだよね。対等に付き合う気があるかどうか、かな」
ぺらぺらと喋る二人を、途中から唖然としてみつめていたセディカは、だが、ややあって我に返ると、
「——笑うほどありえない話なんだったら最初に言いなさいよ! 怖かったら逃げていいとか何とか言う前に!」
怒鳴った。
「食べられるわけじゃないなら怖がる理由なんて何もないじゃないの!」
「いや、もうちょっとあるだろ」
「いや、うん、ごめんごめん。確かにそれは重要だわ。食べるやつは実際食べるし、狼も鷹も犬も肉食だしね」
泣かないで泣かないで、と宥められてぐいと目元を拭う。恐れではない、怒りの涙だ。何が四分の一は人間だ、人間のことなど何もわかっていない。
トシュは今一つ腑に落ちないようだった。
「食わねえぐらいで安心されてもな。虎と熊と牛と蛇の群れをぶちのめして追っ払うやつなんて普通に恐怖だろ」
「食べるかどうかは全然違うのっ」
熊もいたのか。二本足で立っていたのがそれか。
「ええと、嫌われなくてよかったってほっとすればいいのかな、俺らは」
「嫌い」
ぎろりと睨む。あーともうーともつかない声を出して困り果てているジョイドは、拗ねた子供に手を焼いているようにしか見えない。嫌いだ。嫌いだ。人の恐怖を甘く見て。
とはいえ、三人の間の緊張は、セディカの質問とセディカの怒声をきっかけに緩んでいたのだったが。
——不意にトシュが戸の方へと向き直りながら立ち上がった。戸というよりも、その横の覗き窓に向いたのかもしれない。
「続きは後だ、セダ。話のわかるやつが来たわ」
深刻とは行かぬまでも真剣な響きに、セディカもふざけるのをやめたように真顔になった。今までも大いに真面目だったのだが。
おっと、とジョイドも呼応するように腰を上げたが、
「ここは任せた」
「え、一人で行く気? 余計な喧嘩売らない?」
「じゃ、訊くがな。最悪の場合に親父の名前を出して効果があるのはどっちだ」
「……俺をやり込めるためだけにそういうことを言っちゃうから心配なんだけど」
失言だったのだろうか、天井を仰いでいる。
「わかったよ、君は二人になれないものね。セディには俺がついてるから、安心して行っておいで」
「……てめえ」
自分こそトシュをからかうためだけに持ち出された気がしたが、追及は控えた。その代わり、
「誰が、来たの?」
肝腎の、そこを問う。二人の間では通じているのだろうが、こちらは無論、わかるはずもない。
トシュは別段勿体もつけずに振り返った。
「この山の首領だ」