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R-15
文学少女と天才ピアニスト その十六
 16

 夕暮れに包まれた放課後の音楽室。

 聞こえるのは外で部活動に勤しむ運動部員の掛け声。

 窓から差し込む茜色の光は、ぼくの憂いな表情を照らし出す。

 静寂と哀愁が漂う教室内にいるのは、ぼくだけ。

 ここには彼女がいない。一度ピアノを奏でれば、神秘と幻想の音色が飛び出す彼女が……。

「ふう……」

 ぼくは溜息とともに椅子に腰を下ろした。重厚なグランドピアノの蓋に右手を置く。冷たい触感が指先を伝う。

「沙音……」

 言葉が虚しく空中に溶ける。沙音の父親と沙音の間に何があったのか。音楽室というこの特別な空間には、ついこの前まで沙音の笑顔と鍵盤から奏でる音色が満ちていた。なのに今は……。

 ぼくは無意識に鍵盤を軽く叩いた。乾いた単音が静寂を切り裂く。それはまるで彼女の不在を象徴するかのようだった。

「……キミの指ならこの響きはもっと美しいはずなのに」

 自分でも驚くほどキザな台詞が口をついて出る。窓辺に移動し、校庭を見下ろす。陸上部員たちがトラックを駆ける姿が小さく見える。

「フフ……何をやっているんだぼくは」

 額に手を当てる。なぜこんなにも感傷的になるのだろう。ただ沙音に会えないだけなのに。だが……彼女の明るい声が恋しい。あの屈託のない笑顔が懐かしい。彼女と過ごした日々が走馬灯のように脳裏をよぎる。

 不意に喉の奥から熱いものが込み上げてくる。ぼくは慌てて空咳をして誤魔化す。

「……いやいや、ダメだな」

 自分に言い聞かせるように首を振る。こんなところで一人寂しく涙ぐむわけにはいかない。そんな無様な姿を想像すると苦笑いが浮かぶ。まったく……自分のセンチメンタルさには呆れてしまう。

 だが、心のどこかで理解してしまった。

 彼女のいない音楽室はあまりにも空虚だ。

 彼女の音色が彩った日常こそが、ぼくにとって最も価値のあるものだったと。まるで楽譜から主旋律が消えてしまったみたいだ。残されたのは伴奏ばかり。

 窓枠に肘をつき、頬杖をつく。夕日に染まる雲を眺めながら、沙音がよく口ずさんでいたメロディーをハミングし始める。

 彼女の作った曲に合わせて作った即興の歌詞を噛み締める。彼女が聞いたらきっと "キザ〜" なんて言いながらも嬉しそうに笑っただろうに。

 静寂が重苦しくのしかかる音楽室。ふと背後に人の気配を感じた。

「おっ、やっぱりここにいたか、本郷」

 扉の方へ顔を向けると、そこには天道さんの姿があった。

「やあ、天道さん……ごきげんよう、ぼくに何か用かい?」

「ごきげんようって、そういう本郷こそご機嫌よさそうな顔はしてないな」

 天道さんは少し呆れた表情を浮かべながら近づいてきた。

「なんだか妙にセンチメンタルな感じだな? さっきから窓際で黄昏てたみたいだけど」

「いやいや、ぼくのような詩人は常に芸術の泉を求めて旅をしているんだよ。今日のテーマは『夕焼けに映える孤独』ってところさ」

 両手を広げて芝居がかった仕草を見せながら答えると、天道さんは呆れたながらぼくの隣に並んで窓枠にもたれかかる。

「それでわざわざこんなところに来て、ぼくに何か用かい?」

 いつもなら新聞部で部員たちと記事作りに精を出しているはずの天道さん。こんな時間に音楽室に来る理由が気になる。

「まあ、水無月から最近本郷が元気がないって聞いてな」

「はは……ぼくが元気ないだって……そんなことはないと思うけど、やれやれ、そんなに顔に出ているかな?」

「ああ、分かりやすくな」

「どうやら要らぬ心配をかけてしまったみたいだね……」

 先日の出来事からどこか心ここに在らずといった状態なのは自覚していた。そのせいで執筆作業も進まず、キーボードを叩く気力さえ湧かない日もある。

 それが表に出ていたとなると、やはり隠しきれていないのだろう。情けない限りだ。

「しかし、それでわざわざぼくの様子を見に来るとは、天道さんは暇なのかい?」

「暇なわけあるか、こちとら次の記事のネタをそろそろ決めないと、マジでヤバイんだよ」

 天道さんは心底うんざりしたように溜め息をつく。その仕草からは確かに切羽詰まった様子が見て取れる。

「なら、なおのこと、ぼくなんかに時間を割いている場合じゃないのだろう?」

「他のやつならほっとくが、お前の場合は別だ」

「えっ?」

 意外な答えに思わず声が裏返る。天道さんはぼくの驚いた顔を見るなり、笑顔で肩をすくめた。

「本郷がウチに小説を提供してくれないと、マジで書く記事がないときに白紙で出すしかないだろ?」

「……そこは幼馴染だからと素直に言うところじゃないのかい?」

 ぼくは呆れながらも、天道さんらしい言い方にどこか安心感を覚えた。こういう遠回しな表現こそが、彼との距離感なのだろう。長年背中を見てきたから分かる。

「……ありがとう、竜也くん」

 小さな声で呟くと、天道さんが目を見開くのが見えた。

「どうした? よく聞こえなかったが」

「いや……なんでもない……」

 急に恥ずかしくなって窓の外に視線を逃がす。つい、昔の呼び方が零れ落ちてしまった。

 からかって呼ぶには恥ずかしさなんて微塵もないのだけれど、ちゃんと呼ぶときになると途端に恥ずかしくなってしまう。

 火照った顔が夕日の光で誤魔化せていることを切に願う。

「まあいい……それで本郷が悩んでいるのは、月城のことなんだろ?」

「まあね……よく分かったね」

「ここ最近はずっと二人で一緒いたからな」

 確かに最近は毎日のように放課後は沙音と過ごしていたのは、彼も知るところ。何なら彼と話すときも沙音の話題を出していたぐらいだから、当然といえば当然だ。

「そんな相手が三日も休んでいるんだから、心配するのは当たり前だろ、その様子じゃあ連絡取れてなさそうだしな」

「ああ、その通りだよ」

 あの日以来沙音とは連絡が付かなくなってしまった。メッセージアプリの通知音は一向に鳴らない。何度電話しても電源が入っていないアナウンスだけが繰り返される。

 まるで彼女との繋がりが糸一本で繋がっていたかのように、プツリと切れてしまった感覚。

「一体何があったんだ? 俺じゃあ力不足かもしれないが話せば気が楽になるかもしれんぞ?」

 天道さんはぼくの正面に立ち、真剣な面持ちで語りかける。その瞳の奥には確かな誠実さが宿っていた。

 ぼくはしばらく黙考する。

 話すべきかどうか迷う。あまり吹聴されるべき内容ではないと思う。しかし……。

「分かった……話すよ……」

 ぼくは腹を括って彼に事情を話すことに決めた。

 正直言って天道さんに話すことは憚られたが、このまま一人で抱え込むよりは誰かに話して楽になりたい気持ちはあった。それならば信頼できる相手を選ぶべきだろう。

 天道さんの人柄なら安易に他の人に言いふらすこともないだろう。

 ぼくはゆっくりと口を開く。ここ数日の出来事を整理しながら順序立てて語っていく。

 沙音が突然ぼくの家に泊まりたいと頼んだこと。それをぼくは理由も聞かずに承諾し、数日間彼女と一緒に過ごしたこと。そして最後は沙音が父親に連れて行かれたこと。

 天道さんは黙ってぼくの話に耳を傾ける。特に質問を挟むこともなく、ただ時折り、相槌を打ちながらぼくの言葉に耳を傾けてくれる。

 ぼくが話し終わると、天道さんは小さく息を吐いた。

「なるほどな……状況から考えるにつまり月城は家出をしたんだな……」

 天道さんは腕組みをして唸るように呟く。

「十中八九そうだろうね」

 天道さんの推測にぼくも同意した。それ以外に考えようがない。ではなぜ家出をしたのか……。

「まあ、金持ちの家だから色々と厳しいのが嫌になったとか……憶測でしか話せないな」

 そう、まさに彼の言う通り。これまでの状況から考えてそれが理由の可能性は高いが、決定的な証拠があるわけではない。あくまでも推測の域を出ないのだ。

「ただ父親が沙音を迎えに来たときは明らかに険悪な雰囲気だった、少なくとも親子関係において、良好とは言い難いことは確かだよ」

 それに沙音の言葉の節々にどこか家族に対しての思うところがあったことが窺えた。

「こればっかりは本人に聞くしかないな、まあ、他人の家の事情に首を突っ込むのは野暮だが……」

「それを言ってしまったら、元も子もないよ、とはいえどうしたものか……」

 現状、沙音への直接コンタクトは取れていない。携帯が通じないのなら直接家にと言いたいところだけど、肝心の住所を知らない。

 ただ住所が分かった所でこの状況だと追い返されるのは明白だろう。結局のところ手詰まりなのだ。

 そもそも天道さんの言う通り、他人の家庭事情に首を突っ込む権利が果たしてぼくにあるのだろうか……? 

「なぁ、本郷……お前はこれからどうしたいんだ?」

 天道さんは真剣な眼差しで訊ねてきた。その問いかけには明確な意思が込められているような気がした。

「どうしたい……か……」

 天道さんの問いにぼくは即答できなかった。確かにぼく自身は沙音の力になりたいと思っている。しかし、具体的にどうすれば良いのか全く見当がつかない。

 正直なところ、沙音の問題に関わるべきなのかどうかさえ判断できない。 

 ただの一友人であるぼくが果たしてどこまで踏み込んで良いものなのだろうか。

 もし、ぼくが物語の主人公ならきっと迷うことなく友達のために奔走するはずだ。彼女の問題解決に尽力を惜しまない。だってそれが物語のお約束なのだから。

 だけど、この世界は物語ではない。そしてぼくはただの女子高生に過ぎない。つまり、現実はそんなに甘くないということだ。

 ぼく一人が奮起しても何も変わらないかもしれない。ただ沙音に迷惑をかけるだけかもしれないのだ。

 そうなれば逆効果になりかねない。そんなリスクを冒す必要が本当にあるのだろうか。

 正解の選択肢は見えない……だけどこのまま何も行動しないのは嫌だ。

 もう一度沙音の笑顔が見たい。

 彼女の明るさが恋しくてたまらない。

 だからこそ、動かなければならないと頭では分かっている。しかし、踏み出す勇気を持てない自分がいるのも事実だった。

 そんな逡巡する思考を遮るように、天道さんが唐突に声を掛けてきた。

「なあ、沙葉……」

 名を呼ばれ反射的に顔を上げると、天道さんが真面目な表情でこちらを見ていた。

「中学の時……色々とあって、俺に助けを求めたことあったよな?」

「……あったね」

 あの時のことは今でも鮮明に覚えている。忘れたくても忘れられない過去の出来事の一つだ。

 不幸がいくつもの重なった事故みたいなもの。

 ある意味、今のぼくという人間を形成する上で最も重要な原点とも言える出来事なのだ。

「あの時は気づいてやれなくって、気づいた時にはもう遅くて……俺にしてやれることが何もなかった……」

 そう話す天道さんの表情はどこか悔しげで悲しげでもあった。まるでその時のことを思い出して胸を痛めているかのようにも感じる。

 そんな天道さんの様子を見ていると、当時の自分と同じく苦しんでいるように感じてしまう。同じ痛みを共有しているかのように錯覚してしまう。

「そんなことないよ、助けて貰ったさ……君があのときぼくを振ってなかったら、ぼくは君に依存したままで、いつまでも立ち上がれなかっただろうし、こうしてここにいることはなかっただろうからね……」

 天道さんに否定されながらも必死に言い募る。あの時、結果的に救われたのは事実であり、感謝していることも嘘じゃないから。

 ただそれだけ……それだけのことなのに……どうしても言葉が詰まってしまう。

 過去の古傷は塞がったとしても跡は残る。痛みだけはまだ消えずに、疼き続けていた。

 彼に対しての想いはけりをつけた。むしり返すつもりも毛頭ないし、未練はなかった。

 ……ハズなのだが……。

 やはり昔を思い出してしまうと、どうしても胸が締め付けられてしまう。あれから随分と時間が経ったはずなのに、未だに心の奥底に眠っていた感情が呼び起こされる。

 それは、沙音と出会う以前から抱いていた、叶わぬ恋心。

 過去の幻影に囚われたままではいけないことは理解している。それでも忘れることができない……あの日……竜也くんに告白した日のことが瞼の裏に焼き付いて離れてくれない。

 そして今……このタイミングで昔話を蒸し返すとは思わなかった。こんな形で想い出させられることになるとは予想外だ。

 正直言って辛い。しかも本人にはそんなつもりはないのだろうけど……。あくまでも話の流れで言及しただけだろうから責めることはできない。けれども精神衛生上良くないことには違いないわけで……。

「沙葉がそうは言っても俺は結局何もできなかったことを今でも後悔している……だから……」

 ぼくが今内心で何を考えているのか露知らず、天道さんは話を続けようと口を開きかける。しかし、そこで一旦言葉を区切り深呼吸をするような仕草を見せてから改めて話し始める。

「だから、沙葉に俺と同じ思いをしてほしくないんだ」

 天道さんの瞳には強い意志を感じさせる光が宿っていた。

 それはぼくに対する優しさであり、同時に自戒を促すような眼差しでもあった。

「それは分かったけど……何が言いたいんだい?」

 言わんとしていることが掴めなくて首を捻る。どうにも意図が読み切れない。

「ああ……つまり俺が言いたいのは……今の状況と似ているんじゃないかってことだ」

「はっ……?」

 唐突な展開についていけない。突然そんなことを言われても理解不能である。ただぼんやりと思考停止していると、天道さんが更に畳み掛けてきた。

「月城は沙葉に本当は助けを求めたかったんじゃないのか?」

「どういうこと……?」

 思いがけない天道さんの言葉にぼくは疑問を浮かべることしかできなかった。
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