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作者: 桐谷 碧
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海斗くんは飼い犬の如くしつこく付き纏う私に、ブツブツ不満を漏らしながらも付き合ってくれた。きっと九月一日に死ぬなどと、意味深な事を私が告白したから放っておけなかったのだろう。『生々流転』の設定をペラペラと話す私を、疑う事なく信じる海斗くんに対して罪悪感はあったけれど、二人でいる時の私は架空の設定を生きているはずなのに、むしろ家族といる時よりも自然体でいられた。まるで、物語に登場するヒロインこそ本当の凪沙なのだと錯覚するように。願うように。
 大切な家族を理不尽に奪われた海斗くんは、一人で立派に生活していた。仕事をして生計を立て、表向きは過去を引きずっていないように振る舞っている。でも、二人で海に行った車の運転中、黒いBMWが目の前に現れた瞬間、海斗くんの肩は小刻みに震え、目は真っ赤に充血していた。その車が海斗くんの両親を奪った男が乗っていた車種に酷似している事に、私はすぐ気が付いた。この人もまだ、理不尽な過去と闘っているのだと知って、安堵よりも悲しみ嘆いた。
 私が小説に登場する主人公ではなく、リアル海斗くんに恋をするのに時間はそう掛からなかった。海斗くんも私に、いや、偽りのヒロインに心を許していくのを日々感じていて、焦りと喜びが混じる奇妙な感覚に陥っていく。珍しく二日酔いで潰れていた海斗くんにプロポーズをされた朝、心臓がバクバクして口から飛び出しそうになったけれど、同時に彼が告白したのは凪沙じゃなくて美波だという現実と、妄想という名の虚構に、私はそろそろ向き合わなければならなかった。
 
「あのね、私は美波じゃなくて凪沙なんだ。美波はお姉ちゃんの名前。ごめんね、嘘ついてたの……」
「え? なんでそんな嘘つくんだよ」
「だって、怖かったから。あと、九月一日に死ぬのも嘘。ごめん……」
「そ、そうか。それは、まあ、うん、良かったよ」
「怒ってる?」
「ん? いや、別に。安心した」
「本当の名前、呼んでほしいな」
「え? ああ、今度な」
「やだ。今がいい……」
「な、凪沙……」
「なあに?」
「愛してるよ」

 そんな妄想を繰り返しては、ベッドで一人身悶えていた。早く告白してしまえば楽になるのに、一抹の不安が私を行動に移させない。
「俺は美波を好きになったんだよ、凪沙ってだれ? 帰れよ」
 そんな風に突き放されたらどうしよう。フラれたらどうしよう。嫌われたくない。海斗くんと一緒にいたい。その想いが募るほどに、私は正体を明かせなくなる。そもそも私の正体とはなんだろう。お姉ちゃんの代わりを演じた優等生の凪沙は不登校になり消えた。今の私は小説に出てくる仮初の美波。本当の私は行方不明になり、今も何処かを彷徨っているに違いない。
 本当の事を言おうと決意したのは、海斗くんと初めて喧嘩した夜の帰り道。これ以上は嘘をつけない、つきたくない。海斗くんの綺麗な瞳で凪沙を見てほしい。その優しい声で凪沙と呼んでほしい。そんな些細な願い事は、些細な嘘のせいで果てしなく高いハードルとなって立ち塞がる。それでも正直に告白すれば、きっと海斗くんは笑って許してくれる、そんな気がしていた。
 次の日、朝ご飯を食べた後に勇気を出して告白すると、海斗くんはポカンと口を開けながら「えっと、知ってるけど」と言い、私を驚かせた。頭をフル回転させて状況整理をする。海斗くんは美波の自殺を食い止める為に原因を探るべく調査した。その結果、星野美波はすでに死んでいて、目の前に現れた女は幽霊や地縛霊の類であると断定する。突拍子もない言動や自殺宣言も、幽霊ならば頷ける。海斗くんは美波が幽霊でも一向に構わないと考え、それどころか成仏しない様に画作してプロポーズまでしてきたのだ。
 私は戦慄した。自分が思っていた以上に海斗くんは美波を愛し、求めている事に。私が作った架空のヒロインに恋をした彼に、そこまでの愛情を注いでくれる海斗くんに。「星野美波はいないよ、全て私の演技だったの」なんて言えるはずもなかった。咄嗟に出てきた言葉は更なる嘘を重ねていく。
「夏休みしか会えないよ」
 私は生々流転の設定を口にしていた。不登校とは言っても、夏休みの間しか海斗くんの家には通えないし、家に帰れば私は凪沙に戻らなくてはならない。永遠に嘘を突き通すのが不可能ならば、期間限定にするしかない。そして、小説のラストように美波は成仏してこの世を去り、生まれ変わって再開する。そんな結末に頼るしか、もはや道は無かった。いや、それは言い訳だ。本当は海斗くんに会えなくなるのが怖い。たとえ偽りの恋だとしても、海斗くんと一緒に過ごす日々だけが私を潤し、彼がいない日々を考えると、どうしようもない恐怖が私を襲う。だから、一緒にいられる為の嘘をつき、自分勝手な嘘を重ねた。
 海斗くんは凪沙が夏休み限定で美波に体を貸すと言う小説の設定を、すんなりと受け入れてくれた。それどころか、永遠に成仏しないよう実家にヒントを探しに行くと言い出して少し焦ったけれど、お姉ちゃんの手帳はこっそり隠して見られないようにした。海斗くんの名前を手帳に見つけたら、私が覚えていなかった事に矛盾が生じてしまうと思った。
 八月三十一日。私は遂に最終日まで嘘を突き通した。明日から来年の七月二十一日まで海斗くんには会えない。いや、正確にはそうでもない。凪沙として近づく事は可能なのだ。そして、この頃には凪沙として海斗くんに近づく作戦も既に考えていた。海斗くんが愛する美波、つまりお姉ちゃんを死に追いやった女、浅間菜緒の事を私は密かに調べていて、個人のSNSまで辿り着いていた。最初はお姉ちゃんをダシに使うようで気が引けたけれど、浅間を調べていくうちに考えは変わった。この女には海斗くんとは無関係に復讐してやりたい。楽しそうにSNSを更新する女に、言いようの無い殺意が芽吹いた。
 また、来年必ず会おうと約束をしてから私たちは別れた。部屋に戻ると小さな頃、夏休み最後の日がそうだったように、虚無感と悲壮感が雪崩のように押し寄せてきて涙が溢れた。さっきまで一緒にいたのに、もう、何ヶ月も離れ離れになったような絶望を感じて、真っ暗な布団の中で声を殺して泣いた。
 九月一日。お姉ちゃんの命日は毎年家族でお墓参りをしていたけれど、私は何となく海斗くんがお墓に来るんじゃないかと察して、制服に着替えて家を出た。心配そうに見送るママに「ちょっと散歩」と伝えて松庵寺に着くと、御影石の前で咽び泣く海斗くんがそこに居た。彼は何を思ってここに来たのだろう、そして誰の為に涙を流しているのだろう。それは、少なくとも凪沙の為じゃない事だけがハッキリしていて胸の奥が傷んだ。私は凪沙として初めて海斗くんに話しかけた。
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