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作者: 桐谷 碧
「今日はお客さんと打ち合わせがあるから出掛けてくる。部屋は適当に使っていいから、帰る時は鍵をポストに入れて、いや、美波が持っててくれ。スペアキーあるから」
 彼女はその嘘をまったく疑う様子もなく、陽気に「いってらっしゃ~い」と、新婚夫婦のように玄関先まで見送ってくれた。俺は滅多に着ないスーツに、ネクタイを締めている。髪をオールバックに撫で付けてサングラスを装着しているので、とても十八歳には見えない、と思う。しかし、暑い。サラリーマンは真夏でもこんな格好で街中を歩いているのかと考えると、やはり馬鹿なのかと思ってしまう。見た目や格好で仕事の良し悪しが変わる訳でもないだろうに。俺にはまったく理解出来なかった。
 マンションを出ると歩いて一分の人形町駅に向う。今思えば、駅から近いほうが何かと便利だという理由で決めたマンションだったが、駅を使う事など殆どないことに気が付いたのは住み始めて半年以上経ってからだった。人形町に決めた事に意味はない。とにかく地元から離れたかった、それだけだ。しかし、いざ住んでみれば、中央区という東京の真ん中にも関わらず、古い町並みの落ち着いた雰囲気が気に入った。基本的にはオフィス街なのであまり喧騒がない場所ではあるが、お盆ということで休暇を取っているサラリーマンも多いのだろう、いつもよりさらに人通りは少なかった。
 地下鉄の階段を下ってスマートフォンを自動改札口にかざす、さらに階段を降りると駅のホームが現れた。北千住方面、つまり都心とは逆方向に向う日比谷線に乗り込むと、空いている席に腰掛けた。車内はポツポツと空席があるが、座っている中年女性から若い男に至るまで、漏れなくスマートフォンを操作している。ともすればそれは異様な光景であった。音楽を聞く、YouTubeを見る、あるいは仕事をしている人間もいるのだろう。しかし、スマートフォンという同一の端末に取り憑かれたように集中する様は、俯瞰で観察すると病人が並んでいる様な不気味さがある。
 そう言えば自分がスマートフォン、以前は相棒と呼んでいた機器を、最近ではあまり使用していない事に気が付いた。当然、それは美波が入り浸るようになってからだ。スマートフォンを眺めていた時間は美波との会話に変わり、彼女が来てから悪夢を見る事はパタリと無くなった。美波を自殺から救おうと思索しているが、一緒にいて救われているのは今のところ俺の方だ。

 え、地元? 赤羽だけど――。
 
 海の帰り道で、さり気なく聞いた貴重な情報だった。しかし、その地名を聞いた瞬間に心がザラついた。東京都北区赤羽は俺が生まれ育った街だ。これは偶然なのだろうか。それまで美波は人形町で生まれ育ったと勘違いしていたが、どうやら夏休みに母方の実家に遊びに来ている、という事らしい。十七歳の女子高生が、夏休みの全てを祖父母の家で過ごす事に若干の違和感を覚えたが、もし美波が地元には居たくないと考えたならば辻褄も合う。九月一日に自殺する理由が、家庭の問題にしろ学校の問題にしろ、美波が生まれ育った街にそのヒントがあると推察した。
 更に「どこ中?」と言うヤンキーがカツアゲする時に使いそうな質問に美波は一瞬戸惑いながら「赤岩二中」と答えた。しかし、すぐにしまった、と言うように顔をしかめたのを俺は見逃さなかった。地元は同じだが中学校は違うようだ。もっとも俺の中学校でソフトボール部が全国大会に出場したなんて話は聞いた事がないし、美波くらいの美少女がいれば一つ上の学年でも噂になる筈だ。しかし、有益な情報はここまでで、その後の質問はのらりくらりと躱わされた。
 十分もかからずに上野駅に到着した。ここで乗り換えだ。階段を上り、地下鉄の改札をでる。少し歩いて行くとJRの改札口が見えてきた。ここでも都心とは逆方向の、大宮行きの京浜東北線に乗り込んだ。どんどん都心から離れていくが赤羽はギリギリ東京だ。とは言え、もう一駅乗れば埼玉に突入するが。
 二十分も走ると目当ての駅には到着した。久しぶりの地元凱旋に感慨深くなるような良い思い出はない。念のためにスマートフォンで『赤岩二中』と検索すると、自分の記憶にある場所に、やはりその学校は存在した。一つ深呼吸をしてから歩き出す。少し歩くとアーケードの商店街が見えてきて、ガラス張りの喫茶店で自分の顔を確認する。サングラスにマスク、これなら例え地元の知り合いに出くわしても、佐藤海斗だとバレる事は無さそうだ。
 商店街では杖をついた老人の横を、チャイルドシートを付けたママチャリが中々のスピードで疾走している。駐車禁止の札が貼られている地面が見えなくなるほど自転車が停められていて、持ち主はどこに消えたのか不思議だった。要するにあまり治安が良い街ではない。商店街に入りさらに歩くと、突然その中学校は現れる。目の前にはパチンコ屋とゲームセンターがあり、パチンコのパの部分だけ照明が壊れていて、遠くから見るとチンコに見えた、中学校がある場所としては劣悪過ぎる環境だ。
 校門は開いているが、中の様子を見ることはできない。しかし夏休みなので部活動の練習をしている可能性は高いと見ていた。全国大会に行くようなソフト部なら尚更だ。時刻を見るとまだ昼過ぎ、幾らなんでもこんなに早く部活が終わるとも考えにくい。せっかくなので中学校をぐるりと一周して見て回る事にした。校舎に囲まれてグラウンドの様子が伺えなかったが、校門の丁度反対側に回ると急に視界が開けた。L字型の校舎はこちら側にはなくて金網のフェンスで囲ってある。もちろんグラウンドは丸見え、そこには威勢のいい掛け声とハツラツと白球を追いかける女の子達の姿があった。
 しばらく練習に釘付けになった、ソフトボールを見るのは初めてだが思った以上にレベルが高い。下手な野球部よりも上手いかもしれない。すると、何やら視線を感じる。視線の先には自分を見ながらヒソヒソと話す、犬を連れた主婦らしき女性が三人いた。安易な彼女たちが考えている事はすぐに理解した。怪しい男が中学生をイヤラシイ目で観察しているとでも話しているのだろう。もちろん、サングラスにマスクという不審者マックスの格好をしている俺にも非はあるが。
 暇な奴らだ――。
 この程度の街に住んでいる人間の、程度の低さを垣間見た気がした。そんな噂話をしている暇があれば、無能な自分の子供の将来でも考えてやれ。心のなかで毒づくと、すぐにその場を離れた。
 再び校門の方に出ると、真っ黒に日焼けした中学生の男の子達が、校門に吸い込まれていくところだった。すぐにピンときてその中の一人に話しかけた。
「君たち野球部かな?」
 怪しい男に話しかけられて、男の子がギョッと身を引いた。俺は慌ててサングラスとマスクを外す。
「は、はい、そうです」
「ソフト部がグラウンド使ってるけど」 
「午前と午後で交代制なんです」
「そうなんだ、暑いけど頑張ってね」
「ありがとうございます」
 白い歯を見せた少年は礼儀正しく頭を下げると、颯爽と仲間の後を追っていった。ナイスタイミング。丁度ソフトボール部は練習が終わる時間だったようだ。しばらく待っていると制服に着替えた精悍な女の子達が出てきた。先頭を歩くショートカットの子に声をかける。
「ちょっとごめんね、顧問の先生はいるかな?」
「田淵先生ですか? ええ、職員室にいると思いますけど」
「申し訳ないんだけど呼んできて貰えないかな、雑誌の取材なんだけど、少しインタビューしたいんだ」
 すると、軽い歓声が上がった。自分たちの部が取材対象だと察したのだろう、彼女は待っててくださいと言うと、踵を返して校内に戻っていった。残された部員たちはキャピキャピと黄色い声をあげている。美波の後輩たちに嘘をついた事に、僅かな罪悪感を抱いた。
 
「私、こう言う者です」
 小走りでやって来たソフト部の顧問に昨日、急遽発注した名刺を手渡した。
『月間ベースボール現代 記者 佐藤 陸』
「記者さんですか?」
「ええ、ソフトボール部の特集を予定していまして。少しお時間を頂けないでしょうか?」
 オリンピックの公式種目からも外されて、人気があるとは言い難いスポーツに取材が入る事に違和感を感じて警戒される事も予想したが、田渕と名乗る五十絡みの男性顧問は是非にといった態度で応じてくれた。
「しかし、すみません。私これから次の対戦相手の偵察がありましてね。夕方からなら時間が取れますが」
 時計をチラリと確認して、もう出ないと間に合わんのですよ、と田淵は付け加えた。
「そうですか、では夕方からで構いません」
 五時に商店街の入り口付近にある喫茶店で待ち合わせる事を約束すると、田淵は軽く手を上げてその場を去っていった。対戦相手の偵察までするとは驚いたが、何にせよ目的の一つは果たせそうだ。スマートフォンで時間を確認すると、時刻はまだ十三時を回った所だった。だいぶ空くので昼食を食べてから二つ目の目的を果たす事にした。
 久しぶりに地元の商店街を歩くが、さして変わりはないように思えた。ラーメン屋が回転寿司に、魚屋がラーメン屋に、ラーメン屋が違うラーメン屋になっている程度だ。俺は結局、路地裏にあるカウンターだけの、こぢんまりとしたラーメン屋に入った。昼時にも関わらず客は一人もいないが、味よりも、誰かに合う可能性が少ない事を優先した。醤油の気分だったが、メニューには味噌ラーメンしかない。
「お待たせしました」
 ラーメン屋の店主にしては覇気のない、メザシのような男が遠慮がちにドンブリを置いた。中小企業の係長でもしていた方がよほど似合う。俺はなんの期待もせずにスープを啜った。
「うっま……」
 思わず声が漏れてしまった。なんだこれは。コッテリとしているのにしつこくはない。味が幾重いくえにも舌の上を通過していく。美食家でもないが、手の込んだスープである事は十分に分かった。次に麺を啜る、中太のちぢれ麺がスープによく絡む。よく見ると麺の太さが少しずつ違う、わざとなのだろうか。そのおかげで食感にアクセントが生まれて飽きがこない。俺は一気にラーメンを食べ終えると、最後に水を飲んで息を吐いた。
「水うっま……」
 なんでこの店に客がいないのだ。店内を見渡すが、やはり誰もいない。確かに路地裏で見つけにくいが、これだけ美味ければ口コミやネットで評判になりそうなものだ。疑念は高まるばかりだが考えた所で仕方がない。
「ご馳走様でした、いくらですか?」
「ありがとうございます、三百七十三円です」
「やっす! え? 三百七十三円ですか?」
「ええ、うちはこの金額でやらせて貰ってます」
「電子マネーは?」
「すみません、現金のみでやらせて貰ってます」
 俺は財布から千円札を一枚抜いて店主に渡した。お釣りが無くても十分に満足出来るレベルの一杯だが、キッチリ六百二十七円を受け取って店を出た。
「ありがとうございます」
 最後まで丁寧な挨拶をする店主に見送られて、また絶対に来ようと心の中で誓った。次の目的地までは歩いて二十分以上かかる。照りつける日差しにはうんざりしたが、久しぶりの訪問を、きっと二人も喜んでくれるだろう。
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