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作者: 桐谷 碧
『それではこれより、読売ジャイアンツのスターティングメンバーを発表いたします。一番、セカンド――』
 ウグイス嬢が選手の名前を呼ぶたびに、スタンドからは歓声が上がった。結局、成り行き上しかたなく東京ドームまで来てしまった。万が一にも職務質問されたら、妹になり済ますように指示すると、彼女は渋々了承した。
 彼女は何者なのか。狙いは何なのか。分からないことが多すぎる、まずは情報を集めなければ。
「星野さんは――」
「美波」
「は?」
「妹に星野さんはないでしょ」
 おっしゃる通りなので反論が出来ない。
「えっと、美波は何歳になるんだ?」
「十七歳」
 球場内はカクテル光線で眩しいはずなのに、目の前が真っ暗になった。心の何処かでせめて二十歳は超えていれば、未成年じゃ無ければ大丈夫だと考えていたからだ。それならば彼女の自己責任だ。
 十七歳では言い逃れは通らないだろう、まさか家出少女じゃあるまいな、知らないうちに誘拐犯になっている可能性もある。
「家はどこだ?」
 幸い試合が始まる前で席はガラガラ、会話を聞かれる心配はなかった。
「海斗くんちの近くだよ」
「学校はどうした?」
 彼女は少しムッとした顔をこちらに向けた。
「海斗くん、質問が多いなあ。それに今は野球を観に来てるんだから、野球以外の話題は受付けませーん、ちなみに学校は夏休み」
 何てこった、近所に住んでいる女子高生って事しか聞き出せなかった。
「ビールください」
 近くを通りかかった売り子を呼び止めた。現実逃避しよう、何も無理やり連れ回している訳じゃない。野球好きの女子高生と東京ドームに来ていたって、はたから見れば別に怪しい所はないだろう。
「海斗くん、未成年のクセにビールなんか飲んだらダメじゃない。すみませーん、キャンセルで」
 髪を後ろで一本に束ねた、若い女の売り子は引き攣った笑顔を一瞬見せた後に立ち上がり、そそくさとその場を去って行った。
「え、なんで?」
 確かに俺は十八歳だ。学校に通っていれば高校三年生と言う事になる。野球部だった俺は最後の夏を、今まさに謳歌している所だろう。しかし現実は中卒で、フリーランスとしてすでに仕事をしている。年齢を偽りマンションを借り、得意先にも二十六歳で通していた。俺が未成年だと知る人間は、少なくとも今の居場所には存在しない、はずだった。
「ん?」
 彼女はヤクルトスワローズの選手が出てきて、控えめに手を叩いている。東京ドームは巨人のホームグラウンドだから、派手に盛り上がるのを避けているのだろうか。
「なんで! なんで俺が未成年だと知ってる?」
 とりあえずこの場には知られて問題がある人間はいないが、本能的に声が小さくなり先細っていった。
「え? だって見た目が」
 俺は決して童顔でも無ければ老け顔でもない。年相応の十八歳だ。しかし、それはマスクを外している場合に限る。ともすれば冷淡に感じるその目元は、それだけだと未成年には見えない。その年齢には宿らない筈の悲嘆、憤怒、哀愁が人生経験により常備されているからに他ならないと考えている。俺は彼女の前でマスクを外した事はない。いや、ここ数年は誰の前でも素顔を晒した事などない。コロナ禍は俺にとっては都合の良い隠れ蓑になっていたのだ。
「どうしたの? 怖い目しちゃってー。お腹すいたぁ、お弁当買って来ようかな」
 彼女は年齢の話題を避けるように、お腹をさすりながら立ち上がった。「海斗くんは?」と、問いかけられて「一番高いやつ」と答えると、クスクス笑いながら席を離れた。
 俺は一体なにをしているのだ。見知らぬ女の子と野球観戦に興じるような社会性は本来持ち合わせていない。もっと言えば彼女のような陽キャは俺の苦手な、いや、嫌いなカテゴリに入る。それなのに気がつけば俺は東京ドームにいて席に座り、彼女に弁当を頼んでいた。
 目の前では巨人の選手達が各々の守備位置についている。もう直ぐ試合が始まるようだ。鮮やかな人工芝のグリーンに黒い土、ダイヤモンドの四隅には真っ白なベースが置かれている。そう言えば球場で野球観戦するなんて久しぶりだ。テレビ中継では毎日のように観ているが。まあ、せっかくいい席で野球が観られるのならば、難しい事は考えずに楽しもう。あの女の子にも悪意があるようには見えない。あったとしても警戒する俺を騙すのは不可能に近いだろう。
 そうと決まればコイツが必要だ。俺はポケットからBluetoothのイヤホンを取り出すと耳に装着した。ウドンが耳から飛び出しているみたいで最初は嫌だったが、今では殆どの人間がワイヤレスだ。相棒を操作してラジオのアプリを立ち上げる。プロの解説を耳で聞きつつ、目の前の生野球を観戦する。これぞ野球通の観戦スタイル。俺は目の前の試合に集中した。
 
「――とくん」
「かーいーとーくん!」
 いきなり左側のイヤホンを引っこ抜かれて、耳元で叫ばれたので頭がキーンとした。星野美波がどっかりと席に座り俺を睨みつけている。弁当を買いに行ったはずなのに、その手には何も持っていない。
「なんで耳栓なんてしてるのよ?」
「は? 耳栓? イヤホンな」
「え? ああ、確かに形が……」
 そう言いながら彼女は自分の耳にイヤホンを入れた。
「ほんとだ! 聞こえるー」
 なんだコイツは。ワイヤレスイヤホンも知らないのか。何処の田舎から出て来たのかと疑いたくなるが、家は近所だと言っていた。ならば日本橋、まさに東京のど真ん中である中央区だ。
「聞こえるー、じゃないのよ。なんでイヤホンなんてしてるのか聞いてるの」
 そう言いながら左耳のイヤホンを返してきた。俺はなぜにお前が弁当を持っていないのかを聞きたい。実は腹が減っているのだ。
「なんでってお前――」
「お前じゃなくて美波」
「なんでって美波、プロの解説を聞きながら見た方が、より一層楽しめるだ――」
 そこまで言ってハッとした。普段から人と関わらないで生きてきたせいで、他人への配慮が欠けていたのだ。俺は「悪い悪い」と言いながら左耳のイヤホンを彼女に渡した。
「よし、二人で聞こう」
「ちがーう!」
「え?」
「ちーがーうーでーしょー! 違うでしょ!」
 秘書をいびる女性政治家かコイツは。
「二人で観に来てるんだから、会話しながら観戦するのが普通でしょーよ」
 そうなのか? 女の子と野球観戦した事など一度も無いから分からないが、少なくとも素人と会話するよりもプロの解説を聞いた方が楽しいと思うが黙って頷いた。一つ歳下なのに逆らえない、見えない圧力が彼女にはある。俺がワイヤレスイヤホンをポケットにしまうと、彼女は満足そうにアーモンド型の目を細めた。
「で、弁当は?」
「あ! そうなの。東京ドーム内では現金は使えませんって言われちゃった。わたしデンシマネエ? そんなの持ってないし」
 東京ドームでは今年度から完全キャッシュレス決済に移行した。これも時代の流れで当然と言えば当然だが、しかし。今どき電子マネーも持ち合わせていない女子高生というのも珍しいものだ。俺はパスケースから交通系ICカードを取り出して彼女に渡した。普段は相棒で決済するが、万が一充電が切れた時の為に予備としてICカードに一万円程チャージしてある。
「なにこれ可愛いー」
「むかし、北海道で買ったらそれだった」
「えー、いいないいなー」
 東京版ではペンギンがモチーフのキャラクターだが、北海道版ではなぜかモモンガになっている、両手両足を広げて滑空しているイラストが特段かわいいと感じた事はなかった。
「やるよ」
 チャージしてあるお金はチケット代の代わり。と、伝えると、彼女は甲子園で全国制覇でもした球児ように大袈裟に喜んだ。試合が始まると少しずつ客席が埋まってきた。低迷する野球人気が問題になっているが、ミーハーな野球ファンが大勢球場に押し寄せるよりは、コアなファンだけでゆっくりと楽しみたいのが本音だった。試合はヤクルトリードのまま進んでいった。彼女は上機嫌でおかしをツマミながら野球観戦に興じている。そして意外な事にその知識は俺が想像する遥か上をいっていた。どうやら選手をアイドル扱いするミーハーファンではないようだ。
「あっちゃー、フィルダースチョイスかあ、何やってるのよー」
 野球をやっていた人間でもちゃんと説明するのが難しいような単語が出てくる。
「今のは、堅実に一塁だよねー」
 点差が開いたこの場面で無理をする事はない、確かに戦術上の指摘も的をいている、俺は軽く頷いた。
『ヤクルトスワローズ、ピッチャーの交代をお知らせします』
 左のワンポイントの名前が告げられた。    
「サウスポーかあ、ねえ海斗くん、なんで左利きをサウスポーって言うの」  
 烏龍茶を一口飲んでから答える。
「左ピッチャーがマウンドに立った時にpaw(腕)がsouth(南)を向くことが多いからだって言われてるな」
「え、どうして南向きになるの」
「昔の球場は西日を避けるために、ホーム側を西にして屋根で遮ろうとしたんだ、今ではドーム球場が多いから関係ないだろうけど」
「へー、すごい野球オタクだね」
 オタクという言葉には反感を覚えた。しかし、どうして俺はそんな事を知っているのだろうか、野球はもちろん好きだが、うんちくのような知識に興味はない。おそらく野球好きな父親から聞いたのだろう。
 交代したピッチャーが投げた初球、快音を残した打球は物凄い勢いでライトスタンドに飛び込んだ。目の前に座っている若いカップルが立ち上がって興奮している。一塁側は巨人ベンチなので恐らくファンなのだろうが、視界を遮られた事にイライラした。
「チッ、見えねえだろうが!」
 椅子を蹴っ飛ばし、盛り上がる球場内でもしっかり聞こえるように文句を言った。そもそも自分が立ち上がったら、後ろの人間は見えなくなると想像しないのだろうか。コイツラは映画館でも盛り上がったら席を立つのか。馬鹿の行動は読めないし、理解するつもりもない。しかしこちらの気分を害した事をしっかりと相手に伝えることは忘れない。全てを自分が我慢する事などありえないのだから。 
「あっ、すみません」
 女のほうが申し訳なさそうに謝りながら席についたが、男の方は頭も下げずにこちらを一瞥しただけだ。やれやれ、キチンと謝罪も出来ないとは。偏差値の低そうな顔をしているが、おそらく年収も低いだろうな。そんな事を推察していると、隣の星野美波がジッとコチラを睨みつけている。
「海斗くん。そんな言い方は良くないでしょ? それにホームラン打ったんだから、少しくらい盛り上がっても良いじゃない」
 弟を叱責するような言い方にカチンときた。
「は? じゃあ試合が見えなくても俺が我慢するって事かよ」
「海斗くんも立ち上がれば良いじゃない、巨人ファンなんだから」
「そんな事したら後ろの人に迷惑だろーが」
「後ろの人も立ち上がってたよ」
「……」
 釈然としないが言い返す事もできなかった。
 試合が終盤に差し掛かり、尿意を感じてトイレに立った。インプレイ中なのでそれ程混雑していない、入念に手を洗ってトイレを出ると、目の前に座っていたカップルの男とすれ違った。さっと一瞥して横を通り抜ける。
「おい、待てよテメエ」
 クックック、心のなかで嘲笑った。なるほど、わざわざ追いかけて来たわけだ。ご苦労さん――。
「なんですか?」
 高圧的にならないように、かつ下手にもならないような、丁度いいバランスで返事ができた事に満足した。
「なんですかじゃねえよ、テメエ喧嘩売ってんのか」
「……」
 腹がよじれるくらい笑いたかったが、何とか我慢した。今時こんなセリフを吐く人間がいるとは本当に貴重だ、アニメの第一話に出てくるモブキャラでもこんなストレートなセリフは吐かないだろう。素晴らしい、心の中で彼を称賛した。汚いニキビ跡にチリチリのパーマは天然だろうか、年齢はどうだろう、二十四歳といったところか。見た目まで雑魚感が全面に出ているので、彼には百点満点をあげることにした。
「いや、とんでもない。気分を害したなら謝りますよ」
 イマイチなセリフを返してしまった事に後悔した。それより早く席に戻ろう、これから巨人の攻撃が始まる。
「ちょっと、こっち来い」
 やれやれ、引き際が分からない奴だな。こんな輩に絡まれるのはいつ以来だろうか。仕方がないから少しだけ付き合ってやる事にした。チリチリ男と一緒に球場の外に出て、少し歩くと人気のない暗がりがある。まさか、いい歳してカツアゲでもする気なのだろうか。
「金出せ」
 ビンゴ。俺は笑いを堪えながら相棒を差し出した。
「スマホなんか要らねえよ、財布だせ」
「いえ、現金は持ち合わせてないので……」
 外出時にまったく現金を持ち歩かない訳ではない。そもそもスーパーに行く予定だったから、財布を持っていないのだ。スーパーは当然キャッシュレス決済が可能だ。
「嘘つくんじゃねえよ」
 チリチリ男は国際線の検査官のようにパンパンと体をまさぐってきた。ジャンプしろと言われたら笑いを堪える自信がない。
「ね?」
「お前、ムカつく目つきしてんな」
 そんな事を言われても困る。好きでこの目に産まれてきたわけじゃない。軽くため息を吐くと、いきなり胸ぐらを掴まれた。どうしてこっち系の馬鹿は、直ぐに胸ぐらを掴むのだろうか。漫画の影響かも知れない。俺は不良は嫌いだが不良漫画は好きだ。
「殺すぞ?」
 そう言って本当に殺した奴を俺は知らない。そろそろ飽きてきたから終わらせる事にした。たまに外出してみたらこの始末。やはりスポーツは家でゆっくり観戦するに限る。
「あんたさぁ。煽り運転とかするタイプだろ?」
「ああ?」
 胸ぐらを掴むチリチリ男の手首を、俺は左手で無造作に握り、力を込める。
「イタタタっ」
 生まれつき握力だけは異常に強かった。その上、毎日鍛えるようになったので、今ではどちらの手でもリンゴを握りつぶすことができる。身長百七十五センチ、体重六十五キロ、一見すると細身な体格を見て喧嘩を売ってきたのだろう。コイツらは自分より強そうな人間には決して絡まない。それが、いかに格好悪いかに気付きもしないチンパンジーだ。反吐が出る。俺は空いた右手でチリチリ男の顔面をつかみギリギリと力を込めた。頭蓋骨が軋む感触が手に伝わってくる。
「ちょっ、やめ、やめてくださ――」
 我に返って手を放すと、その場にへたり込んだチリチリ男は大袈裟に掴まれた場所をさすっている、見ると赤黒く変色していた、少し力を入れすぎたようだ。俺はその場にしゃがんで目線の高さを合わせた。
「おいクズ」
「はい……」
「生きてて恥ずかしくねえの?」
「すみません」
「ブサイクに産まれて、頭も悪くて。お前の彼女もブスだったなー。あいつと結婚して頭の悪いブサイクなガキを作るんだろ? 迷惑なんだよ。馬鹿と犯罪者がどんどん増えるだろーが、死ねよマジで」
 チリチリ男の顔面に唾を吐きかけた後に立ち上がり、腹に一発、蹴りを入れといた。コイツが俺の両親を殺した男じゃない事は分かってる。あいつは刑務所の中にいるのだから。それでも同じ匂いのするクズを粛清する事で、俺の溜飲は多少下がった。
 再入場して席に戻ったが、巨人の攻撃はすでに終わっていた。どうやら今日は旗色が悪そうだ。
「遅かったね、混んでたの?」
 さっきまでポテトチップスを食べていた彼女はチョコレートをかじっていた。よくお菓子だけをそんなに食べられるものだと感心する。
「ああ、前の席の兄ちゃんに絡まれちゃった」
「えー! 大丈夫だったの」
 彼女が答えると同時に、前に座っている女の肩がピクッと揺れた、自分の彼氏がどうなったのか気になっているのだろう。
「うん、ボコボコにしてトイレに放り込んだ、これから仲間が来て攫っちまうからさ。可哀想に漁船にでも乗せられて強制労働だな、女はソープで死ぬまで――」
 話が終わる前に、目の前に座っていた女は立ち上がり、荷物をまとめて逃げるようにして帰っていった。
「ちょっと、海斗くん……」 
 彼女は非難を帯びた目で俺を凝視している。少し調子に乗り過ぎたようだ。
「冗談だよ、冗談」
 それから数分するとチリチリ男が戻ってきた、自席に連れがいないので席を間違えていないか確認する、こちらをみて軽く頭を下げた。
「彼女なら帰ったよ、良かったな。日本の未来は護られた」
「何のこと?」
 彼女の問いに俺は肩をすくめた。
 チリチリ男は首をかしげながらスマートフォンを操作している。やがて諦めたのか「失礼します」と言って帰っていった。目の前に人がいなくなり快適になった事に満足したが、結局巨人は大差で負けた。
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