▼詳細検索を開く
作者: 桐谷 碧
プロローグ
 誰もいない朝の校舎、校門をよじ登るといつもより広いグラウンドが目の前にあった。ほんの僅かだけどお世話になった場所。恩を仇で返すようで気が引けたけれど、もう後には引き返せない。

 グラウンドの端を歩きだすと右手にはプールがある。もう今年は使われる事がないであろう夏の花形は、ひっそりと静かな水面に落ち葉が浮かんでいた。そのまま進んでいくと校内に入る玄関があり、今はまだ閉まっている。おそらくあと一時間もすれば、こんがりと日焼けした生徒達を受け入れるために開放されるはずだ。
 
 校舎の裏側に回ると廊下に沿って窓がある。手前から四番目の窓は鍵が壊れていて、修理されていなければ容易く進入する事ができるはずだった。実際、窓に手をかけるとカラカラと躊躇いもなく開いた。もし、夏休み中に窓が修理されていたら。もし、守衛さんに見つかっていれば。もし、誰かが異変に気が付いていたら。もし、生まれてこなければ。

 たら、れば、たら、れば。そんな事を言ったらキリがない。勢いを付けて窓枠をよじ登ると、校舎の中に無事侵入する事ができた。階段を登り屋上を目指す。二階から三階、三階から四階に到着すると、屋上に続く細い階段がある。十三階段は確か、死刑囚が首を吊る為に登っていく段数だったか思い出せないが、少なくとも目の前にある階段が十三段以上であることは目視で確認できた。階段を登りきると小さな踊り場がある、念の為に後ろを振り返り、誰もいない事を確認してから内鍵を解錠して屋上へと出た。

 紺碧の空には夏の太陽が昇り始めていた。出てきた扉の裏側に回ると錆びた梯子が掛かっている。どうして、こんな所に梯子が付いているのだろうと疑問だったが、今となってはありがたい。金網のフェンスをよじ登るのは難儀そうだ。それに少し高さが増す分だけ致命傷にな確率も上がるだろう。左手で梯子を掴むと、冷んやりと冷たい感触が手に伝わってきた。足を掛けて一段づつ登ると、錆びた梯子はギシギシと音を立てて泣いている。まるでこれから起こる悲劇を憂えてくれるように。

 不思議と恐怖心はなかった。それよりも新しい世界に羽ばたける期待と興奮が勝っている。現世に期待するには、あまりにも過酷な試練を与えられてしまった。大人に言わせれば自殺なんてバカバカしいと思うのかも知れない。しかし高校生にとって学校とはこの世の全て。この場所に留まることが出来ないと言うことは、死ぬと同義なのだ。やり残したことが無いと言えば嘘になる、自分でも笑っちゃうような普通の夢。生きていれば誰でも叶えられるような平凡な願い。

 制服を着てくるか迷った。しかし制服を着ての自殺というのは、なんとなく悲壮感があるような気がして躊躇した。代わりにお気に入りの白いオーバーオールを着用している。コンクリートに叩きつけられて、潰れたトマトの様に弾けた赤とのコントラストを意識していた訳ではない。
 彼女が一歩、また一歩と歩を進めると爪先がコンクリートの縁に差し掛かった。あと一歩前に出れば全てがリセットする。そう、これは終わりじゃなくてリセット。ゲームで負けたらそうする様に、死んだらコンティニュー、次は上手くやれるように、やり直すだけだ。
 そう考えると一層心が軽くなった。澄み切った空を見上げてから目を閉じる。両腕をいっぱいに広げて体を前に倒すと、ふわりと重力がなくなり鳥になった気分だった。しかし、それはほんの一瞬の出来事で、次の瞬間には激しい衝撃と共に意識は失われた。
 
 十七歳の星野美波が自らの命を絶ったのは、夏休みが終わり二年生の二学期が始まる九月一日の朝だった。
Twitter