残酷な描写あり
R-15
砂海のマーニャ
その後はナターシャからは植物の名前なども聞いたが、不思議と何も頭に入ってこなかった。見慣れない植物に恐怖を感じたとはいえ、すぐに落ち着き精神的にはさほど疲労を感じていないのだが、何も頭に入ってこないのだ。
宿を取ると、部屋で教典の『悪魔の樹木』についての記述を読み返す。かつて邪教徒達が植えた悪魔の樹木は堕落の実をつけ天使の怒りを買った。そのために大地は破壊されて砂の海に変わった。おかしい。なぜ今までこのおかしさに気付いていなかったのだろう。人々に優しい笑顔を向けながら、その裏で年端も行かない子供の教徒を虐待していた教主の行いを知って教団に疑問を持つまで、この記述を疑うこともなく真実だと思って過ごしてきた。
邪教徒が悪魔の樹木を植え増やす前の星がいったいどのような姿だったのか、一切語られていない不自然さに気付かずに。
「……悪魔の樹木は、邪教徒が植えたものではなかった。きっと元からこの星に生えていた植物――原生植物のことなのでしょう。そう考えれば、あらゆる植物をヒステリックに排除する教団の姿勢に説明がつきます」
生産プラント以外の場所で初めて植物に触れ、恐怖を感じたことで頭に浮かんだ仮説。では、なぜ教団がそこまでこの星の原生植物を忌避するのか。知られては困る事情があるのだろうか。最も容易に想像できた理由は大天回教がこの星を砂漠の星に変えたというものだ。だがそれだけでは植物を忌避することの説明がつかない。砂漠の星に変えた理由がなければ、そしてそれは原生植物が増えることで明らかになるものでなければ。
「ただ頭の中で考えていても答えは見つかりそうにありませんね。やはり過去の歴史を探るのが一番の近道でしょう」
ため息を一つつき、教典を閉じる。考えていても仕方がない、当初の目的地である国境近くの遺構を目指そうと決めてベッドに横たわる。この町は居心地が悪い。どこに行っても英雄扱いだし、水場の周りは草だらけだ。明日の朝になったらすぐに出発しよう。そんなことを考えているうちに、瞼が重くなる。思い返せば、初めての戦闘から昼夜通してろくに休まず砂漠を走ってきた。ナンディの操縦席は快適だが、やはりベッドの上とは違う。それに今日はプアリムや植物に接近して緊張した。疲れがたまっていて当然だ。目を閉じると、心地良い眠気に誘われて自然と意識が遠のいていった。
「聖教徒様の旅路に幸多からんことを!」
町の住民から熱烈な見送りを受けて出発する。いい加減に愛想笑いも疲れた。来るときは人恋しかったのに、今はやっと一人になれた開放感で一杯だ。ある意味、いい気分転換になったのだろう。広大な砂の海を国境へ向けて走り続けた。
『前方約4000、巨大な生物の接近を確認。行動パターンよりマーニャと推測されます』
「マーニャですか。ではそのまま進みましょう」
砂漠で接近してくるのは敵ばかりではない。この一面砂の世界で最大の人間の友、それがマーニャだ。
しばらく進むと、砂から飛び出す大きな黒い背びれが見えた。地上部分の三角形だけで、ナンディのゆうに三倍はある。ナンディ自体も大型のアルマであることを考えれば、接近してきたマーニャはかなりの大型だ。かつての地球にはシロナガスクジラという生物がいたという。数多ある古代の伝説の中でも、この生物だけが特に語られていたのはその大きさと神秘性によるものだろう。それの体長がだいたい20メートルだという。このマーニャは、その十倍はありそうだ。
『ブルルルルウウン』
マーニャの鳴き声が砂海に響いた。背びれがゆっくりと向きを変え――否、ゆっくりに見えるのは双方がかなりのスピードで移動しているからだ。マーニャの旋回は凄まじい速度で行われているはずである。その背びれがナンディの横に来るように進行方向を変え、並走する。そこからゆっくりと地面の砂が盛り上がっていく。この間もナンディは走り続けている。砂の地面は猛スピードで後ろに流れていくが、盛り上がる砂の山はずっと同じ間隔で横に居続け、そのまま高くなっていく。
「この距離でも少し怖いですね」
マーニャが砂を泳ぎながら顔を出して挨拶しようとしているのだ。驚くべきことに、これだけの巨体が猛スピードで砂の海を泳ぎ、顔を出そうとしているのに、砂埃が空に舞う様子は見られない。ただ流砂のごとく流れていくだけだ。マーニャの砂泳能力がどれほど凄まじいかが分かろうというものだ。
ついに砂の中から背びれと同じ色の肌が現れる。滑らかで、緩やかな丸みを持った大きな顔の横側に、大きくてつぶらな瞳が見える。砂の中を泳ぐのに、この目はいったい何に使うのだろうか。もしかしたら目のように見えるだけで別の器官なのかもしれない。背びれしか地上に出していないのに遥か先からナンディの太陽と船のマークを見つけて近づいてきたのだ。視覚を司る器官は背びれの先にあるのだろうか。さながら潜水艦の潜望鏡だ。潜水艦はこの星にも存在するが、実物を見たことはない。水の海があるのも遥か遠くの空の下だ。なお潜砂艦というものはない。人間が砂の中に潜っても良いことはないからだ。
『ブルルルルウウン』
「こんにちは、マーニャさん!」
挨拶の鳴き声に、こちらもスピーカーを使って挨拶を返した。マーニャがなぜ人間に好意的なのかは分からない。近づいても餌を与えたりすることもない。そもそもマーニャが何を食べているのかも人類は知らずにいる。だが、マーニャはいつも人間の姿を見つけると傷つけないように距離を取り、人間を襲うプアリム達を追い払ってくれる。大天回教のシンボルを見つければ、このように挨拶をしに近寄ってきたりもする。となれば大天回教はマーニャに何らかの利益をもたらす存在であるはずなのだが、聖教徒と呼ばれるそれなりに位の高い教団員であるミスティカにも、そのような情報は何一つ知らされていない。人間の友であるマーニャに懐かれるような事情だ、秘密にするようなことではないはずなのだが。
何はともあれ、マーニャとの砂海上のランデブーはミスティカの気持ちを穏やかにし、危険な砂海賊やプアリムを遠ざけ安全な旅にしてくれた。わずか一時間ほどの並走だったが、なんとも心地良い時間だった。
宿を取ると、部屋で教典の『悪魔の樹木』についての記述を読み返す。かつて邪教徒達が植えた悪魔の樹木は堕落の実をつけ天使の怒りを買った。そのために大地は破壊されて砂の海に変わった。おかしい。なぜ今までこのおかしさに気付いていなかったのだろう。人々に優しい笑顔を向けながら、その裏で年端も行かない子供の教徒を虐待していた教主の行いを知って教団に疑問を持つまで、この記述を疑うこともなく真実だと思って過ごしてきた。
邪教徒が悪魔の樹木を植え増やす前の星がいったいどのような姿だったのか、一切語られていない不自然さに気付かずに。
「……悪魔の樹木は、邪教徒が植えたものではなかった。きっと元からこの星に生えていた植物――原生植物のことなのでしょう。そう考えれば、あらゆる植物をヒステリックに排除する教団の姿勢に説明がつきます」
生産プラント以外の場所で初めて植物に触れ、恐怖を感じたことで頭に浮かんだ仮説。では、なぜ教団がそこまでこの星の原生植物を忌避するのか。知られては困る事情があるのだろうか。最も容易に想像できた理由は大天回教がこの星を砂漠の星に変えたというものだ。だがそれだけでは植物を忌避することの説明がつかない。砂漠の星に変えた理由がなければ、そしてそれは原生植物が増えることで明らかになるものでなければ。
「ただ頭の中で考えていても答えは見つかりそうにありませんね。やはり過去の歴史を探るのが一番の近道でしょう」
ため息を一つつき、教典を閉じる。考えていても仕方がない、当初の目的地である国境近くの遺構を目指そうと決めてベッドに横たわる。この町は居心地が悪い。どこに行っても英雄扱いだし、水場の周りは草だらけだ。明日の朝になったらすぐに出発しよう。そんなことを考えているうちに、瞼が重くなる。思い返せば、初めての戦闘から昼夜通してろくに休まず砂漠を走ってきた。ナンディの操縦席は快適だが、やはりベッドの上とは違う。それに今日はプアリムや植物に接近して緊張した。疲れがたまっていて当然だ。目を閉じると、心地良い眠気に誘われて自然と意識が遠のいていった。
「聖教徒様の旅路に幸多からんことを!」
町の住民から熱烈な見送りを受けて出発する。いい加減に愛想笑いも疲れた。来るときは人恋しかったのに、今はやっと一人になれた開放感で一杯だ。ある意味、いい気分転換になったのだろう。広大な砂の海を国境へ向けて走り続けた。
『前方約4000、巨大な生物の接近を確認。行動パターンよりマーニャと推測されます』
「マーニャですか。ではそのまま進みましょう」
砂漠で接近してくるのは敵ばかりではない。この一面砂の世界で最大の人間の友、それがマーニャだ。
しばらく進むと、砂から飛び出す大きな黒い背びれが見えた。地上部分の三角形だけで、ナンディのゆうに三倍はある。ナンディ自体も大型のアルマであることを考えれば、接近してきたマーニャはかなりの大型だ。かつての地球にはシロナガスクジラという生物がいたという。数多ある古代の伝説の中でも、この生物だけが特に語られていたのはその大きさと神秘性によるものだろう。それの体長がだいたい20メートルだという。このマーニャは、その十倍はありそうだ。
『ブルルルルウウン』
マーニャの鳴き声が砂海に響いた。背びれがゆっくりと向きを変え――否、ゆっくりに見えるのは双方がかなりのスピードで移動しているからだ。マーニャの旋回は凄まじい速度で行われているはずである。その背びれがナンディの横に来るように進行方向を変え、並走する。そこからゆっくりと地面の砂が盛り上がっていく。この間もナンディは走り続けている。砂の地面は猛スピードで後ろに流れていくが、盛り上がる砂の山はずっと同じ間隔で横に居続け、そのまま高くなっていく。
「この距離でも少し怖いですね」
マーニャが砂を泳ぎながら顔を出して挨拶しようとしているのだ。驚くべきことに、これだけの巨体が猛スピードで砂の海を泳ぎ、顔を出そうとしているのに、砂埃が空に舞う様子は見られない。ただ流砂のごとく流れていくだけだ。マーニャの砂泳能力がどれほど凄まじいかが分かろうというものだ。
ついに砂の中から背びれと同じ色の肌が現れる。滑らかで、緩やかな丸みを持った大きな顔の横側に、大きくてつぶらな瞳が見える。砂の中を泳ぐのに、この目はいったい何に使うのだろうか。もしかしたら目のように見えるだけで別の器官なのかもしれない。背びれしか地上に出していないのに遥か先からナンディの太陽と船のマークを見つけて近づいてきたのだ。視覚を司る器官は背びれの先にあるのだろうか。さながら潜水艦の潜望鏡だ。潜水艦はこの星にも存在するが、実物を見たことはない。水の海があるのも遥か遠くの空の下だ。なお潜砂艦というものはない。人間が砂の中に潜っても良いことはないからだ。
『ブルルルルウウン』
「こんにちは、マーニャさん!」
挨拶の鳴き声に、こちらもスピーカーを使って挨拶を返した。マーニャがなぜ人間に好意的なのかは分からない。近づいても餌を与えたりすることもない。そもそもマーニャが何を食べているのかも人類は知らずにいる。だが、マーニャはいつも人間の姿を見つけると傷つけないように距離を取り、人間を襲うプアリム達を追い払ってくれる。大天回教のシンボルを見つければ、このように挨拶をしに近寄ってきたりもする。となれば大天回教はマーニャに何らかの利益をもたらす存在であるはずなのだが、聖教徒と呼ばれるそれなりに位の高い教団員であるミスティカにも、そのような情報は何一つ知らされていない。人間の友であるマーニャに懐かれるような事情だ、秘密にするようなことではないはずなのだが。
何はともあれ、マーニャとの砂海上のランデブーはミスティカの気持ちを穏やかにし、危険な砂海賊やプアリムを遠ざけ安全な旅にしてくれた。わずか一時間ほどの並走だったが、なんとも心地良い時間だった。