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作者: こむらまこと
第16話 横浜港の龍神〈四〉
 七色に明滅する夜光虫が漂う幻想的な空間を下ること、およそ10分。一行は、龍宮城が存在する幽世の海底に到着した。
 一行を先導していた潮路に続いて螺旋階段から出てきたまりかは、そこが龍宮城の前ではないことにすぐに気がついた。
「あれ? ここって、龍宮庭園ですよね」
 そう言って、キョロキョロと周囲を見渡す。
 一行が辿り着いたのは、現世うつしよの横浜の海では考えられない程に色鮮やかで美しい、まさに海の中の庭園とでも言うべきところだった。
 色とりどりの珊瑚やイソギンチャクはもちろんのこと、大小様々な魚やエビ、カニ、クラゲなどの海洋生物たちが、外敵のいない幽世の海でのんびりと過ごしている。中には、現世の海では絶滅の危機に瀕しているような貴重な生物の姿も見られ、さながら海洋生物たちの楽園とでも呼べる空間となっていた。
 問いかけるような視線を向けるまりかに対し、潮路があっけらかんと白状する。
「ええ。久しぶりに、お嬢様と共に庭園を散策したいと思い立ってしまいまして、つい」
 言いながら、片方の袖を前に伸ばす。
 念動力でも使ったのか、するするとひとりでに袖が捲られると、すらりとした青白い人間の腕が顔を覗かせた。
「蘇芳様には、内緒ですよ」
 人差し指をそっと、小さな唇に当てる。
 要するに、本来ならすぐにまりかを龍宮城に連れていくところを、まりかとの時間を少しでも楽しむために、わざとこの場所に〈門〉の出口を繋げたのだ。
「もう、潮路さんったら」
 側近らしからぬ潮路の好き勝手な振舞いに、まりかはついつい吹き出してしまう。
 潮路は穏やかで優しい性格をしているが、他方、頑固でこだわりが強く、自由気ままといった面も併せ持っている。
 まりかは、そんな潮路が子供の頃から大好きだった。
「では、参りましょう」
 潮路は、人間の腕をさっさと袖の中に隠して消してしまうと、一行を促して龍宮庭園の中を進み始めた。
「龍宮城なら、もうすぐそこだから」
 まりかは、後方をのたのたと歩くカナに声をかけてから、少し困ったような顔で明を見た。
「なんだか付き合わせてしまって、ごめんなさい」
「いえ、大丈夫です」
 明は手を振って短く答えたが、内心は別の意味で大丈夫では無かった。
(朝霧まりか……一体全体、何者なんだよ)
 龍神の側近と和やかに談笑しながら前を歩く女性海事代理士の横顔を、明は信じられない思いで凝視する。
 明がまりかの元を訪れた理由は、龍神に関する情報を少しでも得るためだった。それが、いざ蓋を開けてみれば、あろう事か龍神と師弟関係にあるという。しかも、側近との会話から察するに、その関係はどうやら幼少時から続いているらしい。
(そりゃあ、ガキの頃から幽世の海に出入りしてるなら、楽にできるのも当然だよな)
 思わず喉に手を添えながら、ここが海の中であることを極力意識しないように努める。
 東北地方の内陸部出身の明にとって、幽世の海中に生身で進入することは、常に緊張を伴う行為だった。幽世においては、物理法則よりも意志の力が重要となる。だから、その気になれば海の上を歩くことも、海の底に酸素ボンベ無しで長時間滞在することも、理論上は十分に可能である。
 とはいえ、実際には口で言うほど容易いことではない。いざ、幽世の海の底を歩いてみようとしても、水の中では呼吸ができないなどといった「常識」が、どうしても邪魔をしようとしてくる。だから、幽世の海で活動するには、それなりに経験を重ねる必要があった。
(多少は慣れてきたけど、あんな風に肩の力を抜いて雑談するのはまだ難しそうだな)
 ここで明は、隣を歩く少女のことを思い出す。
(今更だけど、この子は幽世の海なんか入って大丈夫なのか?)
 また機嫌を悪くするだろうと考え、カナに気がつかれないように、そっと横目で様子を伺ってみる。
「……」
 カナは、目深に被っていたカエルのフードを取っ払っていた。まりかと潮路の会話を聞いているのかいないのか、のんびりと周囲の美しい眺めを楽しんでいる。
(この子はこの子で、かなり謎なんだよな)
 長い白髪に、褐色の肌。金色の瞳と、全身を覆う青色の入れ墨。朝霧まりかとの血縁関係は無いか、あってもかなりの遠縁と思われるので、やはり霊力が強い知人の子供を何らかの理由で預かっているといったところだろう。
(でも、上手く言えないんだけど、なんか違和感があるんだよなあ)
 明はもう一度、チラリとカナを盗み見る。
(もしかして〈異形〉なのかも)
 明は、同じ海洋怪異対策室に所属する〈異形〉の先輩のことを思い浮かべる。口で表現するのは難しいが、〈異形〉の雰囲気は普通の人間のそれとは少し違う。それはおそらく、その存在が怪異、ひいては幽世に近いためだろう。
 その〈異形〉と、カナという少女が纏う異様な存在感が似ているような気もしたのだが、それでも明は、今一つしっくりこなかった。
 そんなことを考えているうちに、一行はいつの間にか龍宮城の門の前に到着していた。明にとっては、つい数時間前に訪れたばかりの場所である。
「カナ、これが横浜港の龍宮城よ」
「ふむ。これはなかなか、結構な住まいじゃな」
 カナが、感心した様子で龍宮城を見上げている。それにつられるように、明も改めて龍宮城の外観を見渡してみた。
 龍宮城から受ける全体的な印象は、中華風の建築物が少し和風に寄ったというものである。高校時代に修学旅行で訪れた沖縄の首里城に、似ていなくもない。
 明はそのまま、はるか遠い幽世の海面を見上げてみた。具体的な深度は不明だが、少なくとも100m以上はあるような気がする。これが現世の海ならば日中でももっと暗いはずなのだが、ここは幽世。人知を超えた力により、昼間の浅瀬と同じくらいの明るさを保っていた。
(俺は今、現世でいうとどの辺りに居るんだろう)
 ふとそう思ったが、すぐに意味の無い疑問であると頭の中から打ち消す。
 ここは、龍宮城が存在する、幽世の深部。現世と幽世との空間的な隔たりは、陸上や浅い海とは比較にならないほど大きいとされる。もしも、こんな場所で現世に「浮上」しようものなら、どこに出るのか分かったものでは無い。もっとも、そんなことをしようものなら、即座に水圧に潰されて終わりである。正確な浮上先の調査など、永遠に不可能だろう。
 明が顔を前に戻すと、ちょうど潮路が、瓦葺きの仰々しい門に近づくところだった。
「カナ様、菊池様。ようこそ、龍宮城へ」
 潮路が改まった口調で、カナと明の両名に対して丁寧にお辞儀をする。
 そして、少し困ったような笑みを浮かべて、まりかを見た。
「お嬢様。蘇芳様が、大変首を長くしてお待ちいたしております」
「……少し頭が痛くなってきたわ」
 まりかが、本当に頭痛がするかのように額に軽く手を当てる。
「どうした? 蘇芳というのは、お前さんの師匠なのじゃろう?」
「すぐに分かるわ」
 怪訝そうに訊ねるカナに、まりかは門を見たまま短く返した。
「蘇芳様。お嬢様を、お連れしました」
 潮路が、上品さを損なわない程度にハキハキとした声で、門の向こう側に呼びかける。
 重量感のある観音開きの門が、音もなく、独りでに開いていく。
(いよいよだな)
 明が、拳を握り締めてゴクリと唾を飲み込む。
 大人の手のひらほどの隙間が、門扉と門扉の間にできた時だった。
「まーりかー!! 待ちくたびれたぞーー!」
 成人男性のおちゃらけた声が大音量で響き渡ると同時に、かなりの重さがあるはずの門扉が一瞬にして全開となる。
「ぬお!?」
「っ!?」
「ああ、もう……」
「あらあら」
 突如として目の前に現れた龍神に対し、4人はそれぞれ違った反応を見せた。カナは驚き、明は固まり、まりかはため息をついて、そして潮路は微笑んだ。
「あの、蘇芳様」
「聞いたぞ、まりか! 余の力が遠く及ばぬ海で、怨霊と一戦を交えたそうではないか! お前という娘は、なんという危険なことをしでかすのか!」
 しかめっ面で一気にまくし立てると、今度は一転して、フニャリと表情筋を緩めてまりかをベタ褒めし始める。
「じゃがまあ、見事に撃退したそうじゃな。さすがは、まりか! 余は誇らしいぞ! こんなに大きく育って、この蘇芳、何も思い残すことは……くうっ!」
 そして、その逞しい腕で大袈裟に涙を拭って見せた。
「蘇芳様。お亡くなりになられては、我ら横浜の妖たちが困ってしまいますゆえ」
 潮路が微笑みを浮かべたまま、主人に対して至極真っ当な意見を述べる。
「ええい! 言葉の綾じゃろうが! いちいち水を差すでない!」
「蘇芳様。お客様がお待ちですよ」
 あまりにも傍若無人な蘇芳の振る舞いに対し、潮路はあくまで素っ気ない態度を貫く。
「ほお、客だと?」
 蘇芳が、ようやくカナと明の存在に気がついた。
 そして、その輝くような黄金こがね色の鋭い瞳が、明の姿を捉える。
「……男」
 蘇芳が、ボソリと呟いた。
 漏れ出た言葉の意味を掴みかねた一同は、とりあえず無言のまま、蘇芳の次の言葉を待つ。
 次の瞬間。
「男ーーーーっ!」
 蘇芳が、絶叫した。
 その大音量は、さながら稲妻のように、幽世の海をビリビリと震わせる。
「まりかがっ! 男を連れてきたーっ! 許すまじ!」
「へ?」
「違います! 落ち着いてください!」
「成敗してくれるわっ!」
 まりかの制止も聞かず、明に飛びかかろうとする蘇芳。
 しかし、その動きは、ある者によって即座に封じられる。
「ええい! 黒瀬くろせよ、離さんか!」
 蘇芳が拳を振り回しながら、バタバタと身を捩った。
「蘇芳様が頭を冷やされましたら、解放いたしますぞ」
 黒瀬と呼ばれた異相の老人が、背後から蘇芳の腰をガッチリと締め上げている。
「今すぐ離せいっ!」
 蘇芳は更に暴れたが、黒瀬は無言のまま、ますます腕に力を込めるのみである。
「それじゃあ、私たちは先に入って待ってましょうか」
 まりかが、あっけらかんとした笑顔で門の横にある通用口を開けた。
「大丈夫なのか?」
 通用口に手をかけながら、カナが訊ねた。門の前ですったもんだの大騒動を演じる龍神を、かなりのドン引き顔で見つめている。
「大丈夫よ。潮路さんと黒瀬さんがしっかり宥めてくれるから。あ、黒瀬さんもね、潮路さんと同じ側近なの」
「そうか」
 カナは、救いようがないとでもいうように小さく首を振ると、まりかに続いて通用口を抜けた。
 明も同じく、龍神に襲いかかられないうちにさっさと通用口を抜けてしまうことにする。
(もしかして、とんでもない存在に目をつけられちまったのかも)
 まりかを先頭に建物内を進みながら、不祥事の後始末のために龍神に敵視される羽目になったことについて、つらりつらりと考えてみる。
(損な役回りと思うのは簡単だけど、ここは貴重な経験ができて良かったと考えるべきなんだろうな、多分)
 事の発端はともかくとして、海上保安庁において、死と隣り合わせの状況下で任務を遂行する状況が生じるのは、何も海洋怪異対策室に限った話ではない。むしろ、特殊救難隊や機動救難士たちのことを考えれば、〈海異〉への対応など、比較をするのが失礼なくらい楽な任務であるとも思う。
 そういうわけで明は、組織で働く人間の悲しき宿命について、前向きに捉えることにしたのだった。



 およそ30分後。
 だだっ広い板敷の広間にて、まりかとカナ、そして明は、龍神・蘇芳と改めて向き合っていた。
 蘇芳の両脇には、側近である潮路と黒瀬が控え、主に潮路の進行により、その場の面々は1人ずつ簡単な自己紹介を済ませていく。
 最後に明が、龍神や側近たちに対して、これまでの経緯をかいつまんで説明した。
「なーんだ、さっきの小僧か。とんだ怒り損だったわい」
 明が話し終えた途端、蘇芳が盛大な悪態をついた。
「まりか以外の人間の顔なんぞ、いちいち覚えとらんからな。悪く思うでないぞ」
 籠のような形をしたラタン調の寝椅子でだらしなく寛ぎながら、全く悪びれていない顔で言ってのける。
 蘇芳の外見は、完全に人間のそれだった。ただし、その名が表す通りの蘇芳色の髪と、軽く200cmは超えるだろう高身長については、ある意味人間離れしていると言えるかもしれない。
 おそらく膝以上の長さはありそうな美しい蘇芳色の髪は、金銀に輝く髪飾りを贅沢に使って、ざっくりと纏められている。服装は、中華風と呼べなくもなかったが、多分この龍宮城の独自のものだろう。
 何故なら、いっそ脱げば良いのではと突っ込みたくなるくらい、胸から腹にかけてが大きく開いているのだ。そして、首から下がる宝飾類が、ただでさえ逞しい胸筋を更に盛り立てている。
 明は、美丈夫という言葉が相応しい龍神・蘇芳の顔を見据えると、単刀直入に切り込んだ。
「つきましては、拳銃を返却していただくことは可能でありましょうか」
 本来ならば、形式ばった口上を長々と述べてから本題に入るべきところなのだろう。しかし、この龍神に対して礼儀を尽くすことに、果たしてどれほどの意味があるのか甚だしく疑問であるとの思いが、明の自己防衛本能を侵食しつつある。
 つまり、菊池明は半ばヤケクソになっていた。
 そんな明に対し、しかし蘇芳は大して関心を持っていないらしい。小さな欠伸をひとつすると、パタパタと片手を振った。
「まあ、そうじゃな。ここは、小僧の頼みを聞いてやらんこともないぞ」
「ほ、本当ですかっ」
 思わぬ返答に、明はつい前のめりになって問い返す。
「いや、待て」
 しかし、すぐに蘇芳が己の言葉を打ち消した。
「へっ?」
 戸惑う明を放置したまま、蘇芳は明後日の方向をぼうっと眺めて、トントンと額を人差し指で叩き始める。
「この数日というもの、なーんか忘れとるような気がしてのう」
 トン、トン、トン、トン。
 トンッ。
「あ」
 ふいに、蘇芳が上半身を起こした。
 それから、眉間に激しく皺を寄せて、何故か明の顔をまじまじと見つめる。
「あの、蘇芳様」
 まりかが、少し不安そうに蘇芳に呼びかけた。
 潮路と黒瀬も、主君の不可解な挙動に怪訝そうな表情を浮かべている。
 当の明はというと、まるで蛇に睨まれたカエルのような心持ちで、目を逸らすこともできず、背に冷や汗を伝わせながら龍神の強烈な視線を全身全霊で受け止めていた。
 そして、たっぷりと1分は経過した頃。
「おお! ようやっと、思い出したぞ」
 そう小さく叫ぶと、パチンと指を鳴らした。
「!?」
 直後、明と蘇芳の間に、一振ひとふり直刀ちょくとうが出現する。
「か、刀!?」
 その直刀がゆっくりと、明に向かって下降する。
 明が思わず両手を差し出すと、直刀はそのまま両手の中に収まった。
「人の子、菊池明よ。汝に命ずる」
 更に戸惑う明に対し、これまでとはまるで別人のような風格と厳粛さを漂わせて、蘇芳がそれを告げる。
「遥か遠方、余の勢力圏の辺境に位置する岩礁地帯に赴くがよい。そして、一体の凶暴化した怪異を退治せよ。さすれば、汝の望みを叶えようぞ」
 蘇芳が口を閉じると、広間に沈黙が下りた。
 明は、蘇芳の黄金色の瞳から目を離せぬまま、直刀に触れる自分の指が酷く冷ややかであることを、どこか遠くの出来事のように感じている。


 この時の明には、運命の歯車がとっくに回り始めていたことなど、知る由もなかった。
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