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作者: こむらまこと
第7話 妖コンサートin横浜大さん橋〈ニ〉
「そういうわけで、氷川丸は戦前に建造され現存する、唯一の貨客船ということになるのよ」
「ふむ」
「ちなみに、向こうに日本丸という帆船がいるんだけどね、面白いことにこの氷川丸と同い年なの。今度連れてってあげるから」
「そうか」
 心底楽しそうに船の話をするまりかと、神妙な顔つきで氷川丸の船体を眺めるカナ。ふたりは今、山下公園内の特設桟橋に係留されている氷川丸の前に立っている。本来なら入館料を払ってガッツリ船内を見学しているところなのだが、事情が事情なので、こうして外側から船の歴史を解説するに留めることにしたのだ。
 そして、かれこれ20分以上、氷川丸の生涯について話し続けている。
「それとね、あっ」
 ここで、まりかがしまったという顔をした。
「喋りすぎちゃったわね、ごめんなさい。船の話ができると思ったら、ついつい熱が入っちゃって」
 手を合わせて謝罪をする。
「ん? まあ確かに長話じゃったが、これしきのこと気にするでない」
 意外なことに、カナは不快には思っていないようだった。顎に手を当てて氷川丸を凝視している。
「正直なところ、お前さんの説明を全て理解しきれたわけではないがな。だが、こやつが只者ではないことなら分かるぞ」
 おもむろに氷川丸に手をかざすと、スウッと目を細める。
「あと数年もすれば、大きな力を持つ付喪神と相成るじゃろうて」
「そうよ、それ! 私が一番伝えたかったのはその事なのよ!」
 船の寿命は、大きさや種類によって変わるものの、30年も動き続けていれば長命だと言われ、代替船を用意して廃船にするか、中古船として海外に売り払うなどという話も出てくる。そんな中、貨客船としての役割は終えているとはいえ、竣工から90年以上経った今もなお海に浮かんだ状態で保存されている氷川丸は、とても稀有な存在なのである。
 そのことを、まりかは嬉々としてカナに語ってみせた。
「だから、すごく楽しみにしてるのよ。付喪神と成ったこの子に会うことを」
 どんな姿形をしているのか、会ったら何を話そうか。ここへ立ち寄る度に、そんなことを考えるのだと。
 束の間、ふたりは静かに氷川丸を眺める。
 黒い船体に、白地に赤い二本線のファンネルマークが描かれた黒い化粧煙突。氷川丸から伸びる係留鎖には、氷川丸の苦難と栄光の歴史など知る由もなく、たくさんのカモメたちがズラリと並んでのんびり羽を休めている。
 カナがニッと笑った。
「確かに、こやつは面白い存在になりそうじゃ。見事に付喪神と成った暁には、是非とも手合わせ願いたいものじゃな」
「はあっ!?」
 まりかが呆れと驚き混じりの声を上げる。
「物騒なことを言わないでちょうだい。ここは人間の街なんだし、わざわざ荒っぽい真似を教える必要なんてないでしょ」
「それはこやつ次第じゃろうて。案外、好戦的な性格かもしれぬぞ」
「さすがに、好戦的にはならないんじゃないかしら?」
「まだ見ぬ付喪神の性格なんぞ、どのように考えたって良いじゃろうが」
「た、確かにそれは、そうだけど」
 もっともな意見に、まりかは気恥しさを感じてもごもごと口ごもった。
 氷川丸の付喪神についての想像力を広げすぎていたことに、たった今初めて気がついたのだ。私生活において自分以外の誰かと船の話をすることがほとんど無いため、まりかの脳内には船に関する雑多な思考の産物が山のように蓄積されている。
 そのまま口を閉ざしてしまったまりかに、カナは何も言わないことにした。さっきの失言と同じ轍を踏むほど愚かではない。
 ふたりの間に微妙な空気が漂い始めたところで、背後からまりかに声がかかった。
「おいおい、付喪神ならここにいるじゃないか」
「っ! すばるさん!」
 救われたような思いで、息を弾ませて昴と呼んだ青年の元に駆け寄る。
「お久しぶりです。お元気でしたか」
「ああ、変わりなしだよ。まりかも元気そうで良かった」
「この後すぐに、昴さんを探しに行こうと思ってたんですよ」
「ははっ、ゴメンゴメン」
 昴と軽く言葉を交わした後、まりかはカナに向き直った。
「紹介するわ。この人も付喪神なの」
「付喪神の昴です」
 昴はカナに向かって軽くお辞儀をすると、不思議なものを見るような目をカナに向け、しかしすぐに元の穏やかな表情に戻った。
「カナじゃ」
 短くそう答える。いかにも相手に興味が無いという態度をとっているが、その目は油断なく昴を観察している。
 昴は、いわゆる書生風の格好をしていた。白いスタンドカラーにかすりの着物と馬乗り袴、足元は下駄履きで、顔には丸メガネをかけている。背丈はまりかよりも高いが威圧感は全くなく、いかにも優男といった風貌である。
 カナがふうっと息を吐いた。
「それなりに大物のようじゃな。何の付喪神なんじゃ」
「ちょっと、そんな言い方失礼でしょ」
 すかさず、まりかがカナの態度を窘める。
「大丈夫だよ、まりか」
 昴は安心させるように手を振ってまりかに笑いかけると、カナに向き直った。
「ここで説明するより、見てもらった方が早い。すぐそこだから案内するよ」
「すみません、昴さん」
 まりかが、恐縮しながら少しだけ昴に近寄る。
「カナさんももう少し寄った方が」
「いや、そのままでいい」
 昴はニコリと笑って片手を上げると、ふわりと柔らかな薄い布を広げるように腕を動かした 。
 次の瞬間、3人は氷川丸の船首横に移動していた。本来ならば、進入禁止になっている区域である。
 昴が背後を示した。
「ほら、これが僕だ」
「ほほう、これか」
 背後に鎮座する白い灯台を見上げて、カナが感心したような声を上げた。
 旧横浜東水堤ひがしすいてい灯台。それが、付喪神・昴の本体の名前である。120年以上前に横浜港の出入り口を示す防波堤灯台として築かれたが、その後、諸般の事情により記念灯台として氷川丸の横に移設保存された。昴が付喪神として顕現したのは、それから30年以上も後のことである。
「だから、防波堤灯台として存在していた時の記憶は、ぼんやりとしたものしか残っていない」
 昴が、少しだけ寂しそうに笑う。
「人間の街に近いこの場所で余生を送るのも、それはそれで楽しいんだ。それでも、本来の役割を務め続けたかったという想いは、まだ残ってる」
 そう言って、自身の本体を振り仰ぐ。
 旧横浜東水堤灯台は、白灯台の愛称で親しまれている。高さは約15mで、六角柱と六角錐を合わせた形をしている。最上部は帽子を被せたようなドーム型で、側面には小さな出窓がいくつか付いている。小さい頃のまりかは、まるで絵本の中に出てくる小さなお家のようだと常々思っていたものだ。
「なるほどのう」
 カナが顎に手を当てて、何やらふむふむと頷いている。
「どうりで存在感の割に覇気が欠けとると思うたわ。本来の用途で使われておらんのなら、妖力が満たされぬのは当然じゃな」
「その発言は無神経だと思うわ」
「本当のことじゃろう」
  すかさず厳しく指摘してみたものの、カナは全く意に介していない。
 まりかは頭に手を当ててため息をついた。
(昴さんに会わせたのは間違いだったかしら)
 とはいえ、今更後悔しても遅い。
 まりかはそれ以上は反論せず、苦笑しながらふたりのやり取りを聞いている昴に向かって両手でガッツポーズをした。
「私は、昴さんと昴さんの本体、どちらも今のままでも十分に素敵だと思ってますから」
 昴は目をパチクリさせると、クスリと笑ってまりかの頭を撫でた。
「まりかにそう言って貰えるだけでも、付喪神冥利に尽きるというものだよ」
「もう、子供扱いしないでください」
 まりかは慌てて昴の手から逃れた。長き時を生き抜いてきた昴から見れば、まりかが子供に思えるのは無理もないことは理解できる。しかし、一端いっぱしの社会人であるまりかとしては、それに甘んじる訳にはいかないのだ。
「ああ、ごめん」
 昴は素直に謝ると、ふたりのやり取りを見て何かを言いたそうにしているカナを見据えた。
「確かに貴方は正しい。防波堤灯台としての役割を終えて久しい僕に、それほど大きな妖力はない。だから、これから僕の片割れを紹介するよ」
 そう言って氷川丸側に片手を伸ばし、宙を撫でるようにして手をかざす。
「ええっ、北斗さんに会わせるつもりですか!?」
 慌ててまりかが確認する。
「ああ。この国最古の防波堤灯台の付喪神たる存在が、僕程度の実力しか無いと思われたままなのは癪だからね」
 にこやかな笑みを浮かべつつも、チラリと鋭い一瞥をカナに投げかける。
「話が見えんぞ。どういうことじゃ」
 カナが、眉間に皺を寄せながらまりかに訊ねた。
「昴さんは、赤白一対で築かれた防波堤灯台のうちの白灯台。設置場所も役割も変わってしまった昴さんと違って、もう一方の赤灯台は、今も同じ場所で稼働し続けているのよ」
 早口でカナに説明し終えると、再び昴に顔を向ける。
「北斗さんにカナさんを会わせたら、大変なことになるんじゃ」
「大丈夫だよ。北斗のやつだって、昔よりは自制が利くようになってるから」
 昴はそう答えると、手をかざした先の空間を見つめ、口の中で小さく何かを唱えた。
 空間が蜃気楼のようにゆらぐ。
 ゆらいだ像がぐにゃりと渦を巻き、そして雲散霧消する。
 気がつくと、そこには全く違う場所の景色が出現していた。海へと細長く伸びる防波堤の先に、赤色の灯台が鎮座しているのが見える。
「さあ、どうぞ」
 なんということはない表情で、横に開いた〈門〉を潜るように、まりかとカナを促す。
「では、失礼します」
 最初にまりかが〈門〉を潜り抜ける。
「ふん、そこそこ出来るようじゃな」
 カナが鼻を鳴らしながら、まりかの後に続く。
「うおっと」
 防波堤に降り立ったカナの身体を 、潮風が強く叩いた。海のど真ん中へと伸びるこの場所は、陸地よりもずっと風が強いのだ。
「大丈夫? 落ちたら危ないし、風を弱めてもらうよう頼んでみましょうか」
 強風の中、まりかは相変わらず平然と立っている。
 あらゆる時と場所において、風はまりかの味方だ。そのことがよく分かっているだけに、この点においては自分が優位に立てないことに、ほんの僅かであるものの悔しさを覚えてしまう。
「馬鹿にするでないっ。連中に助力を求めるほど落ちぶれとらんわい。それ以前に、人魚が海に落ちて危ないなんてことがあるわけないじゃろうが」
 カナはそっぽを向いてまりかの申し出を断った。
「カナさんならそう言うと思った。行きましょう、昴さん」
「ああ」
 昴を先頭に、3人は防波堤の突端に向かって歩き出す。
 ほどなくして、まりかが昴に話しかけた。
「あのふたり、またやってますね」
「全く、相変わらずだよ」
 その言葉とは裏腹に、昴は安心したような表情を浮かべている。
「あれは猩々しょうじょうじゃな」
 カナが後ろから首を伸ばして、灯台の根元を確認する。
 昴が〈門〉を開いた時点で赤灯台のそばにふたつの人影があるのは見えていたのだが、ある程度近づくまでは片方の正体が分からなかった。最も、昴とまりかにはおおよその見当がついており、たった今それが正しかったことが判明したのであるが。
「ありゃあ、なんじゃ? よう分からんが、碌でもないことをしとる気はするぞ」
「悔しいけど、否定できないわね」
「これに関しては、全くもってその通りと言わざるを得ません」
 カナのずけずけとした物言いに、ふたりはあっさりと同調する。
「それでも、最近はただのゲームで済ますことも多くなってきたから」
「一時期は凄かったですよね」
「あの時はもう大変だったよ」
 うんうんと頷き合いながら思い出に耽る、昴とまりか。
「おい、わしの知らん話をするでない!」
「ああ、これはとんだ失礼を」
 自分の知らない世界に入っていこうとするふたりに、カナが癇癪を起こした。
「拗ねなくたって良いじゃない」
「別に拗ねとらんわっ」
「ほら、もう着くわよ」
 ぷうっと頬を膨らませたカナには頓着せず、まりかは昴を追い越して赤灯台の根元に駆け寄った。
「お久しぶりです、北斗さん。それに、おじさんも」
「おう、まりかじゃねえか!」
「久しいのう、まりか」
 名を呼ばれたふたりは手を止めて顔を上げ、まりかを見て破顔する。
 ひとりは、目的の人物である昴の片割れの付喪神。もうひとりは、この海に住む猩々だった。
 目が覚めるような鮮やかな赤色の蓬髪に、くたびれた赤い小袖と白い股引という風貌の猩々は、来客の邪魔をする気は無いらしく、軽く手を挙げて後方に退くと、海を眺めつつ、腰に提げていた源蔵徳利の中身をチビチビと呑み始めた。
 北斗と呼ばれた付喪神は、手に持った茶碗とサイコロを片手でクルクル回してどこかへ仕舞い込んだ。
「なんだ、昴のやつも一緒か」
「北斗、また丁半やってたの?」
「良いじゃねえか、何にも賭けてねえんだし」
「そう、それなら良いけど」
「てめえは俺のおふくろかよ」
「分かったよ、もう言わないって」
 昴は軽くため息をついた。一方の北斗は、棘のある言葉とは裏腹に、昴やまりかの来訪にソワソワと浮き足立つような様子を見せている。
「ん? 今日はもうひとりいるな」
 ここでようやく、北斗の視線がカナを捉えた。
 昴は前に出ると、カナと北斗を交互に見ながら口を開く。
「では、カナさん。改めて紹介するよ。こいつが横浜北水堤きたすいてい灯台の付喪神、北斗だ」
「うむ、カナじゃ」
 相変わらず、カナの自己紹介は短い。一瞬、妙な沈黙がその場に降りる。
 北斗がじろりと、カナを睨みつけた。
「なんだあ、その妙ちきりんな人魚は」
 カナはそんな北斗には構わず、勝手にひとりで納得している。
「なるほどのう。確かに、そこの昴とやらとは全く似ておらんわ」
 カナの言う通り、同時に建造された赤白一対の防波堤灯台の付喪神でありながら、昴と北斗が醸し出す雰囲気はまるで違っていた。顔立ちと背丈、それから下駄履きなのは同じなのだが、昴の書生風の服に対し、北斗が身に纏うのは着流しのみで、眼鏡もかけていない。その油断ならぬ鋭い眼光は、昴が持つ柔らかさとは余りにも対照的である。
 カナはふむふむと頷きながら、北斗の本体である赤灯台を眺め渡す。赤灯台の外観に関しては、赤塗りなことを除けば白灯台とほぼ同じである。しかし、その灯器には、白灯台が何十年も前に失った光が確かに灯っていた。現在はLED光源となったその規則的な明滅は、夜闇を往く船の安全を休みなく護り続けている。
「そこの小僧とは違って、よう力が漲っておる。やはり付喪神たるもの、より良く人間に使われねば甲斐がないというものじゃな」
「あんだとっ」
 カナの言葉に、何故か昴ではなく北斗が激昂して立ち上がった。そのままズカズカとカナに詰め寄っていく。
「落ち着いて、北斗」
「北斗さん」
 まりかと昴が間に割って入った。ふたりは素早く目配せを交わす。
「そうだ、私がカナさんのこと紹介してあげるから。昴さんもまだ聞いてなかったでしょ?」
 笑顔で北斗を押しとどめながら、昴に話を振る。
「そうだ、僕も聞きたいと思ってたんだよ。北斗、せっかくまりかが話してくれるのだから、ここはひとまず落ち着こう」
 昴が曇りなき笑顔を北斗に向ける。
 北斗は、昴とまりかを見ながら少し考え込むと、カナから距離を取ってその場に胡坐した。
「まりかの頼みなら聞くしかねえな。いいぜ、その間は大人しくしておいてやる」
 そう言いながらも、険しい顔でカナを睨み続けている。対するカナは、完全に高みの見物を決め込んだかのような余裕のある笑みを浮かべて、北斗の視線を受け止めている。
 まりかは、やれやれと心の中で呆れながらも、離れたところで酒をあおる猩々に声をかけた。
「せっかくだから、おじさんも一緒に聞いてよ。結構、面白い話だと思うわよ」
「そうか? ならば、遠慮なく」
 さっきからこちらが気になっていたらしく、まりかの誘いにぴょんと飛び跳ねて嬉しさを表す。
 猩々の大きさは、ほとんどの場合が年齢1桁の子供程度しかない。それに反し、その声は紛れもない成人男性のものであるため、よく知らぬ者にとってはちぐはぐな印象が強い妖である。加えて、蓬髪により顔の大部分が隠れているため、何を考えているのかよく分からないなどとも評されることもしばしばだった。
 まりかからすれば、酒と踊りがとても大好きな、人好きのするただの陽気な「おじさん」なのだが。
 まりかがコホンと咳払いをした。
「カナさんとは、伊豆大島で出会ったんです」
 こうして、横浜港のど真ん中、潮風吹き荒ぶ防波堤の先端で、まりかとカナの出会いのいきさつが語られることとなった。老人から依頼を受けて伊豆大島を訪れ、海難法師と対峙し、そしてカナと遭遇するまでの流れを簡潔に説明する。話の後半から何度かカナが口を挟んできたものの、概ね滞りなく話を終えることができた。
「なるほどなあ」
 しばらく黙考した後、北斗がボソリと呟く。
「新しい友達なのかなとは思ってたけど、まさか一緒に住んでるなんて」
 昴が目を丸くしている。
(と、友達なんて)
 一瞬だけまりかは、自分とカナの関係性に対する昴の認識を訂正しようと考え、そしてすぐに止めた。ムキになって言葉尻を捉えるようなことすれば、カナになんと思われるか分かったものではない。
 とはいえせっかくの機会なので、ここは厄介な同居人への当てこすりをしておくことにする。
「一緒に住むというより、まるで手のかかる親戚の子供を預かっているような気分ですね」
 まりかには親戚付き合いというものの経験は全く無いのだが、それはひとまず脇に置いておく。
「何を言うか!」
 案の定、カナが拳を振り回して反論してきた。
「わしはな、こんなにデカい人間の街で暮らすのは初めてなんじゃ! 部屋の中にあるものも訳が分からん物ばかりじゃし、少しくらい多目に見るべきじゃろうが!」
「だからって、勝手にあれこれいじくり回して良い理由にはならないでしょ。それに、全っ然服も着てくれないし!」
「今こうして着てやってるじゃろうが!」
「生憎だけど、次は違う服を着てもらうからね」
「なっ!?」
 まるで奈落の底に突き落とされたかのようにショックを受けるカナ。まりかは少しだけ愉快な気分になる。
「仲が良さそうで安心したよ」
 ふたりのやり取りを見て、昴が微笑んだ。どこをどう見たら仲良く見えるのか甚だ疑問だったが、更にややこしいことになる予感がしたので、突っ込むのは止めておいた。
「まりかが良いっつうなら、俺はもう何にも言わねえさ」
 北斗が渋々といった体で、カナの存在を許容した。未だに険しい目つきでカナを睨んではいるものの、もう喧嘩をふっかける気は無さそうである。
「なんじゃい、せっかく手合わせできると思うたに」
「だから、ことある事に戦おうとしないでよ!」
 まりかはカナの背中を押して強引にその場から引き離した。
「では、そろそろお暇しようと思います」
「なんだ、もう行くのか」
「また別の機会に、ゆっくりお話しましょう」
「おう、まりかならいつでも大歓迎だぜ」
 北斗が崩した姿勢でヒラリと手を振る。
「それなら、僕が〈門〉を開くよ」
「すみません、わざわざ」
「いいって、このくらい」
 赤灯台が存在するこの横浜港北水堤は陸から切り離されているため、渡船を使わなければ上陸することができない。しかし、怪異や妖、そしてまりかのように幽世かくりよに自由に出入りできる人間ならば、船に乗らなくても海に阻まれた場所に到達することが可能なのだ。
 先程と同様にして、昴が何も無い空間に〈門〉を開ける。
「僕はまだ北斗と話があるから」
「それでは、これで失礼します」
 まりかがカナを連れて〈門〉を潜ろうとした時だった。
「そうじゃ、まりか。ちょっくら頼みたい事があるんじゃがの」
 ずっと黙って話を聞いていた猩々がパタパタと走り寄ってきた。
「あの銀でできた横笛、なんと言ったかの」
「フルートのこと?」
「そうそう、それじゃ」
 猩々が、短い腕をパタパタと振りながら話す。
「今夜、あのどデカい船着き場で、ここいらの妖連中と宴を催すのじゃがな。そいでな、まりかよ。フルートを持って、我らが宴に来てはくれまいか?」
 どデカい船着き場というのは大さん橋のことだろう。まりかはすぐに、猩々の意図を察した。
「もしかして、私のフルートに合わせて踊りたいってこと?」
「明察じゃ。さすがはまりか!」
 猩々を初めとした横浜港の妖たちが時たま宴を開いてどんちゃん騒ぎをしていることは、まりかも伝え聞いてはいた。まさか自分が誘われることになるとは、思ってもみなかったが。
「たまには舶来の器楽で踊ってみたくなってのう。1曲だけでも良い。ここはひとつ、昔馴染みとして頼まれてはくれぬか?」
 前髪に隠れて見えないものの、期待に満ちた熱烈な視線を向けられていることはよく分かる。
 まりかは数秒だけ考え、すぐに結論を出した。 
「良いわよ、明日も休みだし。聴かせてあげる」
「やっほい!」
 猩々がぴょんと高く飛び跳ねた。余程嬉しかったのだろう。
 横浜港の妖たちとは幼い頃から慣れ親しんではいるが、それでも、彼らの生活圏に深入りすることは意識的に避けてきた。怪異や妖たちとの不確かであやふやな繋がりを必要以上に求めることは、まりかが人間社会で健全に生きる上では障害にしかならないからだ。
 それでも、猩々のような素朴で小さな妖たちにフルートの調べをプレゼントするくらいのことは、たまにはしたって良いだろうと思う。それに、単純に自分の演奏を普段とは違う誰かに聴かせてみたくなったというのもある。
 まりかは、集合時刻などを猩々と簡単に打ち合わせると、退屈そうに海を眺めていたカナを連れて〈門〉を潜り、今度こそ防波堤から去っていった。
「そいじゃ、わしも帰らせていただくとするかのう」
 猩々は昴と北斗に別れを告げると、ヒラリと防波堤から飛び降りた。足先が海面に接するや否や、溶けるように幽世の海へとその姿が消える。
 後に残った2人の付喪神は、しばらく何も言わずに、白波が立つ横浜港の海を眺めていた。
「どう思う、北斗」
 海を見たまま、昴が口を開く。
 北斗は口の中で小さく唸った。
「危険は無いんだろうよ。あったらとっくにこの港から排除されてるだろうし、そもそもまりかが受け入れる訳がねえ。だがな、それが却って不気味なんだよ」
 昴は北斗の顔を見た。いつになく真剣な表情で何かを考え込んでいる。
 しばらく間を置いてから、昴はそっと提案をした。
「念の為、今の話をあの方にお伝えしておこうか」
「うえっ」
 北斗があからさまに嫌そうな顔をした。それでも反対する気は無いらしく、代わりにバタリと後ろに倒れると、コンクリート上でだらしなくゴロゴロと転がり出した。
「あいつ苦手なんだよ」
「頼むからさ、またあの方の前でそんな呼び方しないでよ」
「分かってるってーの。だから今のうちに吐き出しておくんだよ」
「心配だなあ」
「俺だって少しは成長してるって」
 北斗は動きを止めた。視界いっぱいに雲一つない青空が広がる。
 この現世うつしよも幽世も、いつもと何一つ変わらないはずなのに、妙に心がざわついて仕方がない。
 飛び交う海鳥たちの騒がしい鳴き声が、今はひどく遠くから聞こえるような気がした。
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