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作者: こむらまこと
第78話 中ノ瀬航路あやかしロックフェス! 〈十〉
 ステージ上空に、優に10メートルはあろうという巨大な鳥が出現していた。
 鶴のように細長い首と、下に湾曲した淡黄たんこう色の長い嘴。小さな水掻き付きのすらりとした脚に、体長よりも長い優雅な尾羽。滑空に適した鋭利な翼は見事な朱鷺色に染め上げられ、胴体は朱鷺色から白色までの繊細なグラデーションに覆われてる。
 それはあたかも、天女が鳥となって地上に顕現したかのようだった。
「メルルファ……?」
 水晶が、震える声で「かたち」を得た友に呼びかけた。夢にまで見たはずのその姿は、想像を遥かに超える麗しさと神秘性を獲得してしまっていて、気安く友と呼ぶ事に躊躇いを感じてしまったのだ。
「…………」
 メルルファが、ステージを見下ろした。
 月明かりの夜を映した瞳が、水晶の姿を捉えて微かにわななく。
「メルルファ!」
 水晶はたまらず、翼を広げてステージを飛び立とうとした。
「かがみ……」
「えっ?」
 メルルファの嘴から漏れた言葉に、水晶は動きを止めてメルルファに聞き返す。
 メルルファはゆっくりと瞬きをすると、今度はさっきよりも明瞭な声でその願いを口にした。
「あたし、鏡が見たい」
「……鏡って、そんな」
 誰もが想定していなかった要求に、渡辺を除いた全員の表情が強張った。水晶が助けを求めるように明たちを振り返り、明たちもまた、焦燥に駆られて互いに顔を見合わせる。
(早いところ望みを叶えてやらないと、何をしでかすか分かったもんじゃないぞ)
 明は懐に手を入れて数珠を握りながら、急いで辺りを見渡した。
 メルルファが「かたち」を得た後、周囲の状況は様変わりしていた。船はいつの間にか歩みを止め、遠くに霞んで見えていた陸地は茫洋とした乳白色に完全に呑まれてしまっている。陽気に踊り狂っていたはずの妖たちは人っ子ひとり見当たらず、まるでこの世界にはメルルファと明たちしか存在しないかのようだった。
 明と梗子は顔を寄せ合うと、取るべき対応について小声で話し合った。
「船の中から姿見を借りてきて、一部分だけでも」
「駄目だ。普通の鏡では、怪異の姿を映すことは出来ねえ」
「それは、水晶や水薙の力でどうにか出来るかもしれません。とにかく、急いで探して来ますから!」
 そう言ってステージを降りようとした明だったが、まりかの凛とした声が明の足を止めた。
「私がやる」
「!!」
「まりか!?」
「まりかさん……!」
 いつの間にか、まりかがステージ前方まで進み出ていた。金糸銀糸の刺繍が施された赤橙色の上衣とショートパンツに、手甲と脚絆、それに地下足袋。後れ毛を出して纏めた髪には、愛刀ならぬ愛杖・〈夕霧〉を挿している。
 明は、不自然なまでに落ち着き払ったその佇まいに不吉な予感が湧き上がるのを感じながら、数珠を握る手に力を込めた。
「やるって、何を」
「幻術で鏡を創り出す」
「幻術!?」
「幻術って……冗談も休み休み言えよ」
 まりかの返答に、明と梗子は当惑した。幻術というのは基本的には妖が使う術であり、仙人か怪異化した人間でも無ければ「人間」が幻術を使うなどあり得ないというのが、ふたりの常識だったからだ。
 しかし、ふたりの反応を「幻術を用いるという解決策そのものへの疑義」であると解釈したまりかは、それを解消すべく、あっさりと己の秘密を開示したのだった。
「7番目のチャクラの制限を、解除する」
「!?」
「はあ!?」
「そうすれば、霊的エネルギーに満ちた霊的次元から、無限大の霊力を取り込めるようになる。そして、嘘まやかしに過ぎない幻術の鏡を、本物をも凌駕する真実の鏡へと昇華させるのよ」
 穏やかな顔で言ってのけると、説明は終わりとばかりにメルルファに向き直ったのだった。



「駄目だ、まりか!」
 遠くから成り行きを見守っていた蘇芳が、血相を変えて立ち上がった。
「そんな事をしたら!」
「蘇芳様!」
「お止めください!」
 本性に戻っていた潮路と黒瀬が、人の姿に変化へんげした。
 潮路が、平時にはまず見せる事の無い切羽詰まった表情で自らの主を押し留めようとする。
「いけませぬ、蘇芳様。それがどのような結果になろうと、お嬢様が自らの意志で進むべき道を選び取る事を妨げてはなりませぬ」
「いいや、止める」
「蘇芳様!」
 黒瀬が、少年の姿をした蘇芳の肩を掴んだ。
 蘇芳が、前を向いたまま低い声で黒瀬に命じる。
「離せ」
「いいえ、離しませぬ」
「〈離せ!〉」
 黒瀬の頭部を、男の声が突き刺した。
「ぐっ!?」
 割れんばかりの激痛が黒瀬の頭部を強烈に締め上げ、肩を掴んだ手からは肉が焼ける臭いが煙とともに立ち昇る。
「恐れながら、申し上げます」
 しかし、黒瀬はそのまま手を離すことなく蘇芳を諌め続けた。
「制限解除の権限、その一切をまりか様御本人の手に委ねると…………そのようにご決断されたのは、他でもない貴方様御自身でありましょう!!」
「…………」
 激痛が、嘘のように消えた。手を焦がす灼熱も、潮のように引いていく。
 黒瀬は、蘇芳の肩からそろそろと手を離すと、膝を折って非礼を詫びた。
「とんだ御無礼を」
 潮路もまた、黙したまま頭を下げる。
 蘇芳はそんな側近たちには目もくれず、海面に立ち尽くしたまま、遠いさざなみの音に耳を傾けるのだった。



「駄目だ、朝霧!」
 明は、必死の形相で叫んだ。まりかの話はにわかには信じ難いものではあったが、とにかくをさせてはいけないと、明の本能がけたたましく警鐘を鳴らしていた。
「制限してるって事は、要するに危険って事だろ。人間の身に有り余る霊力を受けて、無事でいられるはずがない。さっきも言ったように俺と伊良部さんがどうにかするから」
「明。良いのよ、私の事は」
 まりかが、明を見た。その口元には、何故か寂しげな笑みが浮かんでいる。
「多分、この日のために授かった力なのよ。どうしようもなく恵まれていて、これ以上を望むべくも無いはずなのに、失われた過去への執着が断ち切れない。そんな度し難い私が、身を挺して誰かを……あなたたちを救う事が出来るのよ」
「おい、何を言ってるんだよ。失われたって、何の話だよ」 
「それに」
 まりかが、顔から笑みを消した。
「あれこれ試してみるとか、後で検討するとか。そんな悠長な対応をして、野放しになったメルルファが人々に重篤な霊障を発生させたりしたら、どう責任を取るというの?」
「それは、お前が考える事じゃねえんだよ!」
 梗子が、声を荒げた。焦燥と苛立ちに顔を歪ませながら、まりかに詰め寄って肩を掴もうとする。
「つうか、お前は手出しをするなって散々釘を刺されてたじゃねえか。ここは大人しく」
「夕霧」
「うわっ!?」
 まりかが、〈夕霧〉を梗子に投げ付けた。反射的に〈夕霧〉を受け止めた梗子の両手に、〈夕霧〉がビリビリと放電しながら強固に吸い付く。
「ごめんなさい、梗子さん」
「ふざけんな! バカまりか!」
 梗子が怒声を上げながら、〈夕霧〉を振り解こうともがき回った。しかし、龍神の宝具たる〈夕霧〉の力に梗子が敵うはずもなく、暴れれば暴れるほど〈夕霧〉の縛めは強くなるばかりである。
「水晶」
 まりかが、優しく水晶を呼んだ。梗子を助けるべきか逡巡していた水晶の肩が、ビクリと跳ねる。
「あなたは、何も心配しなくていいの。これは、私が心の底から望んだ事なのだから」
「まりかさん……」
 水晶は、いたたまれない思いでまりかを見つめた。まりかを止めるべしという主の意思と、メルルファの望みを叶えてやりたいという自らの願いの間で板挟みとなっている水晶には、この場の状況を動かす事など出来るはずもない。また、そんな水晶の心情を理解している梗子も、水晶に〈夕霧〉を解く手伝いを頼もうとはしなかった。
 まりかは、明たちが動けないのを確かめると、改めてメルルファと向かい合った。
「メルルファ! これから、あなたのためのとっておきの鏡を創ってあげるから、あと数分だけ待ってもらえるかしら?」
「本当に!?」
 メルルファが、月明かりの瞳を輝かせた。まりかはニッコリと笑いかけると、目を瞑って深呼吸をする。 
(あのふたりに、ほんの僅かだって惨たらしい思いをさせたくない)
 精神統一をする数秒間、まりかはこの数ヶ月の記憶を走馬灯のように蘇らせる。
(ずっと見てきたもの。水晶が、どれだけ明を慕っているか。明が、どんなに水晶を慈しんでいるのか。ふたりの関係に闇が差そうとしているのを看過するなんて、私にはとても出来ない)
 まりかは瞼を開くと、優雅な仕草で片手を宙に差し出した。
「か」
「ちょっと待ったあああああっ!!」
 老獪な人魚の大音声だいおんじょうが、幽世の昏い天地に響き渡った。
「カナ!」
「カナさん!?」
 弾かれたように空を見上げると、人魚の姿を現したカナが、こちらを睥睨へいげいしている光景が目に飛び込んでくる。
「カナ! 来てたのか!?」
「菊池。あれは何なんだよ」
 驚く明に、梗子が両手に〈夕霧〉をくっつけたまま声を潜めて訊ねる。しかし、明が答えるよりも先に、カナによる芝居がかった名乗り口上が始まった。
「遠からん者は音にも聞け! 近くば寄って目にも見よ!」
 一糸まとわぬ薄い胸板を堂々と張り、紅葉のような小さな手を高々と掲げる。
「我が名は、カナ。7つの海を統べるべく、最奥よりでし者。数多あまたの呼び名を持つ、大海の帝王なり」
 厳かな声で述べると、軽くウェーブのかかった腰までの白髪を靡かせながら、華奢な両腕を大きく広げる。そして、あどけない少女の顔に凶悪な笑みを浮かべて金色こんじきの瞳をキラリと輝かせながら、おのが秘めたる力を惜しげもなく解放したのだった。
刮目かつもくせよ! 偉大なる支配者たる人魚の御業みわざを!」
「ッ!!」
「海が……!」
 鈍色にびいろの空を映していた海が、肌を刺すような冷気を放ちながら急速に凍り始めた。透き通った氷面が乳白色に沈んだ水平線の彼方まで瞬く間に広がり、耳をつんざくような轟音と共に「あずま」の船体がいくつもの氷塊に持ち上げられる。
「うわっ!?」
「カナ! 危ないじゃないの!」
 まりかが、音響機材を支えながら抗議の声を上げた。しかし、カナは一瞥をくれることもなく、悪巧みするような笑みをますます深めながらオーケストラの指揮者のように大きく両腕を振った。
「そいやぁ!!」
「氷が!?」
 船から遠く離れた氷面の一部が、ひとりでに持ち上がった。まりかたちが愕然としている間にも、扇形に切り取られた8枚の巨大な氷の板がメルルファの前へと飛翔し、溶けるように接合する。
「ま、まさか……」
「名付けて!」
 神の如き所業に一同が瞠目する中、カナは再び両腕を広げると、得意満面で高らかに叫んだのだった。 
「〈海原之わだつみの氷面鏡ひもかがみ〉なりいいっ!」
「わだつみの……ひもかがみ…………」
 それは、この上なく美しい鏡だった。
 縁は見事な真円を描き、裏面には氷の結晶をモチーフにした精緻な彫刻が施されている。そして、一点の曇りもなく磨き上げられた鏡面には、メルルファの「かたち」が、一分の歪みもなく真実そのままに写し出されていた。
「ああっ……!」
 鏡に写った自分の姿を見たメルルファが、歓喜に声を震わせた。
「こん、な……美しい、『かたち』を……!」
 月明かりの瞳からポロポロと涙を零すと、満ち足りた微笑を浮かべて瞼を伏せる。
「もう、これ、で……」 
「メルルファ!?」
 メルルファの全身から、眩い光が放たれた。身体の輪郭が滲み、無数の光の粒子が大気中に拡散していく。
 友の想いによって新たな生命を得たはずの怪異が、友の目の前で早くもその生命を終えようとしていた。
「メルルファ!!」
 水晶は絶叫すると、翼を強くはばたかせてメルルファの前へと飛び立った。
「どうして! どうして消えちゃうの!?」
 声が掠れる程に叫びながら、安らかに逝こうとするメルルファを必死で引き戻そうとする。
「あなたはもう、〈夢幻の国〉のメルルファではないのよ! 『かたち』を得た今のあなたには、消えゆく運命なんて関係無いはずなのに!」
「そう。あたしは、消えゆく運命だった……」
 メルルファが、優雅な長い首をゆったりと縦に動かした。
「魂を持たず、全身が不安定な縦波のみで構成されていたあたしは、誰かが祓わずとも、一年と経たず消えていたことでしょう」
 ゆっくりと瞼を持ち上げると、月明かりの瞳で愛おしそうに水晶を見つめる。
「これは、あたしが欲した事。あなたの想いに応えるため、存在の維持に必要な力を含めたあたしの全てを振り絞って、あなたからの贈り物を受け取り、構成した……」
「それじゃあ、私のせいで!?」
「それは違うわ」
 メルルファが、朱鷺色の翼を水晶に差し伸べた。
 巨大な翼が、そよ風のような優しさで水晶の頬を撫でていく。
「自分がどこから来て、何の為に存在するのか。思考する事も疑問を抱く事も出来ず、ただひたすら空を彷徨い続けるだけの、虚しい生。そこに、あなたが意味を与えてくれた。例え、それが刹那の煌めきに過ぎないとしても、たったそれだけで、あたしはとっても幸福なのよ」
「嫌だ! そんなの嫌だ!!」
 受け入れ難い現実に、水晶は首がもげる程に激しく頭を振った。どんなにメルルファ自身が肯定しようと、自分の行いが友の寿命を縮めたなど、到底許せる事では無かった。
「うわああああっ……!」
 水晶は、慟哭した。黒々としたつぶらな瞳から涙が溢れ、とめどなく頬を伝い落ちる。
 メルルファは、そんな水晶を少し困ったように見つめると、再び翼を差し伸べた。
「水晶」
 だんだんと薄れゆく姿の中で、淡黄色の弧を描く長い嘴をたおやかに開く。
「あたしの、最初にして唯一の友達。そんなあなたに、歌と予言の女神・〈メルルファ〉であるあたしから、最初で最後のお告げをプレゼントするわ」
「お告げ?」
「そうよ。きっと、あなたの助けになる」
 微笑みながら翼の先で優しく涙を拭い取ると、秘めやかな声で短いうたを唱えた。

 あなたに王は救えない
 王を救うは人の子のみ
 あなたは灯火ともしび
 あなたはしるべ……

 朱鷺色の翼が、水晶の頬から離れた。
 天女の如き淑やかなかんばせが、光の中へと揺らめきながら消えようとしている。
「待ってよ!!」
「さよなら」
 その言葉を最後に、メルルファの姿が無数の光となって弾けた。
「――――ッ!」
 目を焼き尽くさんばかりに輝く光の奔流がどっと押し寄せ、水晶の小さな身体をすっぽりと包み込む。
「あっ……」
 奔流の中、水晶は涙に濡れた瞳を見開いた。ほとんどの光がそのまま海へと還る中、優しい朱鷺色をした光がいくつか、水晶の胸の中に溶け込んでいく。
(メルルファの…………魂の、欠片?)
 その直感は、正しかった。
「私の声!?」
 頭の中で反響するいくつもの自分自身の声に、水晶は顔の横のトビウオのヒレをピンと張って聞き耳を立てる。
(これって、私がメルルファに色んな方法で話しかけた時の……)
 ある時は〈夢幻の国〉の一節を唱え、またある時は他愛のない話題を持ちかけ、あるいは思念を送ってみたり。時間の許す限り、考えうる限りの方法で意思疎通を図ろうと試みた、試行錯誤の日々。
 その全てが今、報われたのだ。
(届いてたのね……! 私の声が……!)
 幽世の天地から、光の粒子が完全に消失した。
 メルルファの存在した痕跡は、最早この世界のどこにも見当たらない。ある一か所を除いては。
 水晶は両翼で己の身を掻き抱くと、内緒話をする時のような小さな声で囁いた。
「永遠に、残るから……」
 頬を、惜別の涙がひと粒だけ伝い落ちる。
 小さな胸の奥底が微かに震えるのを感じながら、水晶はいつまでも虚空に佇み続けるのだった。



 昏い空に独り浮かび続ける水晶を、明は瞬きもせずに凝視していた。
「おい、小僧!」
「うわっ!?」
 至近距離から突然呼びかけられ、明は思わず飛び上がる。
「ったく、もうちっとシャンとせんかい!」
 カナは、肩幅よりも広いクジラの尾ヒレをブンブンと振りながら明をドヤすと、片手をサッと振り下ろした。
「ほれ、やるから受け取っておけ」
「は?」
 目を白黒させる明の前に、〈海原之氷面鏡〉がキュルキュルと高速回転しながら飛翔してきた。メルルファの巨体をすっぽりと覆うほどに巨大だったはずの鏡は、妖力を消費したためか、今や3メートル程度にまで縮んでいる。
(いや、それでもかなりデカいけど)
 どうしたものかと困惑しながら裏面の彫刻を目で追っていると、流石に唐突過ぎたと感じたのか、カナが仰々しく咳払いをして鏡の解説をし始めた。
「この鏡はな、海そのものと繋がっておる。つまり、使い方次第では海の力を無尽蔵に引き出すことが可能となろう」
「そ、そんな大層な……」
「真実の姿を写すに留まらず、全ての魔障を跳ね返し、あるいは吸収し、時には〈門〉ともなろう。持ち主が『そうあれかし』と望めば、鏡は如実にその望みを反映する。鏡なだけにな!」
「……」
「……ただ、いかんせん急拵えの品じゃからのう、使えるのはせいぜい2回程度じゃろう。使い所はよくよく見極めることじゃな」
「…………」
 明は、〈海原之氷面鏡〉をじっと見つめた。
 大量生産品では実現不可能な精度を誇る真円に、迷路のように入り組んだ緻密で美しい彫刻。極限まで磨き上げられた鏡面からは、強大な妖力の気配と、見る者の目を奪わずにはいられない魔性が滲み出ている。
(これを手にしたら最後、俺は後戻りできなくなるだろう)
 明は、もう一度空を見上げた。
 寒々とした空に、己の身を掻き抱いて浮かび続ける式神の少女。今にも壊れてしまいそうなそのか細い背中に、迷いの感情は跡形もなく消滅した。
「それじゃあ、遠慮なく受け取っておくよ」
 明はごく軽い調子で頷くと、〈海原之氷面鏡〉に手を伸ばした。
「って、あれ?」
 指先が鏡の表面に触れた途端、氷が溶けるようにして姿を消してしまう。
「名を呼べば、いつでも出てくるはずじゃ。その辺は〈水薙〉と同じじゃな」
 何故か得意そうな顔をして説明するカナであったが、そんなカナの腕を、まりかが強く引っ張った。
「カナ! なんて物を明に押し付けてるのよ!」
 声量を抑えて怒りながら、カナを船尾の方へとグイグイ引っ張っていく。
「これこれ、そんなにカッカするでない」
 カナは、まりかに掴まれた部分をさすりながら、事も無げな顔で弁明を試みた。 
「いやな、わしも蘇芳の真似をしてみようと思ってな」
「真似って……何を企んでるのよ?」
 いかにも胡散臭そうに自分を見るまりかを愉快そうに眺めながら、カナはあっけらかんとした口調で言ってのける。
「人類人魚化計画」
「!?」
「冗談じゃい」
「…………あなたが言うと洒落にならないのよ」
 完全に人を煙に巻く態度に、まりかは一気に怒る気が失せて頭を抱えた。
(ひょっとして、私はとんでもないをしている最中なのかもしれないわね)
 強大な力と驚異的な順応性を誇る、どこの馬の骨とも知れない珍妙な人魚を自宅兼事務所に迎え入れたばかりか、人間社会についての知識を昼夜を問わず吸収させているのだ。それこそ、人類人魚化計画に加担していると言われても、今のまりかにはぐうの音もでない。
 そんな事を考えながら氷原となった海をぼうっと眺めていると、カナが控え目な声で訊ねてきた。
「わしを受け入れた事、後悔しておるか?」
「いいえ」
 まりかは首を横に振ると、居住まいを正してカナと見つめ合った。
「正直、あなたが来てから結構……というか、かなり楽しいの。あなたがきっかけで得られた出会いだってあるし。それに、まだ例の約束を叶えてもらってないじゃない。もうしばらくは、一緒に居てもらわないと困るわ」
「ふん」
 カナが、小さく鼻を鳴らした。いかにも可愛げの無い小憎たらしい反応であるが、さり気なく視線を逸らして唇を尖らせているところから、本心ではまりかの返答を嬉しく思っている事は容易に察せられた。
(時々、本当の子供にしか見えない事があるから恐ろしいのよね)
 まりかにとっては何の変哲もないありふれた日常の中で、目を見張り、輝かせ、跳び上がり、騒ぎ立てる。そんなそそっかしい姿を見ていると、この正体不明の老獪な人魚と、もう少しくらい共に日々を積み重ねるのも良かろうと思えてくるから不思議である。
「……あのさ、なんか良い感じになってるところ悪いんだけど」
 背後から、梗子の不機嫌そうな声が割り込んできた。
「これ、取ってくれる?」
「ッ!!」
 まりかは韋駄天の如き俊足で梗子に飛び付いて〈夕霧〉を引き剥がすと、腰を直角に曲げる最敬礼のお辞儀で謝罪した。
「申し訳ありませんでした!!」
「……別に良いけどさ、稽古の時は覚えておけよ」
「はい!!」
 まりかは頭を上げると、平謝りを続けながら梗子の手を取って怪我が無いかを確認する。その様子を何とも言えない気持ちで眺めていたカナだったが、そこへ、水晶を連れた明がやってきた。
「カナ。水晶が、カナにお礼を言いたいって」
「ううむ」
 明の申し出に、カナは気が進まないながらも水晶に顔を向けようとする。
「船が……!」
 ちょうどその時、歩みを止めていた「あずま」が航行を再開した。彼方まで凍り付いていたはずの海は元通り鈍色の空を映し、幽世特有の濃厚な匂いもみるみるうちに遠ざかっていく。
 周辺世界は、昏い幽世から生命溢れる現世うつしよへと完全に戻っていた。
「とりあえず、船橋せんきょうに行って作戦終了を伝えてくる。あと、さっきの衝撃で怪我人が出ていないかも確認しないと。朝霧はステージで待機していてくれ」
「了解」
 明と水晶、それから渡辺を担いだ梗子が後部甲板を去ると、その場にはまりかとカナだけが残った。
 手持ち無沙汰になったまりかは、ドラム・セットの前に戻って、スティックをカナに渡そうとする。
「せっかくだから、叩いてみる?」
「何を言っとるんじゃ」
 カナが、呆れ顔で溜め息を吐いた。
「他の人間に見られんうちに帰るに決まっとるじゃろうが」
「あっ、そっか」
 まりかは目をぱちくりさせると、小さな子供のようにはにかんだのだった。
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