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作者: こむらまこと
第76話 中ノ瀬航路あやかしロックフェス! 〈八〉
 一面に芝生が広がる横浜スタジアムの中央で、井桁型の巨大な焚き火が轟々と激しく燃え盛っている。
「こうして見ると圧巻ですねえ」
「林間学校のキャンプファイヤーを思い出すよ」
 焚き火から充分に安全な距離が保たれた視察席では、本庁や三本部の幹部たちが思い思いに談笑しながら、召喚儀式が始まるのを今かと今かと待ち侘びている。
「聞いた話によると、儀式の最後にあの炎が綺麗さっぱり消えるとのことです」
「へえ、まるで手品みたいだな」
 このような緊張感の欠片も無い会話が交わされる中、本庁総務部長・井原敦士だけは、陰鬱に押し黙ったまま視線を右往左往させていた。
(何が手品だ、呑気な事言いやがって。こっちは今すぐにでも逃げ出したい気分だというのに)
 井原は、元々は国土交通省の人間である。昨年、国土交通省の外局である海上保安庁に出向という形で異動してきたのだが、よりにもよって自分の在職中に召喚儀式の視察などというとんでもないイベントが発生しようとは、つくづく間が悪過ぎると己の不運を嘆きたくなってしまう。
「大丈夫ですか?」
 こめかみを伝う脂汗をハンカチで拭っていると、魔術師協会から派遣されてきた魔術師の男が声をかけてきた。
「お顔色が優れないようですが……」
「平気だ、何も問題は無い」
 井原は慌ててハンカチを仕舞うと、ぎこちない笑みを浮かべて平静を取り繕う。
「そうですか。何かあれば、いつでもお声がけください」
 男は愛想良くそう言うと、他の魔術師たちの所に戻っていった。
(魔術師協会は、一般社会に不安を与えないように配慮して活動していると聞いたことがあるが、どうやら本当らしいな)
 どこからどう見ても普通のサラリーマンにしか見えない魔術師の男を見送りながら、井原は少しだけ緊張が解れるのを感じる。
(……虚勢を張った手前、幹部としての体面は保たねば)
 井原は腹を括ると、目を逸らしたい気持ちをどうにか抑えながら、焚き火の前に設置された祭壇を事細かに観察し始めた。
 黒い布に覆われた横長の祭壇には、井原には名前も分からないような様々な魔術道具が整然と配置されている。四大元素を象徴する〈火の杖ファイヤーワンド〉に〈地の金貨アースペンタクル〉、〈風の剣エアーソード〉、〈水の杯ウォーターカップ〉。祭壇の両端にはトネリコの枝とコスモスの花を挿した花瓶が飾られ、中央には香炉とアクアマリンの原石がひとつずつ並べられている。そして、焚き火と祭壇をぐるりと取り囲むのは、清塩を使って描かれた巨大な魔法円だった。
(なんだ、あれ。まさか、本物じゃないよな)
 井原は、祭壇の前で儀式の準備をしている海洋怪異対策室の村上という男に目を留めた。村上の手には、腕ほどの長さの細剣レイピアが握られている。
(……そういえば、悦子叔母さんは元気かな。最近、仕事を引退したって親父から聞いたけど)
 一般の海上保安官とは異なる海異対独自の制服に身を包み、片手に剣を掲げるという異様な佇まいにも関わらず、村上の表情からは気負いのようなものは全く感じられない。泰然自若としたその物腰に、井原は浄霊師をしていた叔母の若き日の姿を重ね合わせる。
 普通よりも少し霊力が強く怪異や妖の気配に敏感だった少年・井原は、病弱な体質も相まってしょっちゅう体調を崩し、その度に叔母の世話になっていた。
『いっそのこと、怪異を自分で追い払えるくらい霊力が強かったら良かったのに』
 これは、楽しみにしていた遠足を、例によって怪異を原因とする体調不良で泣く泣く休んだ時に井原が零した言葉である。取り立てて深い考えも無く口にしたように記憶しているが、これを耳にした途端、普段は温厚な叔母が目尻を吊り上げて叱責してきたのだ。
『お前、間違っても他の浄霊師や呪術師の人たちに、そんな事を言ってはいけないよ!』
 そして、すぐに寂しそうな顔になってこう付け加えた。
『余りにも強い力を授かった人にはね、強過ぎるが故の苦しみというものがあるの。羨ましいだなんて、口が裂けても言っては駄目なんだからね』
 その時は、叔母の言葉が理解出来なかった。現に自分は弱いが故に辛い思いや悔しい思いをしているというのに、霊力が強過ぎて困るだなんて、とんだ贅沢な悩みではないかと。しかし、成長し様々な経験や見聞を得て、更に叔母の幼少時の出来事を父親から密かに聞くに至り、井原は考えを改めた。
 自分はこの程度で済んで、まだ良かったのだと。
「大変お待たせいたしました。ただいまより、召喚儀式を開始いたします」
 気が付くと、さっきの魔術師の男が視察席に戻ってきていた。同時に、荘厳さと爽やかさという相反する性質を併せ持った不思議な香りが、祭壇の方から漂ってくる。
「儀式終了の合図があるまで静粛にしていただきますよう、ご協力の程よろしくお願いいたします」 
 焚き火が燃え盛る音が響く中、祭壇の前に立った村上が、儀式用の細剣レイピアを鉛色の空に向かって高々と掲げる。
「『アテー』」
 厳かな声で祈りの言葉を唱えながら、細剣の先で宙に巨大な十字を描いていく。
「――『レオラーム・アーメン』」
「……!」
 細剣ごと両手を組んで祈りを捧げる村上の前に、神秘的な青色のカバラ十字がゆらゆらと浮かび上がった。井原は他の幹部たちの表情を盗み見るが、井原以外にカバラ十字が視えている者はいないらしい。
(……ここは、俺が居るべき場所ではない)
 脂汗が、再びこめかみを伝い始める。

 シャラン……

 井桁型の巨大な焚き火から、星がきらめく音が聴こえたような気がした。



 ※ ※ ※



 所変わって東京湾の中央、第二海堡の西側の海域では、巡視船「あずま」が今まさに中ノ瀬航路に進入しようとしてた。
「〈東京マーチス こちらは巡視船『あずま』 これより 中ノ瀬航路に入航します〉」
「〈こちら東京マーチス 貴船の位置を確認しました 〉」
 機関エンジンと発電機の駆動音が響く「あずま」船橋せんきょう内では、航海士と東京マーチスの管制官による無線交信が粛々と行われている。
「〈中ノ瀬航路を出航後 再度連絡します〉」
「〈了解しました 『あずま』のご安航を祈ります〉」
「んな、ご安航って……」
 普段は事務的な連絡事項しか口にしないはずの管制官から発せられた人情味溢れる言葉に、「あずま」船長の窪塚鉄平は思わず失笑した。
「それは、俺らよりも海異対の連中に言ってやった方が良いんじゃねえの?」
「我々は、いつもと同じように船を走らせるだけですからね」
 航海長の森下浩二も、前方に顔を向けたまま窪塚に同調する。
「しっかし、仕事で楽器演奏なんて良い御身分だよな。それを言ったら音楽隊も似たようなモンだけど」
「それも、世界の海運に名を轟かす中ノ瀬航路を舞台にしているときましたからね」
 視界に広がる灰色の海を眺めながら、森下は皮肉めいた笑い声を立てる。
 中ノ瀬航路は、第二海堡の北側に位置する全長約11km、北行き一方通行の航路である。1日平均500隻以上の船が往来する東京湾は、世界有数の過密海域であり、海底地形の複雑さ故に操船が難しい海域でもある。そんな東京湾を安全に航行するために定められた航路のひとつが中ノ瀬航路であり、この航路内で海難事故でも起こそうものなら、この国の経済活動に著しい影響を及ぼすのは可能性を通り越して確定事項だった。
「外から開けるまでは絶対に出るなって言われましたけど…………幽世って、そんなに危険なんですかね」
「まあ、辻元残波の件があったからな。ここは大人しく指示通りにしておいた方が無難だと思うぞ」
「ああ、あの辻元ですか……」
 窪塚の口から出た忌々しい名前に、森下が渋い顔をする。辻元残波が三浦半島のとある漁港で意識不明の状態で倒れているのを海異対に発見され、救急搬送されたという話は、辻元自身の悪名高さもあり、三管区内では誰もが知るところとなっていた。
「でも、それだって結局は海異対の連中がそう言ってるってだけでしょう。当の辻元は未だに意識が戻ってないらしいですし、実は普通に体調崩して倒れてただけなんてオチだったりして」
「お言葉ですが、菊池さんは平気で他人を欺くような人ではありません」
 怒気を含んだ声が、森下の言葉を遮った。
 振り向いた窪塚が、声の主の正体に目を丸くする。
「竹内。お前、部屋で待機してなくて大丈夫なのか」
「ええ。こんな時に、僕だけのんびり休んでるわけにはいきませんから」
 窪塚の気遣いに対し、「あずま」の主計士補であり、明のかつての後輩である竹内勇気は、青白い顔をしながらも断固とした口調で答えた。
 竹内は、森下の不快そうな眼差しに少々怖じ気づきながらも、海異対、というよりは明の名誉を護るべく、明の人物像について真摯に語り始めた。
「菊池さんはそもそも、海異対への配属なんて全く希望してなかったんです。それが――」
 そう前置きした上で、数年前に五管区で起きた幽世絡みの事件について説明する。それは、ある職員が勤務時間中に幽世に迷い込み行方不明になったという、辻元の件と類似したものだった。ただ、ここで問題となったのは、その職員を発見したのが海異対の人間ではなく、当時は一般の海上保安官をしていた明だったという点である。
 結局、この一件により人事に目を付けられた明は、それから数ヶ月後、ほぼ強制的に海異対に異動させられたというわけだった。
「菊池さんは、霊力の強さなんかで目立ちたくなかったはずですよ。あくまで海上保安官の仕事がしたいから海保に入ったんだって言ってましたし」
 様々な航海計器や通信機器が並ぶ船橋内を見渡しながら、竹内は切なげに目を細める。元々は航海科の出身である明は、あの事件さえ無ければ、今も航海士としての道を順調に歩んでいたかもしれないのだ。
「それでも、その気になれば助けられるはずの命を保身のために見捨てるなんて、あの人には出来なかった。つまり、菊池さんはそういう人なんです」
「んで、その話がどう巡り巡って、辻元の件で嘘を吐いていないって保証に繋がるんだよ?」
 船橋内にしんみりとした空気が広がる中、森下だけが懐疑的な態度を保ったまま意地の悪い指摘をする。
「そ、そんなの!」
「船長!」 
 すかさず食って掛かろうとした竹内だったが、船橋内で起きた異変によって言い争いどころではなくなってしまった。
「電子海図が……」
 航海士のひとりが、焦りと恐怖の表情で電子海図を指差す。
「おいおい」
「なんだこりゃ」
 急いで駆け寄った窪塚と森下は、愕然と電子海図を見下ろした。一定だったはずの方位や速力、水深を表す数値が目まぐるしい速さで切り替わり、自船を表す三角形のアイコンは、画面の中心でグルグルと回転している。
「待て、レーダーもおかしいぞ」
「それに、ジャイロも……」
 また、周辺の船や漁具、航跡、陸地などを映していたはずのレーダー映像は原因不明のノイズによって激しく乱れ、ジャイロコンパスや磁気コンパスの針も正しい方位を求めて大きく揺らいでいる。
 そして、ついさっきまで良好だったはずの視界は、いつの間にか一面の乳白色に覆われていた。
「まさか、あれが幽世なのか……?」
「航海長」
 かつてない事態に船橋内がざわつく中、窪塚はいち早く動揺から立ち直ると、冷静な眼差しで森下に指示を出した。
「直ちに、全乗組員の安否を確認しろ。それから、当直以外の者は全員、第二公室で待機させるんだ」
「ハッ!」
 窪塚の指示を受け、森下もまた、部下である航海士たちに次々と的確な指示を出していく。
(……どうか、ご無事で)
 航海士たちが背後で駆けずり回る中、竹内は懐に忍ばせておいた弁才天の護符にそっと触れると、作戦の成功を静かに祈るのだった。



 ※ ※ ※



 時を遡ること数分前。巡視船「あずま」の後部甲板こうはんに設営された簡易ステージの上では、明たち〈MARINEマリン LIVESライブズ〉による最後の打ち合わせが行われていた。
「いいか、渡辺。少しでもヤバいと感じたら、躊躇いなく演奏を中止しろ。ベースの音はキーボードでも出せるし、最も優先すべきなのはお前自身の命だ。あと、これも何度も教えたと思うが」
「はい! とにかく余計な事は考えず、ひたすら演奏に集中するんですよね! 僕、ここ一番という時の集中力には自信があるから、心配しないで下さい!」
「……分かった。お前を信じる」
 霊力が少なく幽世への耐性も皆無な渡辺には、少々やり過ぎなくらいの安全対策が施されていた。足元の床には十二天の梵字曼荼羅を描き、渡辺自身には魔除けの文様や背守りが刺繍された朱色の袖無し羽織りを制服の上から着せている。また、胴体や手足、額、耳などの素肌に摩利支天の梵字を書き、顔には摩利支天を表す梵字を書いた雑面ぞうめんを装着、更には制服の裏地にも摩利支天の護符を縫い付けるという徹底っぷりである。
「朝霧」
 明は次に、ドラムセットの前で待機しているまりかに、何度目になるか分からない念押しをした。
「しつこいようだけど、不測の事態には俺と伊良部さんが対応するから。朝霧も今回は、演奏と自分の身を護ることだけに徹してくれ」
「うん、分かってる。余計な手出しはしないでおくから」
 両手にスティックを持ったまりかが、いかにも物分りの良い顔で頷いた。今回の作戦において、まりかはあくまで業務協力をする一般市民に過ぎず、同時に保護の対象でもあるという旨は、明のみならず九鬼や村上からも再三に渡って伝えられている。
「それじゃあ、前の最終確認だ」
 エレキギターを抱えた梗子が、ハリのある声で一同に呼びかけた。
「幽世に入ってすぐに結界を張ったら、その流れで水晶がメルルファを上空に誘導する。水晶が配置についたら、間髪入れずに演奏開始だ。まりか、良いな?」
「はい! いつでもドンと来いですよ!」
 まりかが、手甲を付けた拳で胸を叩いた。ドラマーには、曲の入りを合図する「カウント」と呼ばれる役割がある。聞くだけならいかにも簡単そうに思えるが、実際はこのカウントのとり方ひとつで曲全体の完成度が決定付けられるという、非常に責任の重いものなのだ。
 梗子は、まりかの強気の姿勢に満足そうに頷くと、再び表情を引き締めて話を続ける。
「結界を張るにしても、ただでさえ危険な幽世でバンド演奏に全力を尽くすなんて無防備を晒すのは、はっきり言って自殺行為も良いところだ。今回は全部で3曲用意してきたが、妨害が入る可能性とか諸々を考えると、最初の1曲目で目的を達成するのが最善だろう」
 梗子が、明の隣に控えている水晶の顔を覗き込む。
「水晶。最初の1曲目に、お前の全人生を込めろ。そして、そんなお前を俺たちが全身全霊で支えてやる。だから、俺らの想いもその他のあれこれも、何もかもを全部ひっくるめて我が物とし、思いっ切りメルルファにぶつけてやるんだ!」
「…………ッ!」
 たぎるような闘志を宿した瞳に、水晶は深く胸を打たれて息を呑んだ。それから、〈MARINEマリン LIVESライブズ〉のメンバーたちを順繰りに見つめていく。
(そうだ。皆、私のために……)
 脳裏に、この数週間の練習風景が閃くように蘇った。厳しい中にも沢山の楽しさや嬉しさを感じた怒涛の日々の記憶が、ようやく今、熱を帯びた実感となって胸の奥深くまで浸透していく。
(負けられない。失敗なんか許されない。メルルファのためにも、皆のためにも……!)
 水晶は、黒々としたつぶらな瞳で梗子を見据えると、力強く返事をした。
「はい! 梗子様!」
「よし! そう来なくっちゃな!」
 水晶の溌剌とした笑顔に、梗子が上機嫌になってエレキギターを掻き鳴らした。歯切れの良いテレキャスター製のサウンドに、明やまりか、ついでに渡辺も、緊張で強張っていた肩の力を抜いて笑い合う。
「それじゃあ、準備は良いか?」
 〈水薙〉を手にした明が、水晶に確認した。船は既に中ノ瀬航路に差し掛かり、メルルファの物悲しい歌声が微かに伝わってきている。
「はい、いつでも!」
 水晶は、いつもと変わらない明の優しい笑顔に向かって、いつもよりも一層元気な声で応じた。
「それでは、始めます」
「おう」
 明は数歩前に進み出ると、灰色に霞む水平線に狙いを定めた。
 大きくゆっくりと〈水薙〉を振り被って、鋭い気合と共に虚空を切り裂く。
「ヤアッ!」
 刹那、視界が一閃し、世界は現世から幽世へと切り替わった。海水にミルクを流し込んだような甘くてしょっぱい濃厚な匂いがねっとりと全身に絡みつき、くぐもって聴こえていたメルルファの歌声が明瞭になる。
「頼んだぞ、
 明は、仄かに青い光を反射する刀身に向かって呟くと、持ち上げるようにして〈水薙〉を頭上に放り投げた。
 同時に、水晶が音も無く甲板を飛び立ち、上昇する〈水薙〉の周囲を旋回しながら魔祓いのことばを唱え始める。

「『あめ切る つち切る 八方切る』」

 オオミズナギドリの力強い翼を広げて、幽世のくらい天地をひらりひらりと優美に舞う。

「『天に八違やちがい 地に十の文字ふみ』」

 水晶の舞に呼応して、〈水薙〉が美しい青色の輝きを帯び始める。

「『秘音ひめね ひとつ十々 とおとお ふたつも十々』」

 水晶の全身もまた、清らかな暖かい光を帯びていく。
 船の上空で滑らかな螺旋を描きながら、翼の先で繊細な幾何学模様を次々と編み上げていく。

「『みっつも十々、よっつも十々、いつつも十々、むっつも十々』」

 最後に、両翼を広げて〈水薙〉に並ぶと、厳かな声で締め括った。

「『ふっ切って放つ さんびらり』」

 〈水薙〉から、無数の青い光線が放出された。
 水晶が編み上げた幾何学模様と光線が連結し、眩い光を放ちながら巨大な天球型の結界へと鮮やかな変貌を遂げていく。
 こうして、水晶が構築し〈水薙〉によって維持される美しい幾何学模様の可搬かはん式守護結界・〈大水薙結界〉が、「あずま」をすっぽり覆う形で見事に展開された。
(いよいよだな……)
 幾何学模様をすり抜けてメルルファの元へ飛んでいく水晶を見送りながら、明は今一度、己の確固たる決意を胸の内に刻みつける。
(この作戦は、何がなんでも成功させる。他の誰でもない、あの子のために)
 仮に、3曲目の演奏が終了した時点でメルルファが「かたち」を得られなかった場合は、〈水薙〉の持ち主であり水晶の主である明の手によって、この〈大水薙結界〉を死の檻へと変じてメルルファを滅ぼす手筈になっている。
(俺は、海洋怪異対策室の一員として、今この場に立っている。水晶だって、主が自分勝手で無責任な振る舞いをする事なんか望まないはずだ)
 明は、小さく顔を歪めた。
 もしも、作戦が失敗して、明がメルルファを滅ぼすことになったら。水晶はきっと、私情を排して責務を全うした明を受け入れ、許すだろう。そして、これまでと同じように、友を殺めた自分を主と呼んで、慕い続けてくれるに違いない。
 この先何十年と、ずっとずっと――
(そんな残酷なこと、させてたまるか!)
 明は手元のキーボードに指を添えると、何万回と繰り返した五線譜を瞼の裏に映し出した。


 いにしえまじないと渡来の調べ、邪悪な謀略と無垢なる願い。そして、怪異と人間が入り乱れた天地の狭間で、たえなる「あわい」の祭典が今、幕を開ける。
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