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作者: こむらまこと
第68話 中ノ瀬航路あやかしロックフェス!〈プロローグ〉
 東京湾の中央に、第二海堡かいほうと呼ばれる人工島が存在する。
 東側約190m、西側約270mの「へ」の字型をしたこの島は、首都防衛のための海上要塞として明治から大正にかけて造成され、砲台や掩蔽えんぺい壕などの軍事施設が設置された。その後、関東大震災や敗戦などを経て灯台が建造され、現在では歴史的な遺構として、東京湾を往き来する船を静かに見守っている。
 その第二海堡の砲塔観測台に、ひとりの男が佇んでいた。
 軍用トレンチコートやカーゴパンツ、タクティカルブーツなどの軍放出品で全身を固めたこの男は、肩までの髪を潮風にひるがえらせながら、多種多様な船が行き交う薄鈍色にびいろの天地を前に、半眼の状態でじっとその場に立ち尽くしている。
「――――ッ」
 男の嗅覚が、潮風に混じる甘い匂いを捉えた。
 同時に、潮風は弱まり、波音も遠ざかって、行き交う船は現世うつしよの向こう側へと霞んでいく。
 男は乾いた唇を引き結ぶと、右手をトレンチコートのポケットから出し、左脇に抱えていた深緑色の分厚い本を掴み取った。
「…………」
 2匹の蛇が絡み合うメルクリウスの杖・カデュケウスが描かれた表紙に視線を落とし、すぐに目を背ける。
 あらかじ栞紐しおりひもを挟んでおいたページを開き、海に向かって片手で本を差し出すと、感情のこもらない平坦な声でその名を口にした。
「第五章『朽ちた神殿』――――〈メルルファ〉」
 深緑色の本が、強烈な光を発した。
 突き刺すような光芒が煉瓦造りの観測台に満ち溢れ、数秒で消失する。
 男は本を開いたまま、幽世かくりよの甘い匂いを含んだ大気にじっと耳を澄ませた。
「ッ!」
 うら悲しい歌声が、上空から漂ってきた。
 小さな鈴をそよ風に転がしたような静かで美しく、けれど深い悲しみをたたえた少女の声が、舞い上がっては落下して、彼方へと遠のき、此方こなたに近づいたりして、茫漠ぼうばくとした海の上を彷徨さまよい始める。
(成功、だな)
 男の胸に、小さな痛みが走った。
 柔肌を針で突っついたような小さくて、けれど鋭い痛みが、固く蓋をしていたはずの記憶を否応無く脳裏に響かせる。


『お父さんはね、このメルルファの場面が一番好きなんだよ』


「クソが!!」
 男が、砲塔台のへりに強く拳を叩き付けた。
 ざらついた煉瓦で皮膚が傷付くのも構わず、ジリジリと拳を擦り付けることで、胸を刺す痛みを強引に捩じ伏せようとする。
(これで良かったんだ、これで。どうせ俺はもう――)
 男はゆっくりと呼吸を整えると、擦り傷からじわりと血が滲むのに任せたまま、霞かけていた現世の船影に意識を集中させた。
 泣き声にも似た悲しげな歌声が遠ざかり、男の周囲に少しずつ潮風と波音が戻ってくる。男はさっきよりも少しだけ陽光の差した薄鈍色にびいろの天地を眺めながら、左の眼窩に嵌めた義眼にそっと触れた。
 義眼の表面を指でなぞって、己のはらわたを焼き焦がす憎悪のほむらが確かに存在していることを、強く強く意識に刻み付ける。
(俺には、憎しみさえあればそれでいい)
 義眼から指を離して瞑目すると、瞼の裏の闇を静かに凝視する。
 遠い日の暖かな思い出は今、汚泥の中に沈んで消えた。残るはただ、己を内側から焼き尽くす焔のみ。
 男は深緑色の本を脇に抱え直すと、落ち着いた足取りで第二海堡を去っていった。
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