▼詳細検索を開く
作者: こむらまこと
第60話 佐渡島サメ騒動! 〈二〉
 日本海側最大の島である、佐渡島。その大きさは東京23区よりもさらに広く、1日や2日で島全域を巡るなど不可能である。もっとも、まりかとカナがこの島を訪れたのは仕事が目的なのだから、初めての佐渡島を満喫できない事を気に病む必要性はどこにも無い。
 それでも、仕事に差し支えの無い範囲であれば多少の寄り道はしたくなるのが人情である。というわけで佐渡島に降り立ったふたりは現在、島の玄関口である両津湾を臨む姫埼灯台を訪れていた。
 ちなみに、まりかは既に〈海異〉対処時の服装に着替えている。金糸銀糸の刺繍が施された赤橙色の上衣とショートパンツ、紺色の手甲と脚絆、そして地下足袋。普段はハーフアップにしている髪は、すっきりとひとつに纏めた上で〈夕霧〉のみを挿していた。
「姫埼灯台はね、現存する日本最古の鉄製灯台なの」
 夕焼けに映える六角形のエレガントな灯台を上機嫌な顔で眺めながら、相変わらずの熱心さでカナに解説する。
「初点灯は1895年だから、北斗さんや昴さんとほぼ同い年ね。やっぱり意識は宿ってないけど、長い年月を経た建造物特有の重厚な雰囲気が漂ってくるわ」
「灯台とは、航海者たちの守護神的存在なんじゃろう?」
 敷地内を暇そうにブラブラと歩いていたカナだったが、まりかの熱烈トークに応じてようやく白塗りの灯台に目を向ける。
「それだけの永きに渡って人間の祈りを受けておれば、何らかの力を帯びるのは当然じゃろうて」
「神聖、とまではいかないけれど、それでも怪異やあやかしよりは精霊寄りの力の気配がするわよね」
「力というても、ごく微弱ではあるがな」
 灯台本体の観覧を終えると、ふたりはレンタカーに乗って今度こそ目的地へと出発した。姫埼灯台から車で5分とかからないその場所には、佐渡島のムジナたちの頂点に立つ5匹の大狢たちが島の各地から集っているはずである。
 助手席に座ってホチキス留めの資料をパラパラと捲りながら、カナが小さく鼻を鳴らした。 
「〈二ツ岩の団三郎〉に、〈ムジナの四天王〉か…………化け狸風情がいっちょ前に二つ名を冠するとはのう、つくづく奇っ怪な島じゃ」
「この島では『狸』じゃなくて『狢』よ! あと、頼むから絶対に大狢たちの前で煽るような発言をしないでちょうだい」
「分かっとるわい」
 カナは資料を閉じて後部座席に放り投げると、子供用の小さなリュックサックの中からペットボトル飲料を取り出してガブ飲みした。
「まあ、わしはジュース片手に高みの見物と決め込ませてもらうからのう、そのつもりで頑張るんじゃぞ」
「それで結構よ」
 まりかは前方を見つめたまま、カナの物言いを涼しい顔で受け流す。
「これは私が成すべき仕事なのだから、そんなの当然」
「むう」
 その毅然とした横顔に、カナはいかにもつまらなさそうに頬を膨らませる。
 すると、まりかがボソリと言い足した。
「……まあでも、海の上でのことなら、あなたに手伝いを頼むかも」
 カーナビの無機質な音声が、目的地への到着を知らせた。まりかは駐車場に車を停めると、貴重品を含めた全ての荷物を車内に残して鍵をかけ、その鍵をカナのリュックサックの中に入れた。
「さてと」
 まりかはふっと息を吐いて肩の力を抜くと、夕闇の中に佇む石碑を固い表情でじっと見つめる。
 そこには、「八大龍王神社」と刻まれていた。



 夜闇に呑まれつつある木立のトンネルを眺めながら、カナが不思議そうにまりかに話しかける。
「そういや、何故にこの場所なんじゃろうな。もしや、この海の龍神かその配下が同席しておるのではないか」
「もしそうだとすると、正直ちょっと……というか、かなり嫌なんだけど」
 カナの推測に、まりかは頬に手を当ててため息をついた。過去に経験したある事件により、まりかは他の海の龍神に縁のある場所を極力避ける方針を採っている。
「だが、あれじゃろう?」
 その事件のあらましを既に聞いているカナは、明るい声を出して励まそうとした。
「蘇芳のアホは別として、怪異や妖が幽世かくりよ現世うつしよでどれだけ暴れ回ろうと、基本的には龍神は関わってこないのじゃろ? 今回だって、海とは関係のない狢たちが奔走しておるんじゃ。偶然に決まっとる」
「そう……そうね。というか、どの道行かなきゃいけないんだから、腹を括るしかないわね」
 まりかは深呼吸をしてキッと表情を引き締めると、赤色の襷でしっかりと袂を固定した。そうして、神社へと続く木立のトンネルを迷いのない足取りで歩き出す。
 一方のカナは、この数ヶ月の定番スタイルであるTシャツと黒タイツという姿からするりと変化へんげすると、本来のクジラ型人魚の姿を現した。上半身は裸で、左右の腰骨の辺りからは小さめの胸びれが生えており、尾びれの幅は肩幅よりも広い。そして、その金色こんじきの瞳は夜闇の中にあってますます輝きを増していた。
「ほいじゃ、佐渡の狢とやらのお手並みを拝見させてもらうとするかのう」
 緊張の欠片も感じられない声でそう言うと、尾びれで力強く宙を叩いてまりかの後に続く。
 ふたりは無言のままトンネルを進み、小さな社殿と鳥居が薄ぼんやりと見えてきたところで立ち止まった。
「幽世ね」
「うむ」
 まりかは軽く目を瞑ると、全感覚を研ぎ澄まして周囲を探った。潮風にそよいでいたはずの木々たちは静まり返り、夜ともなれば餌を求めて走り回るはずの小動物たちも、じっと息を潜めてこちらの様子を伺っている。
 そして、微かに潮の香りが混じった幽世特有の甘い大気が、鳥居の方から緩やかに漂ってきていた。
 まりかはおもむろに髪から簪を抜き取ると、凛とした声でその名を呼んだ。 
「〈夕霧〉」
 次の瞬間、まりかの手の中に一本のじょうが出現した。
 かつて、龍神・蘇芳が手ずからまりかに賜った龍神の宝具であり、まりかによって名付けられた愛刀ならぬ愛杖・〈夕霧〉。その表面は、深海の青を切り取ったような繊細で美しいグラデーションで彩られていた。
「よろしくね、〈夕霧〉」
 口元に〈夕霧〉を引き寄せて囁くと、右手で杖の真ん中を持って身体の横に提げ、散歩でもする時のような軽い足取りで鳥居に向かって歩き出した。カナも、まりかから数歩遅れてゆるゆると尾びれを振って続く。
 まりかの片足が、鳥居の向こう側に着地した。
 幽世の大気が一気に濃くなり、むせ返るような甘じょっぱい匂いが、まりかの全身にねっとりとまとまりついてくる。しかし、幼い頃から日常の延長として幽世に出入りしていたまりかが、そのような些事に気を取られるはずが無かった。
 ましてや、松前の資料を徹底的に読み込んだ後ならば――
「っ!」
 突如として頭上から襲ってきた殺気に、まりかはとっさに〈夕霧〉を構えた。
 カーーンッ!
 木と木が激しくぶつかり合う気っ風きっぷの良い音が、小さな境内に反響する。
(お面!?)
 墨を流し込んだような真っ暗闇とはいえ、ここは幽世。強い霊力を持つまりかの目には、杖を挟んで向かい合うその妖が面を被っているのがはっきりと認識できた。
「ヤイッ!!」
 まりかは腹の底から気合いを発すると、その面を真っ二つに割る勢いで杖を振り下ろした。
 ヒュンッ。
 面を被った妖は宙で身をよじって杖を避けると、サッと飛び退いて間合いよりも少し遠い位置に着地した。
 まりかは慌てることなく右足を退いて半身になると、杖の中央を右手で持ち、左手を杖先に添えて右胸に引き付ける引落ひきおとしの構えをとった。その上で、闇の中にぼんやりと浮かび上がる面をキッと睨みつける。
(間違いない。このひと禅達ぜんたつさんね)
 まりかは、松前の資料の一節を思い起こした。
『最も警戒するべきは、〈二ツ岩の団三郎〉の配下である〈ムジナの四天王〉のうちのひとり、〈徳和の禅達〉です。彼の気性を考えると、我が曽祖父の制止など聞かず、朝霧さんの実力を試そうとするでしょう。その外見的特徴は――』 
 まりかより若干高いくらいの背丈に、裾が擦り切れた袈裟を身に着け、足元は裸足。髪は短く刈り込まれ、何かの獣を模した面が顔全体を覆っている。狐面と呼ぶには輪郭がまろ味を帯びたその面は、描かれた模様から類推するに狸面ならぬ「狢面」だろうと思われた。
「やれやれ。狸だてらに坊主の真似事ときたか。この島の狸共は、ほんに個性豊かなことじゃのう」
 互いに得物を構えた状態で睨み合うまりかと禅達を、カナはペットボトル飲料をチビチビと舐めながら地べたに横たわって眺めている。
 すると、背後の木立からガサゴソと音を立てながら何かが飛び出してきた。
「この島じゃ、ちゃんと『狢』って言ったほうが良いぜ」
「はん?」
 振り向くと、一匹の怪異化した狢が四本足でトコトコと歩いてくるところだった。そのまま当然のようにカナの隣に座ると、どこからともなく源蔵徳利を取り出して中身をあおり始める。
「俺は気にしねえけど、他の連中はそういうのうるせぇから」
「誰じゃ、お前」
 胡散臭げにジロジロと自分を眺めるカナを、その狢も同じく胡散臭げにギョロリと見返す。
「いや、お前こそ誰だよ。人魚がついて来るなんて聞いてねえぞ」
「ついて来ちゃ悪いか」
「悪いってことはねえけどよ」
 その狢は面倒臭そうに首を振ると、カナから視線を外して源蔵徳利をあおった。カナもその狢に危険は無いと判断したため、とりあえずは目の前の睨み合いに集中することにする。
「――――」
 引落の構えで禅達を睨み続けるまりかに対して、禅達が突き付けるのは持ち手がT字形をした撞木杖しゅもくづえという名の杖だった。本来は武器としての用途は無いのだが、いざ突き付けられると、T字形の持ち手が凶悪な鉤爪にも思えてくるから不思議である。
 しかし、禅達はふいに撞木杖を突き付けるのを止めると、ゆっくりと身体の横に着いた。まりかも禅達に合わせて引落の構えを解くと、油断なく禅達の動きを注視したまま着杖つきづえの姿勢をとる。
 数秒の沈黙の後、禅達がその狢面の向こうから大喝一声だいかついっせいを轟かせた。
隻手音声せきしゅおんじょう!」
「――――ッ!」
 禅達の大音声に、静かな幽世の大気がビリビリと振動する。
両掌りょうしょう打って音声おんじょうあり、隻手に何の音声やある。隻手の声を拈提ねんていせよ!」
「せきしゅ……ねんてい…………なんのこっちゃ」
「禅問答だよ」
「禅問答?」
 雷のような大音声に首をすくめるカナに、隣に座った狢が呆れた顔で禅達を眺めながら解説する。
「坊主の修行法でそういうのがあるんだよ。公案こうあんっつう問題を師匠が出して修行僧がそれの答えを考えるんだが、その考える過程にこそ意味があるっていう話だ」
 源蔵徳利から口を離して前足で拭うと、やれやれと溜め息をつく。
「禅達ちゃんの禅問答好きは、もうどうしようもねえからなあ。あの嬢ちゃんの実力を試すなんてのは建前で、本当のところは久々に人間と禅問答がしたかっただけだろうよ。付き合わされる身にもなれっつうの」
「それだけ分かっとるなら、止めれば良かろう。お前さんも四天王なんじゃろ?」
 カナが前を向いたまま、しれっと狢の正体に迫ろうとした。それを知ってか知らずか、狢はおどけた仕草で小さな前足をビシッとカナに突き付けてみせる。
「無理! だって俺、禅達ちゃんより弱いもん!」
「…………それで、あの禅達とやらは何を問うておるんじゃ。言葉が難しゅうてよう分からん」
 プライドの欠片も感じられない狢の情けない態度にはあえて突っ込まず、肝心の禅問答の内容について訊ねることにする。
「そのまんまの意味だよ。両手を打つと音がする、ならば片手ではどんな音がするか、という問いだ」
「なるほど、全く分からん」
「だな、俺も分からん」
 狢はふわりと欠伸をすると、興味津々といった様子でまりかを見つめる。
「さあて、嬢ちゃんは何と答えるかな」
 カナと狢がやり取りしている間に、まりかの答えは定まったらしい。まりかは着杖の姿勢をとったまま深呼吸をして顎を引くと、正面から禅達を見据えて声を張り上げた。
「それは、私よ!」
 境内に沈黙が広がる。禅達は微動だにせず、カナと狢はポカンと口を開けてまりかを凝視する。
「…………この杖を振るう時の足の運び、その息遣い、指の滑らせ方、あなたの動きを捉える瞳。私を構成する極微ごくびの如きひとつひとつの断片が、私という人間の体現」
 まりかが、口元に微笑を浮かべた。
「曇りなきまなこでもって私を見つめたならば、私を構成する極微たちの発する声なき声が自ずと聴こえるはず。それが、私の隻手の声。問うまでもなく、答えはあなたの目の前に存在する」
 再び、沈黙が広がった。カナと狢は顔を見合わせると、まりかの返答についてヒソヒソと話し合う。
「要するにこれは、遠回しに煽っておるのか? わざわざ試すような事をしなければ、実力を見抜くこともできぬのかと」
「ただ答えるに留まらず、逆に諭そうとするとは……やるじゃねえか、あの嬢ちゃん」
 狢が愉快そうに言ったところで、禅達が撞木杖でダンッと地面を打った。狢面のせいで表情は伺えないが、苛ついているような気配が感じ取れる。
「……まさか、この俺に説教を垂れるとは。我らの領域にあって、まるで恐れを知らぬその態度。度胸と覚悟は、本物のようだな」
 狢面の向こうから、面白くなさそうな声が上がった。それから、一度は引っ込めた撞木杖を再びまりかに向かって突き付ける。
「予習も怠らず、知恵もそこそこ回るときた。ならば次は、その武を試させてもらおうぞ」
「その前に、ひとつだけよろしいですか」
 まりかは着杖の姿勢を解くと、杖を身体の横に提げた。張り詰めた空気など意に介さず、禅達に対して人懐っこい笑みを向ける。
「私からも、公案を出題させていただきたいのですが」
「公案を、この俺に?」
 禅達はしばし黙考する。それから撞木杖を引っ込めると、面白がるような口調でまりかの申し出を受け入れた。
「ありとあらゆる公案を学び尽くしたこの俺に、人間の小娘が禅問答を仕掛けるか。良かろう、それほどまでに望むというならば、一太刀でもって切り捨ててやろうぞ」
「ありがとうございます」
 禅問答を剣客の立合いになぞらえた物騒極まりない表現を、まりかはさらりと受け流す。
 固唾を呑んで勝負の行方を見守るカナと狢の前で、まりかはその公案をすらすらと朗唱した。
「『那吒なた太子というのは、骨をいてこれを父に還し、肉を析いて母に還すと言います。それでは一体、那吒太子の本来身ほんらいしんとは何なのでしょうか』」
「ッ!!」
 禅達の雰囲気が明らかに一変した。
「むう?」
「なんだあ?」
 何かと葛藤するように撞木杖を握った拳を震わせる禅達を、カナと狢は訝しげに見つめる。
「…………クッ!」
 苦渋に満ちた唸り声が、禅達の喉の奥から絞り出された。そして、固く握り込んでいた拳をパッと開いて撞木杖を地面に放り出してしまう。
 今までの自信に満ちた立ち振舞いが嘘だったかのように、禅達はガックリとうなだれた。
「参った。完全に俺の負けだ」
「……どういうことじゃ?」
 禅問答の知識など皆無なカナは、隣に座った狢に説明を求めようとする。しかし、狢は呆気にとられたように禅達とまりかを見比べるだった。
「禅達が負けを認めただと……明日は雪でも降るんじゃねえの……」
 まりかが出題したのは、「景徳伝灯録」という禅宗の史伝書に収録された公案のうちのひとつである。投子大同とうすだいどうという名の和尚に対して先述の問いがなされたところ、投子和尚は手に持った杖を放り出すことで問いへの答えとしたと記されている。
 つまり、無為な戦いを避けるため、まりかは禅達が自らの意思で撞木杖を手放すように誘導したのである。
 かくして、佐渡島における狢たちとの初接触は、どうにか平和裏に終えられたのだった。



「いやあ、感服したぜ。どんな人間が来るものかとヒヤヒヤしていたが、これなら心配無さそうだな」
 カナの隣に座っていた狢が、ひょこりと後ろ足で立ち上がった。源蔵徳利をどこぞへと消し去ると、その姿をたちまちに人間へと変化へんげさせる。
 ほどなくして、まりかとカナの前に無精髭を生やした中年男が現れた。それにより、まりかはその正体を確信する。
「あなたが、松前聡さんの曽祖父、〈重屋おもやの源助〉さんですね」
 まりかは〈夕霧〉を簪に戻して髪に収めると、男に対して深々と頭を下げた。
「聡さんからお話は伺っています。この度は、初めての佐渡島訪問に際して細やかな配慮をいただき、大変助かりました。この通りお礼を申し上げます」
「礼なら、聡と他の縁類たちに言ってくれ。俺は大したことしてねえから」
 まりかの丁寧な挨拶に、源助は本当に何でもないような顔でへらりと手を振って返した。
『我が曽祖父・〈重屋の源助〉。佐渡島の狢としては少々変わり者ですが、四天王としての実力は確かです。万が一、他の大狢が朝霧さんに非友好的な態度を取ることがあれば、必ずや朝霧さんの味方となってくれるでしょう。何故なら――』
 まりかは、本性である狢から変化した源助の外見をさり気なく観察してみる。半袖の開襟シャツに、くたびれたスラックスと下駄履き。その特徴だけを見れば、一昔前のテレビドラマに脇役として出てきそうな野暮ったい雰囲気の男といったところである。もっとも、頭部に生えた狢の耳と腰から伸びる狢の尻尾が、源助が普通の人間ではないことを如実に示していた。
「相変わらず、だらしのない変化だな。仮にも四天王として恥ずかしくないのか」
 禅達が狢面の下で鼻を鳴らした。それに対し、源助はポリポリと頭を掻きながらいかにも鬱陶しそうに言い返す。
「うるせーな。この姿が一番しっくりくるんだよ」
「どうやら、あまり仲は良くなさそうじゃな」
 カナがまりかにコソリと囁く。まりかは微かに顎を動かしてカナに頷き返すと、穏やかな声で禅達に話しかけた。
「禅達さん。私が禅問答の達人であるあなたに勝てたのは、源助さんの子孫の方から、禅達さんについての情報を事前に教えてもらっていたからに過ぎません。ですので」
「小娘に慰められて喜ぶほど、俺は落ちぶれとらん。勝ちは勝ち、負けは負けだ。勝利の味は素直に噛み締めておくがいい」
「……ありがとうございます」
 まりかは、雨が降った後に地面が固まったようなじんわりとした安堵を感じながら深々と頭を下げた。
「やっぱり、俺の子孫はみんな俺に似て優秀だな!」
 丸く収まりかけた空気の中、源助が満足げに何度も頷いてみせた。松前の資料にも記されていた通り、自分の子孫のことは全員可愛く思っているらしい。
「貴様に似なかったから、優秀なのだろう」
 禅達が、ぶすっとした声を上げた。すると、源助がへらへらと笑いながら禅達をおちょくり始める。
「禅達ちゃーん! 人間に負けたからって八つ当たりしちゃ駄目だよー?」
「……」
 禅達が、撞木杖の先でスッと源助の顔を指した。剣呑な空気を察知したまりかとカナは、そろそろと音を立てずに数歩下がる。
「…………その減らず口、酒粕でも詰め込んで黙らせて」
「よさぬか! ご婦人方の前で見苦しいぞ!」
 鋭い一声が、木立の闇の中から飛び出してきた。
「あら」
「ふむ、次のが来たようじゃな」
 まりかとカナはキョロキョロと辺りを見回す。
 直後、闇に覆われていた小さな境内が、縁日の夜を想わせる幻想的な光で照らし出された。
Twitter