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作者: こむらまこと
第57話 牛鬼と濡女〈十二〉
 夜の磯場を全速力で駆け抜けた先に、淡い光を発する水晶の姿が見えてきた。
「村上さん!」
 梗子の呼びかけに、水晶の背後でダガーナイフを構えていた村上が安堵の表情を見せる。明は梗子の背中から飛び降りると、直刀を片手に村上のそばへと駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
「俺は平気。それより、菊池君こそ無事で良かった」
 明は村上の前に出て直刀を構えると、光の外の暗がりからこちらを睨みつける辻元の様子を観察する。
「これは……」
「見ての通りだ。こんな模造品を怖がるくらいだから、怪異としての力はかなり弱いけどね」
 村上はダガーナイフを軽く振ると、悩ましげにため息をついた。
 左右四対の蜘蛛の足に、額から生える二本の角。口には獰猛な牙が生え、眼球は完全に白濁している。
 その名も、土蜘蛛。辻元残波は、すっかり怪異へと成れ果ててしまっていた。
「このままでは、連れ戻したところで肉体には戻せない。どうにかして浄化しないと」
 村上が額に手を当てて首を振る。 
「ここまで怪異化が進むとはな……一体、どれだけの時間を幽世で過ごしたんだ?」
 梗子も顔をしかめて辻元を眺めながら、半ば独り言のように呟く。
(孔雀明王真言……駄目だ、もう霊力が残っていない。何か他の方法を……)
 ふらつく身体を気力で支えながら、明も必死で頭を回転させる。
 異変が起きたのは、その時だった。
「キシャアアアアッ!」
 土蜘蛛となった辻元が激しく威嚇しながら、その口から何かを吐き出し始めたのだ。
「毒霧!?」
 驚いているうちに、いかにも毒々しい緑色をした霧がモクモクと明たちの方へと迫ってくる。
 明はとっさに、直刀で毒霧に斬りつけた。
「ヤアッ!」
 鋭い一閃と共に、毒霧を構成する粒子のひとつひとつが清浄な光に包まれる。
「へ?」
 拍子抜けするほど簡単に、毒霧は消滅してしまった。
 梗子と村上が、新たに判明した直刀の性能に感嘆の声を上げる。
「なんだよ、真言無しでも全然使えるじゃねえか」
「さすがは、龍神の宝具といったところだね」
 こうして思わぬ形で直刀の威力が発揮されたわけだが、肝心の問題はまだ何も解決していない。
「グルルルルル……」
 警戒して後退ずさる辻元を引き続き注視しながら、明は再び解決策を探り始めた。
(この直刀自体が浄化の力を持つというのなら、別に斬らなくても良いんじゃ……いや、それだと今度は時間がかかり過ぎる。迅速かつ確実に浄化できる手段を…………ん、待てよ?)
 明の脳裏に、数ヶ月前に石廊崎沖で目にした光景が閃いた。
 無数の輝く水滴で構成された幾何学模様と、宙を舞い踊る式神の少女。そして、迸る光の柱。
 明は弾かれたように振り向いた。
「水晶! 辻元の幽体を一切傷付けることなく浄化することは可能か!?」
「……」
 水晶は目をパチクリさせた。海異対においては補佐役に徹することのみを望まれているとばかり思い込んでいたため、つい戸惑ってしまう。
 しかし、熱意と期待が込められた明の眼差しに、すぐにパッと顔を輝かせた。
「はい! お任せ下さい!」
「え、ちょっと」
 村上の制止する声は、水晶の耳には届かなかった。
 オオミズナギドリの堂々とした翼を広げて明の前に躍り出ると、まずは祓いのことばを高らかに唱えた。
「『神火清明しんかせいめい、神水清明、神風清明』!」
「ギャアアッ」
 辻元が悲鳴を上げて身を縮こまらせた。水晶が放つ清廉な霊力が、汚濁にまみれた辻元の幽体をジワジワと責め苛む。
 悶え苦しむ辻元を足元に、水晶が波打ち際でひらりひらりと優美な舞を踊り始めた。
無明むみょうを照らす 黎明の空
 迷妄めいもうなだめる 夕凪の海』!」
 海水が、波飛沫の先から微細な粒子となって舞い上がり、燐光を帯びた水晶の翼に絡め取られていく。
「『我欲がよくに狂える 哀れな獣を
 あまねく慈悲で 導きたまえ』!」
 水晶の霊力を吸収した無数の水滴が、宝石のようにキラキラと輝きながら砂絵を描くように集結していく。
(そうか)
 稲妻に貫かれたような衝撃が、明の全身を駆け巡った。
(答えは、こんなに近くにあったのか)
 やがて、複雑な図形と梵字で構成された美しい幾何学模様が辻元の上空に展開された。
「『――還元せよ』」
 幾何学模様の中心に、バチバチと電光を放つ高エネルギー体が出現する。
 水晶は、そのあどけない顔に威厳を漂わせて辻元を睥睨すると、子供らしい伸びやかな声で力いっぱい叫んだ。
「『コバルトブルー・サンダーストリーム』!」
「ギャアアアアッ!」
 高エネルギー体から照射された光線が、あっという間に辻元を呑み込んでしまう。
「いや、これは……」
 村上が、冷や汗を流しながら光線を眺めている。隣に佇む梗子も、光線の中の辻元の有様を想像して乾いた笑い声を立てた。
「これでも、前に見たのよりは小規模っすよ……」
 やがて、光線と幾何学模様が消失すると、そこには完全に人の姿に戻った辻元が横たわっていた。
 すぐに村上が容態確認を行い、幽体に損傷が無いことを確認する。
「見事な浄化だ。君は本当に凄い式神だよ」
「ありがとうございます!」
 そうして水晶をねぎらった上で、明に対しては、水晶に力を行使させたことは軽率な判断であったと戒めた。
「未知の力である以上、今後も人間に対して使うことは控えた方が良い。それに、人智を超えた強大な力は、往々にして術者を破滅へと導いてしまう。菊池君なら心配無いとは思うけど、物事に絶対なんて有り得ないからさ」
「はい、以後気を付けます……」
 辻元の幽体を抱えた村上が梗子の背中に担がれて天使たちの待つ磯場へと去っていくと、その場には明と水晶のふたりだけが残った。
「我が主よ……」
「水晶は何も悪くないよ」
 シュンと萎れてしまった水晶を優しく励ますと、直刀の柄を両手で持って刀身を立てる。
「それよりも、聞いてほしいことがあるんだ」
 仄かに赤い光を反射する刀身を眺めながら、明は朗らかな口調で水晶に打ち明けた。
「この直刀の名前を決めたんだ」
「えっ、今ですか?」
「うん」
 明が、水晶の顔を見た。その表情は、普段と何も変わらない穏やかなものである。
「さっき、水晶が宙を舞っているのを見て決めたんだ。これ以上に相応しい名前は、きっと存在しない」
「私を見て……?」
「そうだよ」
 明はくすりと笑うと、そのとてつもなく重要な決定事項を、ごく自然に、あっさりと口にした。
「水晶の前身、オオミズナギドリから取って、ミズナギ……水薙と名付けようと思うんだけど、どうかな」
「!!」
 全く想像だにしなかった明の提案に、数秒ほど水晶の動きが停止した。
(龍神の宝具に付ける名前を、わ、私から……?)
 嬉しさと、恥ずかしさと、それから誇らしさと。
 色んな感情が一気に水晶の胸に押し寄せて、全身がカアッと熱くなる。
「水晶?」 
 一言も発さない水晶の顔を、明が心配そうな顔で覗き込む。
「……もしかして、嫌」
「そんなことありませんっ!」
 水晶が慌てて返事をした。
 そして、明に対して深々とお辞儀をする。
「是非とも、そのっ……よろしくお願いします!」
「お、おう」
 畏まってしまった水晶を見て、明はようやくその胸中を察した。そして、この2ヶ月で何度目になるか分からない自己嫌悪に陥る。
(もっと女の子の気持ちを想像できるようにならないとな……また朝霧に相談してみるか……)
 明と水晶は気を取り直すと、改めて直刀と向かい合った。
「それじゃあ」
「はい」
 明は金属製の柄をしっかりと握り直すと、なるべく威厳を感じさせるような声で直刀に宣言した。
「今日からお前の名前は、ミズナギ――妖刀・〈水薙〉だ。これからもよろしくな」
「よろしくね、〈水薙〉!」
 その直後のこと。
「わっ!?」
「きゃっ」
 〈水薙〉の刀身が、直視が叶わぬほどの眩い輝きを放った。
「つうっ……」
 反射的に眼を庇いながら顔を背けるが、数秒で光は収まってしまう。
 刀身に視線を戻したふたりは、ほぼ同時にとある変化に気が付いた。
「色が……」
「色が、変わってます」
 仄かに赤い光を反射していたはずの刀身が、青い光を反射していた。
 明は戸惑いながら、色々な角度から刀身を観察してみる。
「これは……了承の意思と受け取って良いんだろうか」
「きっとそうですよ!」
 水晶が、力強く明の言葉を肯定した。そして、透き通った海を想わせる美しい青を反射する刀身を眺めながら、こんな感想を口にする。
「なんだか、喜んでるみたいです」
「……ああ、そうだな」
 その嬉しそうな横顔に、明は頬を緩ませる。
 それから、今度は心の中で生まれ変わった龍神の宝具に話しかけてみた。
(よろしくな、〈水薙〉)
(……)
 〈水薙〉からの反応は無い。それでも、今までとは決定的に何かが変わったという確かな手応えが、ひんやりとした金属製の柄から伝わってくる。
(横浜に帰ってから、ゆっくり話しかけてみよう)
 直刃すぐはの波紋が浮かぶ刀身をそっと撫でながら、未だ聴くことが叶わぬ〈水薙〉の声に想いを馳せる。
 夜闇に塗り込められた昏い幽世にあって、明と水晶、そして〈水薙〉がいるその場所だけが、暖かな光に包まれていた。



***



 菊池明が水晶との絆をより一層深めていた頃、三方を断崖絶壁に囲まれた磯場では、九鬼龍蔵が厳しい監視の目を野分のわきに注いでいた。
「そんな怖い顔すんなよ、龍蔵。オレは逃げも隠れもしねえし、今更お前らを取って喰おうとか思わねえって。それよか、聞いてほしい事がわんさかあるんだ」
 野分はそう言って、燐光を帯びる自身の身体をしかめっ面で見下ろした。
 明が愛染明王真言の力を行使したことにより、野分は完全に元の牛鬼へと戻っていた。身体の横の皮膜と鉤爪は3日前よりも大きくなり、その口調や態度からも「王」らしからぬぞんざいな印象を受ける。
 問題は、その真言の効力が未だに野分の身体に残っていることだった。
「完全に消えるまでは触らん方がええ」
「くそっ、もどかしいな……」
 九鬼の横では、楓が野分に近づこうとしている那智をやんわりと引き留めている。
「あのガキ、無駄に霊力を込めすぎだっつーの」
 同じく野分も焦れったそうな表情で那智を見つめながら、獰猛な牙の隙間から愚痴をこぼした。仮に、渡辺隼人がこの場に居合わせたとしたら、「オーバーキルですね!」とでもコメントしていたことだろう。しかし、ゲーム用語の知識を持ち合わせない九鬼としては、明の今後の課題として淡々と受け止めるのみである。
 九鬼は咳払いをすると、いよいよ野分の「尋問」に取り掛かった。
「こちらも、聞きたいことは山ほどある。そうだな……まずは、例の性悪女について覚えていることを全部話せ」
「おう、望むところよ」
 野分は九鬼の高圧的な態度を意に介する様子もなく、むしろ待ってましたとばかりに、九鬼の求める情報を洗いざらい喋り始めた。
「実験にもようやく慣れてきたある日のことだった。次期会長候補の男から、たまには違う店に行ってみようと言われて、あの店に連れていかれたんだよ。そこから、全てが狂っていった――」
 「CLUB翠雲山」という名前のその店は、内装や店員の制服、メニューに至るまでが中国風という一風変わったクラブだったという。もっとも、野分としては紹興酒とピータンが多少気に入ったくらいで、特に興味を惹かれる要素は無かった。
「どんちゃん騒ぎも半ばを過ぎた頃に、あの女が現れたんだが……今でも信じられないことだが、ものの数分で、オレはすっかり女の虜になっちまったのさ……」
 布面積がやや小さい中国風の衣装と濃厚な桃の香りを纏ったその女は、店の中央に設置されたステージに上がると、蜘蛛の絵が描かれた扇を片手にあでやかに踊り始めたという。
「オレは、その女から目が離せなかった。どんなに美しくとも、オレにとって人間の女なんざ柔らかくて美味しい肉でしかなかったはずなんだが……多分、あの踊りのせいだ。あれに幻惑されたんだ……」
 踊り終わった女はステージを下りると、当然のように野分の隣に着席した。
『初めまして、鷹取会会長さん』
 過不足なく肉がついた柔らかな女体が、笹倉公平に擬態した野分の身体にピタリと押し付けられる。
『ねえ、お話しましょうよ』
 おっとりとした印象の目を扇の縁から覗かせて、上目遣いで自分を見つめるその姿に、野分はすっかり心を鷲掴みにされてしまった。
「――その女は、〈羅刹女らせつにょ〉と名乗った。もちろん店での名前なんだが、結局、あの女はそれ以外の名前を何一つ最後まで口にしようとしなかったな……とにかく、オレは女に誘われるままに店を出て、市内の宿泊施設で一夜を明かしたんだ」
 そうして、野分と〈羅刹女〉との逢瀬が始まった。事務所を辞した後、「CLUB翠雲山」で楽しく飲み食いしてから、〈羅刹女〉と共に宿泊施設で一夜を明かす。頻度は、那智を警戒していたため週に2、3回。逢瀬に際しては〈羅刹女〉による細やかな指示のもと、那智への事前連絡は必ず行い、事務所に出勤する前には、自分を単なる食糧だと認識するように念入りに言い含めてきた。
 九鬼は、顎に手を当てて口の中で小さく唸った。
「……那智を警戒し、自分を食糧と考えろなどと命じてくることについて、何も疑問に感じなかったということか?」
「そうだな……こうして振り返ってみるとつくづく異常だったと思えるんだが、あの時はそれがおかしいことだとは全く認識できなかった……そうだ、重要な事を思い出した! いつ頃からか記憶が定かじゃないんだがな、あの女はいつの間にか、オレのことを笹倉公平ではなく牛鬼の野分として接するようになっていたんだ――」
 ある夜のこと。宿泊施設の高級ソファでくつろいでいるところ、女が1冊の絵本を野分に見せてきた。
『これはね、西遊記という物語のうち、牛魔王と鉄扇公主――羅刹女が、孫悟空を相手に奮闘する場面を描いたものよ』
『ギュウマオウ?』
 野分は、女が示した絵本の1ページに目を引かれた。中国風の甲冑を装着して大斧を振り上げる堂々とした姿は、自分とは全く縁遠い存在だと感じたものである。
 しかし、〈羅刹女〉はそれを強く否定した。
『そんな事ないわ、。あなたには、その資質がある。現に、鷹取会の会長さんとしての役目を立派にこなしているじゃないの』
『いや、あれは』
『ねえ、野分』
 〈羅刹女〉は蜘蛛の扇から顔を覗かせると、妖艶な目で野分を見つめながらこう訴えた。
『あなたはね、牛魔王になるべきなのよ』
 とろけるような甘い声が野分の耳をくすぐり、頭の中でぐるぐると回り続ける。それは宿泊施設を出てからも続き、いつまで経っても野分の頭の片隅から消えることは無かった。
「……ああ、そうだ。そもそもは、あの女が言い出したことだったんだ」
「どういうことだ?」
 意味が飲み込めず、九鬼が聞き返す。野分は忌々しそうに牙を剥き出すと、その時のやり取りを詳しく説明してみせた。
『――ねえ、野分。また、あの話を聴かせてよ』
 幾度も逢瀬を重ねたある夜のこと、〈羅刹女〉がこのように頼んできた。
『あの話? 何のことだ?』
『あら、何を言ってるの?』
 怪訝そうな顔をする野分を、〈羅刹女〉がいかにも不思議そうにじっと見つめる。そして、例のごとく扇の向こう側から甘ったるい声でこう言ったという。
『オレは必ず牛魔王になるんだって、あなたずっと言ってたじゃないの――』
 野分はあっさりと、〈羅刹女〉の言葉を受け入れた。
「……あれが、ひとつの契機だった。すっかり牛魔王を目指す気になったオレは、女のはなんでも受け入れた。人間を喰う頻度を減らして、人間の食事から妖力を補うようにしたり……それと、できる限り長時間、笹倉公平の姿で過ごすようにと求められもしたな」
 これについて野分は、これでは牛魔王ではなく笹倉公平そのものになってしまうのではと〈羅刹女〉に質問したという。
 すると、〈羅刹女〉は桃色の唇に薄笑いを浮かべてこう答えた。
『安心して。あなたは、笹倉公平という繭の中で、牛魔王へと変質するのだから――』
 想像を遥かに上回る手の込んだやり口に、九鬼は軽く頭痛を覚えて眉間を指で押さえた。
(狙った獲物を少しずつ糸で絡め取るようなこの手口……羅刹女というより、絡新婦ジョロウグモとでも呼ぶべきだな)
 そんな九鬼の心境を知ってか知らずか、野分はそのまま怒り心頭といった様子で話を続ける。
「あの女、最初は那智を殺せと言ってきたんだぜ!? だが、いくら何でもそれは無理だと言ったら、今度は攻め方を変えてきたんだ。曰く、『那智を否定する必要は無い。大切な想い出として封印するのよ』だとよ! 情けねえ話だが、何度も繰り返し言い聞かされているうちに、それが正しいことのように思えてきたんだ」
 結果、城ヶ島は馬の背洞門にて「封印の儀式」が行われる運びとなった。予め手渡されていた大斧で那智の背中を穿って妖力を奪った上で、密かに後をつけてきた〈羅刹女〉と共に那智を海中に沈めたのだった。
 そこまで話すと、野分は怒りの中に悔恨を滲ませながら、逞しい肩を小刻みに震わせた。 
「オレは……オレは那智を……それこそ自分の命よりも大切な女を、よりにもよってこの手で傷つけちまって……操られていたことなんざ言い訳にならねえ……オレは、もう…………」
 なんの悪戯か、ここで野分を覆っていた燐光が消えた。それを見るなり、那智は楓の手を振り払って野分の胸の中に飛び込む。
「野分!」
 那智と野分は、熱い抱擁を交わしていた。
「もういい、もういいんだっ! 全部、私のせいなんだ……私が、もっとしっかり……」
「那智……!」
「やれやれ」
 九鬼と楓は顔を見合わせると、少しの間だけ空気を読んでやることにした。
(結局のところ、実験とやらは大失敗に終わったということになるのだろうな)
 感動の再会を果たす牛鬼と濡女を眺めながら、九鬼はそのように結論づけてみる。
 この謀略の網を張り巡らせた何者かは、妖同士の愛など人間のそれより劣るものだと高を括っていたに違いない。それがいざ実行してみれば、野分という名前すら奪うことが出来なかったという体たらくである。
 九鬼は周囲を見回して、村上たちがまだ戻らないことを確認する。
(全員が揃うまでは、野分に喋らせておくとするか。問題はその後だ)
 この後に待ち構えるだろう「作業」のことを考えて、九鬼は陰鬱な気分になる。
 実のところ、少なくとも今すぐには野分を殺すつもりは無かった。理由は単純で、野分から徹底して情報を聞き出すようにという指示を受けているからである。
『とりあえず封印しておいて、後日ゆっくりと話を聞き出せば良いんじゃないの。その後のことは、九鬼君に全部お任せするよ』
 電話越しの声を思い返し、心の中で悪態をつく。
(たまには現場に出てきて自分の手を汚せばいいものを。どうせ、痛む心など持たぬくせに)
 九鬼はウンザリする気持ちを振り払うと、再び咳払いをして野分と那智の注意を引いた。
「取り込み中のところ悪いが、聞きたいことがまだまだ沢山ある。とりあえず、例の女について覚えている限りを話せ」
 九鬼の割り込みに、野分は露骨に嫌そうな顔をする。しかし、意外にも那智が協力的な態度を見せてきた。
「私も、その〈羅刹女〉とやらのことをたっぷりと知りたいものだ。可能ならば、是非ともお近づきになりたいと思っているんだよ」
 そう言って、オリーブ色の蛇の目を剣呑に細める。
「那智……」
 野分は感極まったように呟くと、何から話したものかと〈羅刹女〉についての記憶を手繰り始めた。 
(……そういや、変な入れ墨が入ってたな)
 女の下腹部に、文様化された2種類の生き物が描かれていたのを野分は思い出す。
 片方は蜘蛛、もう片方は――
 野分は早速、その事実を口にしようとした。
「――――ッ」
「野分?」
「どうした?」
 ポカンと口を開けたまま動きを止めた野分を、那智と九鬼が怪訝そうに見つめる。しかし、既に野分には、ふたりの声は聞こえていなかった――


『ねえ、野分。あたしのこと、なーんにも話しちゃダメよ?』
 女が柔らかな身体を押し付けながら、とろりとした甘い声で野分に訴えかけてくる。
『今こうして話していること含めて、全部っつうことか?』
『そうよ。あたしの見た目とか、持ち物とか、そういうのもダメなんだからね?』
 熟れすぎて腐敗する直前の桃に似た香りを吐息と共に吐き出しながら、上目遣いで野分を見つめる。
『まあ、なんかよく分からねえが、そこまで言うなら黙っといてやるよ』
 野分は女の下腹部の入れ墨を眺めながら、何気なく訊ねてみる。
『だがよ。もしも、オレがうっかり話しちまったらどうするんだ?』
『……ふふっ』
 すると女は、桃色の唇を蜘蛛の扇に寄せて命じたのだった。


『死んでちょーだい』


「…………あぎゃああああああっ!」
 突如として野分が絶叫した。
「ひぎいいいいいいっ!」
「!?」
「なっ!?」
 苦悶の表情で喉を掻きむしる野分を前に、九鬼と楓はどう対応すべきかしばし逡巡する。しかし、真っ先に動こうとしたのは那智だった。
「野分!」
「あかん!」
 楓はとっさに、那智を野分から引き離した。当然、那智は楓を振り解こうとするが、そんな那智の目の前で事態は無慈悲に進行していく。
「ぎいいいいいっ!」
 野分の全身の皮膚が、ブクブクと膨れ始めた。
「チッ」
 九鬼は迷いを振り切ると、野分に駆け寄ってどうにか助けようと試みる。
 じゅっ。
 膨れた皮膚に触れた手に、激痛が走った。
「クソッ!」
 爛れた手を押さえて飛び退く間にも、野分の身体はみるみるうちに崩れていく。野分の喉から、ごぼごぼという湿った音が溢れ出る。
「野分! 野分!」
 楓に羽交い締めにされた那智が、それでもなお細い腕を必死に伸ばす。
「野分……!」
 打つ手を思いつく間もなく、野分の巨体は跡形もなく溶けて消えてしまった。
 那智の目の前に、鬼火のような野分の魂が現れた。
「のわ」
 その魂が、伸ばしかけた手の先で粉々に砕け散ってしまう。
「!?」
「魂が……!」
 楓はもちろん、滅多なことでは動揺を見せない九鬼も、無数の欠片となった魂を見て驚愕の表情を浮かべる。
 ほどなくして、魂の欠片も全て消えてしまった。
「あ……ああ……」
 那智は硬い岩場にストンと膝を着くと、野分がいた場所に転がっている物体を、震える手で拾い上げようとする。
「の、のわ」
 それは、椿の古根だった。
 おそらく数百年の歳月を経たであろう木の根は、那智が摘んだ指の中でボロボロと崩れてしまう。
「あ、ああ……ああああ……」
 粉々になった椿の古根を追いかけて、那智が硬くて冷たい岩場に這いつくばった。
「いやあああああああああっ………!!」
 慟哭が、海岸一帯に響き渡った。
「なん……なんなんや……」
「…………」
 急転直下の展開に、九鬼も楓も、思考と感情を追いつかせることで精一杯だった。もっとも、牛鬼を祓う立場にある人間が、現に牛鬼を喪った濡女に対してかける言葉など、持ち合わせるはずが無いのであるが。
(魂を、それも直接的ではない方法で砕くなど……そんなことができる存在がいるとすれば……)
 胸を引き裂くような那智の叫びを努めて聞き流しながら、楓はどうにか冷静に状況を分析しようとする。九鬼もまた、重苦しい表情で黙りこくったまま、今後の対応について素早く頭を巡らせている。
「……あはっ! あははっ! あははははっ!」
 那智が四つん這いの状態で、泣きながら笑い始めた。愛する男を目の前で殺されて、完全に狂ってしまったのだろう。
(むごたらしい)
 楓はふらりと那智に背中を向けると、放り出されたままの大斧に近づいた。
 真っ二つに折れた柄のうち、斧が付いた側を手に取ってトントンと指で叩いてみる。
「……ボール紙」 
「そのまま顔を動かさずに聞け」
 九鬼が、いつの間にか楓のすぐ横に近づいていた。
 同じようにしゃがんで大斧を眺める格好を取りながら、聞こえるか聞こえないか程度の声で楓に注意を促す。
「見張られている」
「…………追跡しますか?」
 心なしか普段よりも低い楓の声に、九鬼は爛れた手で大斧の柄を強く握り締める。
「必要無い。今はな」
「……」
 九鬼の意味深な言葉を、楓は目を伏せて受け止めた。


 断崖絶壁の影から、ひとりの女が磯場の様子を伺っていた。
 牛鬼が無事にその命を終えたことを確認すると、すたすたとその場を去っていった。
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