▼詳細検索を開く
作者: こむらまこと
第53話 牛鬼と濡女〈十〉
 夜闇に沈んだ幽世かくりよの磯場を、携帯用ランタンの強烈なLED光が照らしている。その光の外側で、梗子と楓、それから明と水晶は、上司であり魔術師でもある村上かけるが天使召喚の準備に勤しむのを静かに見守っていた。
 ちなみに、九鬼と那智は先に野分との約束の場所へと戻っている。
「天使って、本当に召喚できるのですね。霊的次元の存在が姿を現すなんて、いまいち実感が湧かないです」
「うちも、天使を見るのはこれが初めてやからなあ。それこそ、魔術師にでもならん限りおいそれとお目にかかれる存在やないし、これが貴重な機会いうのは間違いないわ」
 小さな折り畳み式の箱に黒い布を被せて即席の祭壇を作る村上を眺めながら、明と楓がやや興奮気味に囁き合う。
「天使って、霊的次元に住んでる精霊みたいな存在なんだっけ? どんなナリしてんだろうな……」
「なんだか、緊張します」
 楓や明とは対照的に、〈異形〉である梗子と式神の水晶は気乗りしない顔をしている。彼女たちにとって、天使というのは知的好奇心よりも畏れの感情が掻き立てられる存在であるらしい。
「前に村上さんから聞いた話やけど、天使いうのは『法と秩序の精霊』らしいわ。惑星の運行みたいなこの宇宙を構成する法則とか、生命の存続に欠かせないDNA転写の仕組みとか……あと、人間の作った法律とかスポーツのルールなんかにも天使がおるんやと」
「概念に宿る精霊ですか……」
「なんか、よく分かんねえや」
 楓が解説する間にも、儀式の準備は着々と進められていく。祭壇や魔術道具の設置を終え、砂地に蝋燭を3本立てて火を着けると、村上は作業の手を休めて部下たちに声をかけた。
「あまり時間が無いから、最低限の事だけ説明するよ。まずは、あの蝋燭について。あの炎が、天使たちの依代となる」
 村上が、砂地に立てられた3本の蝋燭を指さした。
「今から呼び出すのは、霊的次元の中で最も地上世界に近い場所に住まう、名も無き小さな天使たちだ。今回は、辻元の肉体の見張りという簡単な仕事をお任せするだけだから、この程度の火力で充分だ」
 次に村上は、祭壇に配置された魔術道具について説明する。
「これらは、それぞれが四大元素を象徴している。〈火の杖ファイヤーワンド〉、〈地の金貨アースペンタクル〉、〈風の剣エアーソード〉、それから〈水の杯ウォーターカップ〉。詳しくは、横浜に戻ってから話すよ」
 村上は懐から小瓶を2本取り出すと、まずは片方の中身を祭壇の手前に置かれた香炉に垂らした。すると、荘厳な神殿を連想させる高級な香りが祭壇の周りを漂い始める。
「これは、乳香と没薬だよ。どちらも、古来より神聖な儀式に用いられてきた歴史がある。これだけでも召喚儀式を行うことはできるけど、より相性の良い天使を引き寄せるために、ここにもうひとつ別の香りを追加する」
「天使との相性なんてあるんですか?」
「それが、あるんだよ。人間ほどではないけれど、彼らにも個性というものがあるからさ」
 意外そうな反応を見せる部下たちに、村上が悪戯っぽい笑みを向ける。
「天使に限らず、霊的次元の存在は地上世界の様々な『匂い』を味わうのが好きなんだ。洋の東西を問わず、儀式の時にはお香を炊いたりするでしょ」
「ええ、確かに」
「そして、個性があるくらいだから、好みの匂いも天使によって当然違ってくる。天使と魔術師、住む次元が異なる存在が互いの相性を確かめるには、この匂いを利用するのが手軽かつ有用なんだ」
「それはつまり、人間で言うところの『好きな食べ物が同じだと親近感が湧く』みたいなことどすか」
「大体そんな感じだね」
 村上は、もう片方の小瓶の中身を香炉に垂らした。最初の小瓶とは全く異なる、晴れ渡った空と海を想わせる爽やかな香りが香炉から立ち昇る。
「これは……」
「レモンと八朔だよ。それじゃあ、始めようか」
 荘厳さと爽やかさという相反する性質を兼ね備えた不思議な香りが漂う中、村上はランタンの明かりを完全に消すと、懐からダガーナイフを取り出した。
 ダガーナイフを片手に祭壇の前に佇む村上の姿が、闇の中、香炉と蝋燭の淡い光によって不気味に浮かび上がる。その村上が、はたと何かに気が付いたように部下たちの方を見た。
「そうだ。念の為に言っておくと、このダガーも〈風の剣〉も模造品だから。本物を使わなくても儀式はできるし、こんなの持ち歩いてたらアブナイ人だって思われるからね」
「あ、そうなのですね……そういえば、魔術の儀式では地面に魔法円を描くのだと思ってたのですけど」
「普通は描くよ。その方がやりやすいから。今回は状況が状況だし、魔法円に限らず色々と省略してるんだ。ただ、魔法円なら見られると思う」
「それは……」
「まあ、見ててよ」
 村上は部下たちに微笑むと、すぐに真剣な顔つきになって祭壇に向き直った。
 右手に持ったダガーナイフを頭上に掲げると、まずは額に軽く触れる。
「『アテー』」
 次に、剣先を真っ直ぐ下ろして足元を指す。
「『マルクト』」
 剣先を上げて、右肩に触れる。
「『ヴェ・ゲブラー』」
 横一直線に滑らせて、左肩に触れる。
「『ヴェ・ゲドゥラー』」 
 最後に、 ダガーナイフごと胸の前で両手を組むと、厳かな声でこう唱えた。
「『レオラーム・アーメン』」
 唱え終わると同時に、巨大な十字が村上の前に出現した。神秘的な青色の十字を見て、楓が微かな声で呟く。
「カバラ十字……」
 カバラ十字はすぐに消失した。村上は組んでいた手を解くと、東の方位に数歩進んで静止する。
 スっと右腕を前方に伸ばすと、何事かを唱えながら剣先で五芒星を描いていく。
「あれ、何語なのでしょうか」
「エノク語――天使の言語やったと思う。直接聞くのはうちも初めてやけど」
 村上は更に、五芒星の中央で剣先を細かく動かした。すると、中央に何かの象徴シンボルが描かれた青色の巨大な五芒星が村上の前に出現する。
「あれは、水瓶座の象徴ですね。占星術でも使うって聞きました」
「お前ら、やけに詳しいな」
「梗子が村上さんの話を聞いとらんだけやろ」
 カバラ十字と同様、五芒星もすぐに消失した。今度は南の方位に数歩進み、同様の手順を繰り返す。
「……ッ」
「なんや、梗子」
 梗子が、楓のマントを掴みながら背後に隠れた。顔だけをひょっこりと覗かせると、警戒心を露わに祭壇の方を睨みつける。
「近づいてる」
「っ!?」
「我が主よ……」
 水晶も、そのあどけない顔に不安と怯えの色を浮かべている。明はすかさず、自分の背後に隠れるよう水晶に促した。
 明と楓は息を凝らして、祭壇とその周辺の空間の変化を感じ取ろうとする。
(青い……でも、青くない)
 明は目を瞬いた。蝋燭と香炉の他に光源などあるはずもなく、祭壇の周辺は相変わらず夜闇に沈んでいる。にもかかわらず、目の前の空間が青色に染まりつつあると、そのようにしまう。
(もしかして、これが霊的次元?)
 霊的次元が漏出している――そんな表現が頭に浮かび、明の首筋がゾワゾワと粟立つ。
 かつてない経験に動揺する部下たちの様子を知ってか知らずか、村上は粛々と召喚儀式を進めていく。南の次に西、そして最後に北の方位を向いて五芒星と牡牛座の象徴を描くと、ダガーナイフを下ろして最初の位置に戻った。
  祭壇の周囲は今や、視覚では感知できない神聖な青で満たされている。神仏やその御使いたちが住まう霊的エネルギーに満ち溢れた空間、霊的次元。それが薄い膜を隔てたすぐ向こう側に迫っているという事実に、梗子と水晶はもちろん、明と楓も戦慄する。
 その清浄な青色の中、村上は大きく両腕を広げて半眼になると、厳かな声で天使たちへの願いを口にした。
「聖守護天使イエイエルの名の下に、魔術師ナーヴが請願する。清き鈴の音の無垢なる天使たちよ、この地上世界に姿を現し給え」
 唱え終わるや否や、村上の足元が青く輝いた。
(これは、魔法円!?)
 複雑な図形や文字列で構成された巨大な円が、村上を中心として幽世の磯場にくっきりと浮かび上がる。
「ッ!!」
 蝋燭の炎が、ひとりでに芯を離れた。明たちが注目する中、3つの小さな炎がゆっくりと回転し始める。
 回転速度を増すにつれ、炎は輝きを増しながら紡錘形へと変化し、更に上下方向に引き伸ばされていく。
 直視できない程の輝きを発するようになったところで、3つの炎は唐突に消失した。
 束の間の沈黙。村上は未だ、両腕を広げて半眼で直立している。
 次の瞬間。
「……え」
 明の口から間の抜けた声が漏れた。他の3人も、目の前に出現した天使たちをポカンとした表情で見つめている。
 左右一対の小さな翼と、小さな光輪。肌や服も含めた全身が白と白銀で構成されたその姿は、誰もがイメージする「天使」像と何ら相違の無いものである。
 ただし、大きさが人間の大人の頭部程度かつ二頭身であること、目も鼻も口も何も無いのっぺらぼうであることは、明たちにとって全く想像だにしないことだった。
 そして、明と楓が抱いた感想はというと。
「かわいい……」
「うそやろ、かわいいやん」
「あれに似てません? 飛騨高山の」
「確かに、なんか既視感ある思ったんや」
 あまりの意外性に興奮して囁き合う明と楓。他方、梗子と水晶は複雑そうな面持ちで三柱の天使たちを眺めている。
「まあ、見た目はな」
「ええ、見た目だけは……」
 それぞれの反応を見せる若手たちであったが、召喚儀式はまだ終わったわけではない。気が付くと、村上は魔法円の中心で跪いていた。
 天使も村上も、一言も発さないまま時間が経過する。
「思念でやり取りしてる」
 梗子が、声を潜めて明と楓に状況を伝える。
「梗子、分かるん?」
「内容まではわかんねえ」
 先に動いたのは天使たちだった。小さな翼をパタパタと動かしながら辻元の肉体にたどり着くと、その上にちょこんと腰を下ろした。
 村上はゆっくりと立ち上がると、カバラ十字の祓いを行い、聖守護天使に対して感謝の言葉を述べた。足元で輝いていた魔法円が消失し、幽世の磯場に再び闇が押し寄せる。ただし、天使たちが放つ清廉で柔らかな光のお陰で、辻元の肉体の周囲はそこそこの明るさを保ち続ける。
 村上は大きく息を吐くと、ようやく部下たちに目を向けた。
「これで肉体の方は大丈夫だ。天使には、龍神だってそうそう手出しできないからね」
 ダガーナイフを仕舞いながら、何事も無かったかのように次の行動に移っていく。
「それじゃあ、手筈通りに――」
 こうして天使召喚の興奮も冷めやらぬうちに、梗子は村上と共に辻元の捜索に向かい、楓と明、そして水晶は、野分との約束の場所へと急いだのだった。



 幽世のもったりとした大気が全身にまとわりつくのを感じながら、菊池明は静かに対戦の時を待ち構えている。
『ここで、私と野分は出会ったんだ』
 夕方、この場所に到着した際に那智が漏らした言葉を思い返しながら、明は周囲を見渡してみる。
 三方を断崖絶壁に囲まれたこの磯場は、三浦半島最南端の某漁港からほど近い距離に位置する。景勝地や釣りの穴場として有名なこの地も、夜ともなれば訪れる人間はまずいない。ましてやここは幽世、人ならざるものたちの領域であり、明たち人間の方が余っ程物であるといえるだろう。
 明は視線を戻すと、今度は本来の姿を現した龍神の宝具をじっと見つめる。
 反りのない真っ直ぐな刀身と、同じく反りのない短い切先。波紋は 直刃すぐはと呼ばれる単純な直線状をしており、金属製の柄と、柄の先に付いた環状の透かし彫り細工には、文様化された龍の姿が彫り込まれている。
(本人の意思を確認できれば、それが一番良いんだけどな)
 幽世の闇の中で薄らと赤い光を反射する刀身を、そっと指先でなぞってみる。龍神・蘇芳よりこの直刀を授けられてから今日まで、明は幾度となく直刀との意思疎通を試みてきた。しかし、何度試しても直刀から返ってくるのは、ジリジリと皮膚を焦がすような怒りと悲しみの感情のみ。蘇芳からは焦る必要は無いと言われたものの、明は内心、自分に至らない点があるからではないかと考え始めている。
(横浜に戻ったら、北斗さんたちに相談してみよう。何か良い方法を知ってるかもしれない)
 海洋怪異対策室の一員として何時いかなる時も適切に〈海異〉に対処するという責務がある以上、自然に任せるなどというのんびりした事を言っているわけにもいかない。
 つい先刻、村上たちと別れてこの磯場へ向かう道すがら、明は先輩である楓から、怪異と対峙するにあたっての心構えについて問われていた。九鬼が放った一言を受けたものであることはすぐに察したため、明は隠し立てすることなく、自身の正直な気持ちを楓の前で語った。
『怪異や妖というのは、自然現象や野生動物と同じようなものです。本能的欲求や衝動に従っているに過ぎない彼らを人間の都合で屠ることに対して、確かに割り切れない気持ちを抱いてはいます』
 刺すような楓の視線を臆することなく受け止めつつ、これまで誰にも語ることの無かった己の本心を闇の中に紡いでいく。
『でも、スキュラや牛鬼のように明らかに人間に害を成す存在ならば、躊躇いなく排除します。俺は人間社会で生きる人間ですし、野分が喰っていた密漁者たちだって、俺は同じ人間だと思っています。妖に対して憐れみを感じることと単なる駆除対象として捉えることは、俺の中では無理なく両立するのです』
 すると楓は、ため息と共に一定の理解を示した。
『菊池君は、そうなんやろうなあ』
 その上で、明の考えや心情はそうそう他人の理解を得られるものでは無いと厳しく指摘した。
『――結局は、実地で証明するしかあらへん。一片の迷いもなく、一刀両断の元に妖を葬り去ることが出来るという事実をまざまざと見せつける以外には、室長あの人の菊池君に対する見方を変えることは不可能やと思う』
 続けて、こうも言った。龍神の宝具を持つ以上、遠からずして「その日」は訪れるだろうと。
『それまではせいぜい、どんな意地悪を言われても耐え忍んで、自己研鑽に励むことやな――』
 明は楓とのやり取りを反芻しながら、両手で柄を握って刀身を立ててみる。
(最初は、真言無し。次は、真言を念じながら。真言は、あれを試してみるか……)
 九鬼との打ち合わせの結果、野分の正気をすぐに戻すことはせず、直刀の性能をより正確に把握するための「練習台」としてあの狂暴な妖を利用する方針となった。嬲るようで気が進まないが、この期に及んでそんな甘ったれたことを言っているわけにもいかない。
 ちなみに、野分を正気に戻す手段は既に決めていた。
「我が主よ」
 すぐ隣に控えていた水晶が、小声で明に話しかけてきた。その黒々としたつぶらな瞳は、海とは反対側の断崖絶壁を睨みつけている。
「妖の気配がします」
 見た目の幼さに似合わぬ鋭い声に、明だけでなく、楓と九鬼、そして那智も断崖絶壁を見上げる。月明かりも無い幽世の夜ではあったが、化外の存在である那智と水晶はもちろんのこと、元々夜目が効く九鬼、それから常人よりも霊力が強い楓と明には、断崖絶壁の上に現れた何者かがこちらを見下ろしているのを認識することができた。
「野分」
 那智が、愛おしい男の名を呟いた。その怯えと期待が入り交じった声に背中を押されるようにして、明は九鬼の横をすり抜けて前に出る。
 人影が、ひらりと断崖絶壁から飛び降りた。足場の悪い磯場に軽やかに着地すると、堂々とした足取りで一同の方へと近づいてくる。
 人影が、動きを止めた。
「……龍蔵」
 笹倉公平に擬態した野分が、怒気を含んだ声で九鬼に呼びかけた。
「お前は……お前だけは、違うと思っていた。他の人間共とは違う、卑怯さや狡猾さなどとは無縁の正々堂々としたおとこだと、オレは心の底から信じていたんだ……」
 隻眼がギョロリと不気味に動いて、明と楓、水晶を順番に睨み付ける。
「それをお前は、ものの見事に裏切りやがった……!」
「違うんだ!」
 那智が、堪らず叫んだ。
「私が、私が悪いんだっ! 何故なら、私はっ」
 蛇の鱗に覆われた細面が、計り知れない苦悶に大きく歪む。
「野分、お前を」
「龍蔵!」
 野分が、九鬼に向かって吼えた。那智の存在は完全に無視しているのか、未だに一瞥をくれることすらしていない。
「……無視しとるんやない。那智を認識しとらん」
「え?」
 楓が、野分から視線を外さずに声を潜めて自身の推測を伝える。
「多分やけど、そういう暗示がかかっとる」
「それは」
 問い返そうとした那智だったが、すぐに目の前の光景に目を奪われることになる。
 笹倉公平の皮が、ドロリと溶け出した。
「龍蔵」
 角が生え、口と鼻が大きく前に突き出す。溶けた皮の下からは褐色の獣毛が姿を現し、その体格もあっという間に九鬼よりも大きく膨れ上がる。
「オレは、お前のような卑怯者を喰らうつもりは毛頭無い。血も肉も骨も、全て一緒くたに切り刻んですり潰し、海に放り込んで魚の餌にしてやらあ……そこのガキ共も同じだ。ブツ切りにして磯場に撒き散らしてやろう」
 顔の中央に出現した巨大な単眼が、直刀を構える明と、九鬼の背後で事の推移を見守る楓に視線を這わせる。
 明の目の前に、完全に擬態を解いた野分が姿を現した。その姿は九鬼から何度も聞かされていた通りであるが、身体の横の皮膜や鉤爪に関して言えば、聞かされていたよりも更に縮小しているようにも思える。
 しかし、野分のはこれで終わりでは無かった。
「龍蔵。オレはな、喰らうべき人間を選ぶことにしたんだ。、なりふり構わず人間や家畜を襲って喰らい尽くすような、そんなみっともない真似は金輪際しないことにしたのさ」
 粗末なズボン履いただけの逞しい肉体の表面に、ゆらゆらと何かが出現する。
 蜃気楼のようなそれはあっという間に形を成すと、中国風の甲冑として野分の全身を覆った。
「なっ……」
「鎧兜!?」
「何故なら……何故ならオレは」
 野分は、想定外の展開に言葉を失う人間たちを嘲笑うかのように高々と拳を突き上げると、誇らしげに宣言したのだった。



「――――牛魔王へと生まれ変わったんだからな!」



「ギュウマオウ…………牛魔王!?」
 その正体に思い至った楓が、信じられないという顔で首を振る。そして、自分を見つめる那智と水晶に対して、狼狽しつつもどうにか説明を試みようとする。
「牛魔王ゆうのは、西遊記の火焔山の編に出てくるんやけど……でも、あれはお話のはずで……言うて、うちも成立の経緯まで詳しく知っとるわけや――」
 その一方、最前列で野分に対峙する明は、不思議と冷静な心持ちで〈変質オルタレーション〉を成し遂げた野分を観察していた。
(牛鬼を、鷹取会会長という名の『王』の座へと据えることにより、牛魔王へと変質させる……なるほど、そういうことだったのか)
 ストンと腑に落ちているうちに、今度は野分の頭上にユラユラと細長い物体が現れた。
(あれは、斧?)
 突き上げられた拳の中に、長い柄の先に大きな斧が付いた大斧たいふと呼ばれる武器が形成される。
「……菊池、予定変更だ」
 九鬼が、明を強引に押し退けた。
 その横顔には、明が初めて目にする焦燥の色が浮かんでいる。
「最初から最大出力で行け。俺が時間を稼ぐ――」
 聞き終わらないうちに、激しく横に突き飛ばさる。
「ッ!」
 直刀を握ったまま岩場に転がり、即座に起き上がる。
 目の前では既に、牛魔王・野分と九鬼との激しい攻防が繰り広げられていた。
「水晶!」
「はい!」
 明の呼びかけに、すぐ側から少女の声が返ってくる。その頼もしさに、明は乱れかけていた冷静さを瞬時に取り戻す。
 明は懐から数珠を取り出すと、毅然とした口調で水晶に指示を出した。
「水晶は、榊原さんと那智を最後まで護っていてくれ。例え俺の身に危険が及ぼうと、俺が成すべきことを成し終えるまでは、絶対に手出しをしないでほしい」
 水晶が、戸惑いの表情を浮かべた。
「えっ、でも」
「これは命令だ、水晶」
「……かしこまりました、我が主よ」
 普段は耳にすることの無い厳しい響きを含んだ主の言葉に、水晶は頭を垂れて承服の意を示す。
 明はその場に片膝を着くと、周囲の全てを意識の外に追い出した。
(何が目的なのか知らねえけど、思い通りにさせてたまるか) 
 全ては、邪悪な力によって分かたれた牛鬼と濡女を、再び結びつけるために。
 戦いの火蓋が今、切って落とされる。
Twitter