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作者: こむらまこと
第43話 牛鬼と濡女〈プロローグ〉
 レギュレーターから排出された気泡が、漆黒の海の中に溶けて消えていく。今夜は月が出ていたはずだが、その明るさがどうであれ、水深20m地点にいる平井頼人には全く関係が無い。頼りとするのは、背負った酸素ボンベとヘッドライト、それから過去の経験を元にした自身の勘である。
(これだけあれば、10万円にはなりそうだな)
 ヘッドライトが照らす目の前の岩場に手を伸ばしながら、平井は「臨時収入」の使い道について考えてみる。
 地元である横須賀に戻ってきたのは、数ヶ月前のことだった。それ以前は歌舞伎町の飲食店で働いていたのだが、些細なトラブルがきっかけで店長といさかいを起こし、半ば逃げるようにして歌舞伎町を後にした。
 それからは定職には就かず、建設現場で日銭を稼いだり、高校時代の元カノの家に転がり込んだりして適当に過ごしている。蓄えは減る一方だったが、さりとて労働への意欲も湧かず、無為な日々を重ねるのみ。
 そんなある日のこと、中学時代の先輩から今回の仕事の依頼が舞い込んできた。
『経験豊富な人手が急に必要になったんだ。俺の顔を立てると思って、なんとか頼まれてくれないか』
 最初は、断ろうと考えていた。「仕事」の稼ぎが破格なのは確かだが、いかんせん危険が大きすぎる。そもそも横須賀を離れたのも、「仕事」で調子に乗って体調を損ない、数日寝込んだことを友人たちに馬鹿にされたことがきっかけとなったくらいである。
 しかし、先輩はなかなか引き下がろうとしなかった。最終的には、背後にいる組織の存在をチラつかせることにより、ほとんど脅すようにして平井に仕事を押し付けてきた形である。
(消耗品は自分で用意しろとか言われてたら、バックレてたかもしれねえな)
 平井は、新品のダイビンググローブをはめた手を岩場の隙間に差し込むと、そこから何かを掴み出した。一瞥しておおよその大きさを確認してから、腰にゆわえた網の中に放り込む。網の中には既に、これまでに採捕した貝類がぎっしりと詰まっていた。
 平井拓真が引き受けた仕事。それは、密漁だった。今、平井が採捕しているのは「特定水産動植物」として漁業法で指定されている、日本古来の海の幸、アワビである。免許を受けた漁業者などの一部の例外を除いて原則として採捕が禁止されており、その漁業者にしても、乱獲を防ぐため、採捕の方法は素潜り漁と船の上から水中を覗き込む見突き漁に限定されている。
 だからこそ、酸素ボンベを用いたスキューバダイビングによる密漁では、面白いように大量のアワビが採れた。素早く泳ぎ回る魚類とは違ってアワビは移動速度が遅いため、採捕自体が容易ということもある。まさに濡れ手に粟ならぬ濡れ手にアワビだと、数年前に密漁を共にした仲間たちとは度々笑い合ったものである。
「っ!」
 ヘッドライトの光を横に滑らせた平井は、あるものを発見して目を細めた。
(あれ、アワビか? それにしてはデカ過ぎるな)
 足ヒレを動かして隣の岩場に近づくと、ゴツゴツした岩の上をのっそりと這うその生き物に手のひらをかざして大きさを比べてみる。
 その体長は平井の手よりも更に長く、25cmを超えると思われた。
(……まさか、マダカアワビ!?)
 思いがけぬ発見に、平井は興奮してゴクリと唾を飲み込んだ。
 マダカアワビは、日本で採れるアワビ類の中で最も大きく成長する種類である。生息水深も最大50mと最も深く、その希少性も高い。通常の流通ルートに乗ることは無く、その全てが高級料亭や高級寿司店に納められるという、まさに幻の食材だった。
 平井は腰にゆわえた網の中から小さなアワビをいくつか取り出すと、その辺の海中に放り捨てた。そうして充分なスペースを確保した上で、マダカアワビを両手で掴んで丁寧に網の中に収める。
(たまにやる分にはマジで最高なんだよなあ、密漁は)
 若く体力もあり運動神経も良い平井にとって、密漁は溺水や潜水病、逮捕されるリスクさえ無ければ文句なしの高収入バイトという位置づけである。
 平井はホクホクとした心境で、「臨時収入」の使い道について考えてみる。
(こんな泡銭あぶくぜに、一度に使っちまうに限るぜ。そうだ、高級店デビューしてやろう!)
 めくるめく妄想に顔がニヤけそうになるが、そこは流石に経験者、口にくわえたレギュレーターの隙間から海水が入るのは避けたいのでなんとか自制する。
 平井は、右手首のダイバーズウォッチに視線を落とした。
(潜り始めてから3時間か。お宝も手に入ったし、頃合いだな)
 顔を上げると、キョロキョロと辺りを見回して一緒に潜っている相方の姿を探す。
(あれ、いねえぞ)
 そこで初めて、周囲の海中にヘッドライトの光が見当たらないことに気が付いた。
 一緒に潜っていたのは、平井の高校時代の後輩である。彼もまた密漁経験者であるため、この3時間は完全に彼の存在を忘れて採捕に夢中になっていたのだ。
(おいおい、置いてきぼりかよ)
 密漁にあたっては機材の整備を入念に実施するため、ヘッドライトの電池が切れたことはほぼ考えられない。十中八九、平井を置いて先に浮上したのだろう。
(あの野郎、後でぶん殴ってやるぞ)
 平井は心の中で舌打ちすると、レギュレーターのマウスピースをしっかりとくわえ直した。それから、海面に浮上した時に目立たぬよう、ヘッドライトの明かりを今のうちに消しておく。
 周囲は、完全な闇に呑み込まれた。
 しかし、それが怖いと思うようなことは特に無く、平井は冷静に、海面を目指して足ヒレを動かそうとした。
 カツンッ、コツンッ。
 背後で、固いものを噛み砕くような音が響いた。
 カコンッ、ゴリッ。
 ゴリッ、ボリッ……ガリッ。
「!?」
 海中で聞くにはあまりにも異常なその音に、全身の筋肉が硬直する。
(なんだよ、この音。海の中なのに、どうしておかで聞くみたいにハッキリ聞こえるんだよ)
 ガリッ、ゴリッ。カツン。
 コリッ、バリッ。
「!!」
 音が、さっきよりも近づいてきた。
 方向は、平井の真後ろ。
 同時に、海水に大量のミルクを流し込んだような甘くてしょっぱい濃厚な匂いが背後からどっと流れ込んでくる。 
(なんなんだよこれ……というか、なんか鉄サビみたいな匂いも混じってねえか?)
 もし今が昼間だったら、平井は既にパニックを起こしていたに違いない。
 昼間であれば、周囲の海水が染まっていることが一目瞭然だっただろう。
 しかし、怪異や妖に対して鈍い性質たちの平井は、振り向いて音の正体を確認するという愚かな選択をしてしまった。
「――!」
 そして、平井はかつてないほど後悔した。
「――――――!」
 声にならない悲鳴が、レギュレーターから漏れ出る大量の気泡となってゴボゴボと海水を沸き立たせる。
 平井が目にしたのは、巨大なひとつの目玉だった。
 漆黒の闇に浮かんだ目玉は、恐怖に我を失う平井を眺めながら、ニンマリとその目を三日月型に細めた。
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