王国の「聖女」
ライラ・シュナイダーの朝は早い。
日が昇る前に起こされると侍女達に身の回りを整えてもらい、王宮内に作られた「聖女」の泉で一日の平和を祈る。
この神聖な「聖女」の泉に来られるのは「聖女」であるライラと王族と上位貴族のみだが、朝はライラだけが泉を独占できる特別な時間だった。
渾々と湧き透明に輝く泉の水は口にすれば心と身体を癒すと言われ、泉の側にはライラが「聖女」と認められた時に植えられた「世界樹」。
聖域の清らかな空気にライラは浸った。
「ニャン」
「スノー。ここに居たのね。ダメよわたくしから離れては。聖獣は狙われやすいのよ」
ライラの聖獣は「猫」の姿をしている。
スノーと名付けた真っ白な毛並みのその猫はライラが「聖女」として「皆」の前にお披露目されたパーティーに現れた。
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騒がしいパーティーから抜け出したライラは静かさを求めたバルコニーで一人「聖女」となった喜びを噛みしめていた。
これから華々しい人生が始まる。
「この世界は私のものだ」そう両手を空に掲げたライラに「ニャー」と鳴き声が届いたのだ。
ライラが辺りを見回すと、真っ白な子猫が顔を洗っていた。
「⋯⋯聖獣? ああっ! そうなんだわっあなた、わたくしの聖獣なのね」
そっと抱き上げると猫は「ニャア?」と返事をした。
「聖女」には「世界樹」と「聖獣」の眷属がいる。
そう教えられていたライラは「聖女」としてお披露目された日に出会ったこの猫は自分の聖獣だと確信したのだった。
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「おはよう。毎日ありがとう。私の「聖女」様」
「ジル様。おはようございます。⋯⋯おやめください「聖女」様だなんて。わたくしはライラ。ただのライラですわ」
組んでいた指をほどき祈りを終えたライラは「聖女」の泉で毎朝ジルベルトと少しの時間を過ごす。これも日課だ。
クリストファーとの婚約が解消され、傷心のライラを支えてくれたのは隣で微笑んでいるジルベルトだった。
──ジルベルト様は隣国の王子。わたくしはこの国の「聖女」⋯⋯。運命はどれだけわたくしに試練を与えるのかしら。
なんて苦しいのだろうか。ジルベルトを見つめると愛しげに見つめ返されライラは頬を染めた。
ふと、ライラの脳裏にクリストファーが過った。
ジルベルトは深緑の髪と瞳。クリストファーは黄金の髪と瞳。似ても似つかない二人。
ジルベルトがライラを大切にしてくれるのは感じているがどうしてもクリストファーを忘れられない。
クリストファーは「聖女」ライラとの婚約が解消されると王宮で疎外され始めた。
ライラには一人黙々と職務をこなし、表情を一つも変えないクリストファーは強がっているように見えていた。
──婚約解消でわたくしが傷付いたと同じくらいクリストファー様も傷付いるのだわ。ええ、そうに決まってる。
「ライラ? どうかしたのかい? 連日「聖女」の力を使っているのだから今日くらいは休んだ方が⋯⋯」
「いいえ、何でもありませんわ。ジル様。
それにわたくしは「聖女」ですもの。救いを求める手を離すわけにはいかないのです」
「⋯⋯ライラ。君は本物の「聖女」なのだね」
「ジル様、二人の時はただのライラで居させてくださいませ⋯⋯」
ライラがそっと寄り添えばジルベルトは肩を抱いてくれる。
見目麗しく優しいジルベルトと二人きりの僅かな時間を過ごせば過ごすほど惹かれるのにライラの心からクリストファーが離れなくなってゆくのだ。
ジルベルトと「また後で」と別れ、自室に戻ったライラは二度目の着替えを侍女に指示した。
「聖女」として傷ついた人々に会うのに着飾ってはいられない。相手の苦しみと絶望の悲しみに寄り添い安心を与えるのには豪華なレースは必要ないと質素なドレスを纏う。
身に付けるアクセサリーはアーチハルトとジルベルトから「聖女」に相応しいとプレゼントされたアメジストのネックレスただ一つだけ。
「今日はリンデル伯爵様からね⋯⋯。毎日大変⋯⋯ダメダメわたくしは「聖女」なの。頑張らなくてはならないの」
ライラが「聖女」として頑張り、もう一度クリストファーと婚約をすれば疎外されているクリストファーの立場が回復する。
クリストファーは学園に通っている時には「偽物の聖女」マリアに誑かされ道を誤ってしまったがそれを許してしまったのはライラの罪だと思っていた。
クリストファーに心が残っている。ジルベルトにも心が揺れている。
ライラは「切ない」と溜息を吐いた。
──わたくしもクリストファー様もマリアに狂わされたのよ。
マリアさえ居なければ。マリアが「聖女」を騙らなければ、一時でもクリストファーが浮気をせず本物の「聖女」であるライラだけを愛していれば未来は幸福に包まれていたのに。
ライラは哀愁の視線を窓辺に向けた。窓から見えるのは貴族街。あれ程の魔物だったと言うのに持ち堪えた。大切な人達が住む街が無事で良かったとライラは微笑みで眺めた。
もし、何かあってもこの国にはライラが居る。
ライラはこの国を守る「聖女」だ。
「ライラ、迎えに来たよ」
「アーチ。ありがとう。もうそんな時間なのね」
クリストファーの弟アーチハルト。ライラにも懐き、いずれは本当の弟になるはずだった。
彼は兄のクリストファーが優秀だった事で競争心を剥き出しにする事が多いが、昔は仲の良い兄弟だった。
クリストファーが平民マリアの話ばかりを聞き、ライラを疎かにしていると怒ってくれたアーチハルト。
彼もまたマリアに兄弟仲を引き裂かれた一人だ。
「まったく、クズ兄は昨日からまた帰ってないんだって。何もしないくせに遊び歩いて。ほんと、ライラがクズ兄と結婚しなくてよかったよ」
「アーチ、お兄様をそんな風に言ってはいけないわ。クリストファー様とあんなに仲が良かったのに」
「はっ! 平民の女に誑かされる兄なんて僕は要らないよ。マリアだっけ?あんな女よりライラの方がずっと綺麗だ」
「まあっ口が上手くなったのねアーチ」
「それに弱ってる人に手を差し伸べるライラは優しいんだ。綺麗で優しい。まさに「聖女」そのものだよ」
アーチハルトがキラキラした笑顔を向けてくれる。
──もし、クリストファー様がお立場を回復出来なかったらわたくしはアーチハルトと結婚するのかもしれないのね。
王国は「聖女」を王族にと望んでいる。ジルベルトも想いを向けてくれている。しかし、ライラには選択権がないのだ。
クリストファー、ジルベルト、アーチハルト。
ライラに愛情を向けてくれる彼らの内からいずれは一人を選ばなくてはならないのだとライラは己の試練が厳しすぎると神を少しだけ恨んだ。
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「いやー、ライラ様ありがとうございます。魔物の襲撃で転んでしまって。擦りむいた所が痛くて仕方がなかったのですよ」
「痛みがなくなって良かったですわ」
「これは、お礼です。真珠のイヤリングだ。「聖女」様によく似合うはずだよ」
「お礼だなんて。ありがとうございます。真珠は聖なる力を強めてくれますのよ」
ライラはコロンと丸く輝くイヤリングをリンデル伯爵に着けてもらうと微笑みを返す。
リンデル伯爵は左膝に小さな擦り傷を負っていた。ジクジクと痛み歩くのが困難だったと言うがライラの「聖女」の力ですっかり元気になり、役に立てて良かったとまた一つライラの「聖女」としての自信が増えて行く。
リンデル伯爵家を後にし、暫くしてジルベルトが馬車の窓から見える貴族街の違和感に「おかしい」と零した。
「どう言う事だ。騎士も魔導士も一人もいない」
「あいつら、仕事放棄!?」
「まさか⋯⋯なんて事⋯⋯。街へ参りましょうっ!」
貴族街を守っているべき騎士も魔導士も誰一人居ない。ライラ達は王宮へ帰るのでは無く遊んでいると思われる街へと馬車を向かわせ、急いだ。
立場を忘れている騎士達を改心させなければ。「聖女」として道を正してあげなければ。
誤った考えを改めさせるのは「聖女」の役目だと、ライラは込み上げた「聖女」の使命感が正義だと信じていた。
「これは、何があったの⋯⋯ですか」
御者に「これ以上は馬車では行けません」とおかしな事を言われ、降ろされたライラ達は絶句した。
街が破壊されている。家々は倒壊し、公園の噴水は壊れ水は枯れていた。
他の木は薙ぎ倒されているのに一本だけ残ったのだろう枝を広げ青々とした葉を揺らす木の下に怪我をした人々が座り込んでいた。
「そこのあなたっこれは一体っ。何があったので⋯⋯す、か」
近くを通り過ぎた男性に声を掛けてライラは後悔した。
あちこち破れた服らしき布は血と泥に汚れている。いくら平民でもそんな格好で街を歩く者に公爵令嬢が声をかける。ありえない事だ。
訝しげにライラ達を一瞥した男性は呆れた様に吐き捨てた。
「はあ? 何があったか。だって? お前ら馬鹿か?」
「貴様! シュナイダー公爵家令嬢であり「聖女」であるライラ様になんて口だ。不敬だっ」
「や、やめてジル様」
こんな時には必ず守ってくれるジルベルトはやはりクリストファーよりも自分を愛してくれているのだとライラは嬉しくなり、ジルベルトの背中に寄り添った。
「一週間前、魔物に襲われただろ」
「魔物は騎士団と魔導士が⋯⋯」
「はあああ?お前らなあんにも見えないのか?「聖女」様だって? 嘘つくな」
男性はライラ達を忌々しく睨む。ジルベルトとアーチハルトはライラに危害が加えられたら斬り伏せると腰の剣に手を掛けた。
騒ぎを聞き付けた野次馬が集まって来た。みんな薄汚れ、傷付いた姿だ。冷めた視線を向け、ライラ達を睨んでいる。
──何故、平民はそんなに汚れた格好で居るのかしら。
ライラは街の治安が悪化しているのだと思い込んだ。魔物だなんて言っているが被害はそんなに無かったのだ。やはり騎士団が仕事を放棄しているのだと。
どんどん増える野次馬の中に騎士の姿を見つけたライラは「助かった」と安堵した。
「そこの騎士、この騒ぎを止めなさい!」
注目を浴びた騎士は平民と同じ冷めた視線で一瞥し、ライラの声を無視して人混みに消えてしまった。
「待ちなさいっ! それでも騎士ですか!」
「貴様ら全員不敬罪にしてやるっ。ライラを「聖女」を侮辱するのは許さんっ」
「そうだよ。本来なら平民のお前らなんかライラに会えないんだからなっ」
ライラの騎士、ジルベルトとアーチハルトが煽れば騒めきは益々広がり「あれが聖女ねえ」「貴族は目がよくないんだよ」「目じゃ無くて頭、だろ」と嘲笑が混じり始めた。
「聖女」が何故、冷めた視線を向けられなくてはならないのかライラは狼狽るだけだった。
「みんな何してるんだ? 体力を戻すために大人しくしてろって言っただろ?はいはい。解散解散、薬湯茶持ってきたんだちゃんと飲んでくれよ⋯⋯げっ!?」
あからさまに顔をしかめた男はライラのよく知る人物だった。
クリストファーの側近で最近王国騎士団の副団長になったゲルガー。
学生の頃にマリアを崇拝し、事ある毎にマリアを庇い、マリアに誑かされた一人だ。
「ゲルガー! 一体何をしているのです! こんな所で遊んで。直ぐに持ち場へお戻りなさい! 貴方達が騎士としての仕事をしないから街の治安がこんなにも悪化したのではなくて? 恥を知りなさいっ」
ライラの叱咤にポリポリと耳を掻いてゲルガーはどこ吹く風だ。
昔からそうだ。どんなにマリアが性悪か、有力な貴族の男に媚びる平民だと言っても聞き入れることは無かった。
マリアが「聖女」を騙った罪に問われ目を覚ましたと思っていたがこの男は何も変わっていない。
「ゲルガー! 聞いているのですか! わたくしの話をお聞きなさい!」
「恥を知り、人の話を聞かなきゃならないのは、お嬢さん、アンタだよ」
ライラ達は「えっ⋯⋯」と辺りを見回す。「聖女」の自分に誰がこんな不敬な物言いをしたのか。
「おや、聞こえないのかい? この状況を見ても何も理解できないとは本当に「聖女」様かい?」
「いくら年寄りでも不敬な物言いだ。僕は王子、アーチハルトだ。僕はいずれこの国の王になる。不敬罪で囚われたいか老婆よ」
「アチャー⋯⋯」ゲルガーが天を仰いで「馬鹿」と呟く。
「アンタが王に? 寝言はあったかーい高級なベッドの中だけで言いなさいな。アンタらが何をしてくれた? この街を見て何も思わないアンタらに何ができる? この国の王にはクリストファー様しか居ないよ」
「そうだ!」「そうよ!」と平民から声が上がりライラ達は追い詰められた。
「なんだって⋯⋯あんなクズが⋯⋯そんな訳ないっ! アイツはクズだ、無能だ!国の有事に遊んでいたんだ!」
アーチハルトが駄々を捏ねるかのようにクリストファーを罵倒すればするほど「どっちが遊んでいたんだ」「遊んでいるのはアンタらだ」と冷めた視線がライラとアーチハルトを射抜いて行く。
「ライラ、アーチハルト、ジルベルト。みんなを煽るな⋯⋯ついて来い」
「騎士風情が指図──」
「ジルベルトいい加減にしてくれ。みんなは傷付いている。休ませたい」
ライラ達はいつの間にか騎士達に囲まれていた。
貴族街を守らず平民と一緒になって街を荒らしているのかとゲルガーをライラは睨むが、それ以上に強い眼光で睨み返されたじろいだ。
「悪かったなみんな、薬湯茶、ちゃんと飲む事! クリストファーが淹れたんだ絶対効くからな」
ゲルガーに先導され、騎士団に囲まれ、平民に罵倒されながら連行される。
それはライラ達にとって屈辱だった。
クリストファーとゲルガー達が遊んでいる間ライラは「聖女」として「皆」を救っていた。
褒め称えられる事はあっても罵倒されるいわれなど一切ないはず。
それなのに平民はライラを「聖女」として崇めない。ライラは悔しさに拳を握った。