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作者: 月緋ノア
残酷な描写あり R-15
ルジュヴィ
逃亡したリノアは、街の一角で不思議な光景を目の当たりにする。
 瑠璃色のボサボサ頭が揺れていた。
 闇に溶けきらない薄墨色が暗がりを途轍もない速度で移動している。なりふり構うことなく、どこへ向かっているかもわからずに、ただひたすらに。
 背の高い建物が作り出す影と狭苦しい空をちらと見上げながら、リノアはよく見た景色だと感傷に浸った。
 光の元へ出たかと思えばまた深い闇の中。降り注ぐ一条の光すらも今は遠い。時折灯る淡い灯籠に人心地をつきながら、その影からあの黒服が出てきやしないかと身構える。
 それを幾度も繰り返して、リノアは幾分か開けた場所に辿り着いた。

「はぁ、はぁ、はぁ……どこに行けばいいかくらい言えばいいのに。男っていうのはみんな言葉たらずだ……余計なことばかり言うくせに」

 荒ぶる呼吸を少しずつ和らげながら、リノアは周囲を見渡す。
 月明かりと建物から溢れ出す光だけが燻る街が広がっていた。寂れ、活気も遠く、つい先ほどまでの景色とのギャップに驚きながらも、リノアは一旦の心の落ち着きを得た。

「静かだ。でも、気配はする。こんなに暗いのに、なんでこんなにたくさん外に……?」

 リノアは異常な感覚を肌に覚えていた。孤独の時間が長かったためか、彼女は何もない空間への慣れが強かった。だから逆に、暗がりでの何かの気配とやらには感覚が鋭敏になっているらしい。生来の環境に近い場所に戻ってきたことで、リノアは初めてそんなことに気がついた。

「とりあえず歩いてみるかな。宝石探しもしなきゃならないらしいし。……ブルートが無事だといいけれど」

 ひとたび落ち着きを取り戻したリノアは次々に浮かぶ思考に翻弄されながらも、まずは自分の足で世界を広げることにした。
 かつん、かつんと静寂に靴音が飲み込まれていく。
 リノアがきょろきょろと見回しながら路地を歩いていると、彼女が感じた気配の一塊へと辿り着いた。

「お前たちは……?」

 アンウルの明かりも届かぬ路地裏に、何人もの亜人の姿が見受けられた。全員が座り込み、何かを待っているようだ。
 女や子供が中心だが、男もわずかながら散見できる。誰もが歳若く、老いた姿の者は見られない。一見みすぼらしいが、端から端まで小綺麗に整えられた見た目が印象的だ。
 彼らから向けられる怪訝な眼差しがリノアへと突き刺さるが、彼女は気にも留めない。

「こんなところでなにをしてるんだ?」
「なにをって……あなたは、拾い屋ですか?」
「いや?」
「なら、拾われたがりですか?」
「拾われたがり? いったいなんの話を……?」

 首を傾げたリノアに対して、視線の色が変わった。訝しみから警戒へ。よそ者を見る、敵意へ。だがしかし、騒ぎ立てようとする者はいなかった。誰も彼もが、いい子ちゃんを演じるように、黙りこくって座っている。
 それでもひしひしと肌に突き刺さる敵意の意味を、リノアはついぞ理解できなかった。

「こちらへ来てください」

 ひんやりとした感触と鋭い声にリノアが振り返ると、フードを被った女がいた。目元を隠すようにしているが、綺麗な顔立ちなのがすぐにわかる。

「早く」
「わかった」

 簡単に答えて引っ張られるがまま、リノアは路地裏を女についていく。軽い足取りで先を進む女を見つめながら、視界の端で座り込む数多の姿を捉えた。誰もが皆同じだ、取り繕ったような綺麗な身なりで座り込んでいる。

「どこへ行く?」
「もうすぐですから」

 リノアが連れてこられたのは、先ほどとあまり変化のない路地裏だった。特段違うことといえば、フードの女とリノア以外に誰の姿も見えないということくらいのものである。

「よし。ここならば落ち着いて話せるでしょう」
「お前は……誰だ?」

 細々と降り注ぐ月明かりの下で振り返った女は、フードを脱ぎリノアをじっと見据えた。
 琥珀色の瞳が光を反射しキューティクルを宿している。フードから滴り落ちたプラチナブロンドの髪が腰あたりまで伸び、艶を放った。耳の先は可愛らしく尖っており、唇は薄めの、澄ました顔がそこにはある。
 愛らしく、それでいて美しい整った顔だ。それが、首を横に振る。

「私にも、ここにいる誰にも、名前はありません。今夜ここで拾われるために存在し、明日には富豪のルジュヴィになっていると思います」
「その、ルジュヴィって何? わたし、ここは初めてで知らないんだ」
「そんな気がしたから連れてきたのです。――ルジュヴィとは、貧しい住民が富裕層に気に入られ、名付けられることによって生きることを認められた存在です。立派な生き方の一つなのです」
 
 リノアは目前で淡々と語る名前のない女の言葉を頭の中で反芻しながら、次の言葉を待った。女が一息入れるのが分かったからだ。

「今でこそ、富裕層の子飼いのような扱いですが、本当は違うのです」
「違うって……?」

 女が確かな意志を琥珀の奥に宿していることに、リノアは気付いた。語られるその言葉一つ一つに強い何かがまとわりついている気がしたのだ。

「始まりは、ただの生存戦略だったのです。服従することで、庇護を得ることで種族が生き永らえることができる。どんな仕打ちを受けようが、持ち前の愛嬌と見た目の良さで血を繋ぐ。――それがルジュヴィという存在です」
「さっきの奴らにそんな強かさは感じなかったけど?」

 リノアは改めて女の姿を上から下まで観察した。
 到底貧しくも見えない顔つきの下には白系のぶかっとしたパーカーを着ており、下は黒のプリーツスカートといった出立ちだ。パーカー越しでもわかるぐらいの育ちの良さをリノアは見てとる。
 女は肩をすくめ、ふんと鼻で笑って首を振った。

「彼らは今の、広い意味でのルジュヴィになろうとしてる人たちですから」
「まるで自分は違うとでも言いたげ――」
「違います。私は、繋がねばなりませんから。ただ生きるだけじゃない、繋げないといけないのです」
「ふうん。でも、どうしてその話をわたしに?」

 リノアの本心からの問いに、女の琥珀が揺れる。それがリノアを眩しそうに見つめてから、口を開いた。

「そんなものになる気が、なさそうに見えたからでしょうか。――とにかく、あなたみたいな人がこの旧市街に来たのは間違いです。ここには大勢の拾い屋が来るのですから、早く離れなければなりません」
「どうしてわたしを助ける?」
「それは……」

 痛いところを突かれた様子で、女が押し黙る。琥珀色の瞳が困ったように泳いだ。前髪が作り出した影がさあっと女の顔を覆う。

「――見えるから」

 小さく呟いた女の表情は闇に沈んでおり、正面に立つリノアにすら読み取ることができなかった。何が見えるのか尋ねるより先に、女がリノアの手を握る。
 顔を上げた女の顔には濃い意志が宿っていた。
 
「離れましょう」
「わかった」

 一条の光から漆黒へと飛び込んで、二人は駆け出した。
 街明かりを避け、迷路のように入り組んだ旧市街の路地を走り回る。両脇で恵みを待つ拾われたがりに一瞥を溢して、プラチナブロンドの女が静かな怒りを露わにした。
 舌打ちが響く。

「何をそんなに怒っている?」
「気にしないでください。今は少しでも早く――っ」

 リノアの前で女が立ち止まる。その肩越しに女の視線を追いかけて、リノアは理解した。

「追いつかれたか。それとも、別の?」
「精伝により情報が回っていた女を発見。これより確保する。挟み込め、逃すなよ」

 身なりのいい亜人の男が指示をすると、駆け出す足音が複数。狭い路地に響き渡る硬い音を追うまでもなく、リノアは背後に回られたのを感じた。

「ほう。今宵は豊作だなあ。ファルの姿を残した女に、ルジュに連なる女、か……くく、捕まえれば今後の俺も安泰だ。少しばかり味見したくなるほどの良さなのが、悩ましいが」
「ダメですよ先輩、そんなことしたら価値が下がるばかりか、アルティム様に何をされるかわかりません。ま、気持ちは痛いほどわかりますがね」
「手を出すなという方が失礼だろうさ」

 またこれだ、とリノアは辟易する。
 肌に這い回る怖気と、滲み出す嫌悪感。そんな視線を向けられるのは正直気持ちのいいものではなく、外の世界に来たことを少し後悔するほどだ。

「お前、抵抗できるか?」
「何をするつもりですか? 見つかってしまった以上捕まってしまったほうが」
「わたしはごめんだね。いい予感がしないもの」

 リノアが背後から迫る黒服の男の腕を引っ掴み、その奥の黒服へと投げつける。彼女にしてみれば彼らは軽くあしらえるほどの重さしかなかった。路地の狭さも幸いして抵抗を続けることはできそうだが、しかしそれは災いでもあった。

「突破するのは難しいか」

 一人ならば、とリノアは臙脂色の瞳をプラチナブロンドへと向けた。先ほど出会ったばかりにも関わらず、彼女にはどうしてもその女を置き去りにする選択肢が浮かばなかった。

「情報通り、簡単にはいかない相手か。だが、足枷が邪魔をするらしい」

 戦うリノアの背後で困惑したままの女を見て、リーダー格の男は舌なめずりをした。白々とした光の下で毛深いマズルを舐め上げながら、荒い息を吐き出す。彼は最初からずっと、二人の女が醸す芳醇な香りを楽しんでいた。

「どうして一人で逃げないのですか、それだけ戦えるのなら私を置いていけばいいじゃないですか。なぜ守ってまでっ」

 女は自覚している。戦えない自分が強い意志の妨げとなっていることを。そして冷静に、彼女一人ならば逃げ切れるかもしれないなどとも思っていた。
 だからこそ女は唇を噛み締め、背後で舞い踊るボサボサ頭へと叫ぶように問うた。

「お前はわたしを助けようとした。ならわたしはそれに応えるだけだ。そうしなければいけない、そんな気がするんだ。それだけじゃない気もするが……」
「そんなものは、私に向けられていいものじゃない……」
「そんなの知るか。わたしがそうしたいからそうするだけだ。それはお前がどんな存在だろうがわたしには関係ないっ」

 リノアが振り返ることはない。狭い路地を目一杯使って女を守りながら抵抗を続けている。しかし、切れ長の目にも疲れが滲んできていた。先のナーネイとの戦いで受けたダメージも動きを鈍らせており、軋む身体のせいで集中力も削られているらしかった。
 その隙をついて、リーダー格の狼頭がブロンドの女へとずかずかと近づき、抱えようと手を伸ばす。勝ち誇った顔で男が吠えた。

「この女に危険が及ぶなら、お前の手は止まるかぁ? 噛み癖のある犬が」
「いやっ、やめてっ!」

 女の身体が狼男に担ぎ上げられた。声を上げて暴れるも抵抗は虚しく、女は悔しそうに唇を噛む。さらさらの髪が闇に滴り、影に飲み込まれていった。
 何もできないという強い自覚と、それでもその強い背中に憧れる眩しげな瞳が、女の表情をめちゃくちゃにしていった。

「女の涙ってのは最高だなぁ。お前は何を言われようが後で可愛がってやる。おい、ボサボサ頭のお前もその手を止めないと――」
「うるさい」

 痛烈な蹴りが狼男の土手っ腹を打ち上げた。
 ほんのわずか、涙を流す女に気を取られた瞬間をリノアは見逃さなかった。視線を戻した途端に身体をくの字に曲げることとなった男は、驚愕と共に手を離す。

「よいしょっ、と」

 落ちる女を横目に確認し、リノアはまず彼女を右肩で受け止めた。そのまま、崩れ落ちようとする男の首へと左手を伸ばす。毛深い体毛に沈んだ細い首に手が届いた。

「ぐっ……」
「意外と細いんだな」

 リノアはぎりぎりと力を込める。その姿を遠巻きに見つめることしかできない黒服たちを尻目に、リノアは思考を巡らせた。

「上手く使えば逃げられるかもしれない――とでもいった顔だな、脳筋女。だがそうはいかないぜ?」

 声と共に路地を吹き抜ける突風。刹那、リノアの左手から感触が消える。感情の追いつかない瞳が、虚空を握った手を見つめた。

「捲れ上がるワンピースより獲物を逃した手の方を見つめるなんて――変な女だな。黒服どもはその下着に釘付けだってのに」

 狼男を小脇に抱えた白軍服の長身の男がリノアを振り返り呆れ返った。風に舞った軍帽が吸い込まれるように男の手に戻り、男はそれを目深に被る。

「ま、いいか。不甲斐ないリーダーさんよ。ここは俺に一任させてもらうからな」

 飄々とした雰囲気の男は、帽子の下からライムグリーンの瞳を覗かせて口角を上げた。
 
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