【オリンピック】西竹一(バロン西)とかいう馬術回のガチレジェンド【馬術】
92年ぶりとかすごくない?
この夏、スポーツの祭典『パリオリンピック』が開催され、これまで数多くのドラマが巻き起こってきました
この文章を書いている7月30日時点、世間では惜しくも第2試合めで敗れた『阿部詩』選手と、その兄『阿部一二三』選手について連日報道されているようです。その他スケートボードに体操競技など、日本人が活躍する競技がずらっとならんでおります
そのなかにひとつだけ、日本人に馴染み薄い競技名がひっそりと紹介されていました。その種目は『馬術』――7月29日にヴェルサイユ宮殿とかいうこれ以上ない舞台にて日本人選手たちが躍動し、総合馬術-団体戦において史上初となる"銅メダル"を獲得した歴史的快挙です
このニュースは多かれ少なかれ各所で知らされることになりましたが、そこには決まってあるワードが添えられていました。それは『92年ぶり』ということば。馬術においてメダル獲得がどんだけすごいことなのかを思い知らせてくれる数字であり、オリンピックの歴史の長さを伺わせる数字でもあり――そして多くの人がこのようなことを思ったでしょう
最後にメダルを獲得した人ってだれなん?
ってことで、今回は92年の時を遡り、日本馬術競技のガチレジェンド『西竹一』について書いていきましょう
:西竹一とはどんな人なのか?:
西竹一。明治35(1902)年に生まれ戦争終結年の昭和20(1945)年に没した陸軍軍人です
彼は軍人であり、最終階級は陸軍大佐。華族(明治~戦後までの貴族階級)として軍の中核を担う存在でもありました
彼ははじめ騎兵として戦場を駆け、後に戦車兵として硫黄島で戦い、そこで連隊長として戦死しています。硫黄島はアナタも聞いたことがあるでしょう。これらに関しては『硫黄島の戦い』でググれば詳しく記されています。っていうかクリント・イーストウッドの映画『硫黄島からの手紙』に出てます
彼がなぜオリンピックに出場し、どのようにして金メダルを獲得したのか? ――彼は東京の麻生で生まれ、兄が早逝したため家督を継ぎ"男爵"となります。外交官だった父の影響で軍人の道を歩むことになり、彼は当時"華"と呼ばれた陸軍騎兵を志望し陸軍士官学校にて本格的に馬術に取り組むようになりました
ここまでなら他の陸軍騎兵にも言えることですが、彼は馬術にのめり込みメキメキと頭角を現していきます
彼はさまざまな挑戦を試みました。馬術とはウマとこころを通わせ、いかに騎乗する人間の意志を汲んで動いてくれるか? との思いか、彼は現代の馬術障害でやるような『馬を駆り柵や石垣を飛び越える』というスキルに注力します。自らのオープンカーを"福東号"というやんちゃなウマさんに飛び越えさせたエピソードは、彼を研究する人にとっては語り草でしょう。ちょっとぐぐればその画像がヒットするのでぜひどうぞ
彼はその後、25歳で騎兵学校の学生となります。彼が騎兵見習いとなった年ちかく、1928年には日本人選手がはじめてオリンピックの馬術競技に参加しますが、その結果は20位が最高でした
この時代のオリンピック馬術はすでに現代の形『馬場馬術・障害物飛越・総合馬術』になっており、どうしてもメダル獲得したい日本としては、障害物飛越に関して逸話を残す西竹一はこれ以上ない逸材でした
ってことで、彼は1932年に行われたロサンゼルス-オリンピックの候補選手として選ばれることになります。この時、西竹一は27歳でした
:バロン西とはどんな人なのか?:
彼は男爵であり、男爵は[ Baron ]なのでニックネームとして『バロン西』と呼ばれています。その経緯に関しては後で話すとして、オリンピック候補選手として選ばれた西竹一のその後を追っていきましょう
馬術とは人馬一体の競技。西本人のウデもさることながら、この競技で結果を得るにはそれ相応のウマが求められます。ってことで、西さんは「うーん……馬術の本場は欧州であります。その地のウマはさぞや筋骨隆々アグレッシブでありましょうなぁ」と言ったかどうかはしらんけど、彼はオリンピックで結果を残すため欧州のウマを求めるようになります
そんな中、イタリアの騎兵学校教官から「いいウマ、いるで?」と連絡を受けるとすぐさま半年の休暇を要請して欧米へビュンッ! ロサンゼルスの下見をするためアメリカへ上陸し、でもってイタリアに赴いてウマを入手します
このウマこそ、西竹一にとって生涯の共でありロサンゼルスで共に金メダルを獲得する『ウラヌス(天王星)号』でした。とても大きなウマだったようで、あまりの大きさに西が「これラクダじゃね?」と手紙に書くほどです。画像を見ると、175cmはあったとされる西氏よりウマ首ひとつ飛び抜けてたのでおそらく180~190cmはあるでしょう
メッチャいいウマを手に入れたウマバカのやることっつったらなんだ? ――そうだね、大会出場だね!
ってことで、彼はウラヌスを駆り欧米の各種馬術大会に出場するようになります。まあ彼にとっては武者修行的なアレだったのでしょう。ただ欧米の並み居るウマ、格式張ったような大会にも悠然とチャレンジしていく西竹一は評判となり欧州馬術界に広く知れ渡っていきました
ちなみに、上記のようなこともあり西竹一はロサンゼルス名誉市民になってます
なお、彼の渡欧米費用とウマ購入費用はすべて自腹です。オリンピック修行用なんだからお国がちょっとくらい出してもいーんじゃねぇの? と思ったりしたけど自腹です
自腹です。ぜんぶ
:オリンピックで金メダル:
後に、彼はウマを伴って日本帰国を果たします。んでお国としてもロサンゼルス-オリンピックの馬術競技に誰出すべ? って検討がされており、国立公文書館、アジア歴史資料センターに残された資料によれば、彼が欧米旅行に行く前にこのようなやりとりをしたと記録されています(要約
偉い人「欧米行くの? もしオリンピック出たいなら帰国後あらためて願書提出してね」
西「おk」
偉い人「西くん欧米行って旅行中だから今なにやってるかわからん。けど出たいなら帰国後願書出すよう言っといたからたぶんダイジョーブだよ」
国「おk」
で、西さんは無事ウラヌスと帰国して願書を提出したようです。その後国内で開催された予選会で実力を示し、オリンピック日本代表の権利を得てロサンゼルスに飛び立ちました。これが1932年7月のことです
彼は障害物飛越に参加し、完走者が5人しかいない激難コースを完走した上で最小限点にとどめ、西竹一はみごと金メダルを獲得しました。当時30歳のことでした
さらにおもしろいエピソード。彼はロサンゼルス滞在中、趣味としてオープンカーをブイブイ言わせてたんですよね。んで英語堪能だったのであちこちの住民と親交を深め、欧州で出会ってたアメリカ映画界のレジェンド『ダグラス・フェアバンクス - メアリー・ピックフォード』夫妻と再会して語り合ったり――当時の日本言うたら満州事変やらなにやらでめったくそ印象わるかった時代です。そんな中、みんながイメージする日本人をぶっ壊す陽気で快活な"西竹一"という人物は[ Baron Nishi ]としてアメリカにおいても人気を高めていきました
だからロス名誉市民にもなれたんだね。社交界でもそりゃあもうブイブイよ(なにが?
ちなみに、彼は次のベルリン-オリンピックにも参加しましたが落馬して棄権となりました。これには「ナチス-ドイツに有利になるようわざと落馬したんじゃね?」なんて憶測もあったようですが、日本がナチス-ドイツと同盟結んだのは1940年、ベルリン大会は1936年なのでその筋は薄いんじゃないかなと思います
まあ、優勝者はドイツだっただけどね
:戦死:
本格的な戦争に突入し、彼は騎兵に供給するウマの管理を任されるようになりました。さらに、日本は騎兵部隊を削減し戦車部隊を多く編成するようになり、そのあおりを受けて彼もまた戦車部隊へ配属されることになります
彼は中佐に昇進し満州へ配属。アメリカ軍が硫黄島に進出するようになるとそこに防衛隊として配属され、終戦の年までそこで戦い続けることになります
1945年3月。硫黄島の日本兵が玉砕し、これをキッカケにアメリカ軍が沖縄攻略を断行。硫黄島も侵攻され西竹一はそこで戦死を遂げます。彼がどのような最期を迎えたのかは諸説ありますが、いずれにしろ彼は硫黄島にて42年の人生を終え、戦後大佐に昇進しました
彼の相棒と言ってもいい『ウラヌス』もまた、西竹一の後を追うように1週間後に命を落としたとされています
日本馬術界のレジェンドは戦争という無意味な行為によって散ってしまったのですね。もし彼が生きていたら、日本馬術界はまた違った歴史を歩んでいたかもしれません。彼はアメリカの日本人観を変えたり、ロサンゼルス名誉市民に選ばれるなど偉人たる活躍をしましたが、2024年の夏、パリオリンピックで日本人選手が躍動したことによって彼の功績が思い出されることになりました
92年の時を経ても彼の功績は輝きつづけるでしょう。なんてったって金メダルです。日本馬術がさらに発展し、いずれは西竹一氏が遺した偉業に追いつき、そしてその先へ突き進んでいけるよう応援していきましょう
ウマが好きだという方はぜひ高評価を、ウマに関するエピソードがある方はぜひコメントをおねがいします。まだまだオリンピックは続いてるので、みんなで選手たちを応援していきましょう!
オリンピック公式、Takeichi NISHIについて
ttps://olympics.com/ja/athletes/takeichi-nishi
国立公文書館 アジア歴史資料センター、西竹一
ttps://www.jacar.archives.go.jp/das/term/00001117
笹川スポーツ財団、西竹一について
ttps://www.ssf.or.jp/knowledge/history/olympic_athlete/03.html
内閣府、沖縄戦の概要
ttps://www8.cao.go.jp/okinawa/okinawasen/gaiyou/gaiyou.html
在ロサンゼルス日本国総領事館、Baron Takeichi-Nishi
ttps://www.la.us.emb-japan.go.jp/itpr_en/BaronNishiAnOlympicLegacyReturns.html
この文章を書いている7月30日時点、世間では惜しくも第2試合めで敗れた『阿部詩』選手と、その兄『阿部一二三』選手について連日報道されているようです。その他スケートボードに体操競技など、日本人が活躍する競技がずらっとならんでおります
そのなかにひとつだけ、日本人に馴染み薄い競技名がひっそりと紹介されていました。その種目は『馬術』――7月29日にヴェルサイユ宮殿とかいうこれ以上ない舞台にて日本人選手たちが躍動し、総合馬術-団体戦において史上初となる"銅メダル"を獲得した歴史的快挙です
このニュースは多かれ少なかれ各所で知らされることになりましたが、そこには決まってあるワードが添えられていました。それは『92年ぶり』ということば。馬術においてメダル獲得がどんだけすごいことなのかを思い知らせてくれる数字であり、オリンピックの歴史の長さを伺わせる数字でもあり――そして多くの人がこのようなことを思ったでしょう
最後にメダルを獲得した人ってだれなん?
ってことで、今回は92年の時を遡り、日本馬術競技のガチレジェンド『西竹一』について書いていきましょう
:西竹一とはどんな人なのか?:
西竹一。明治35(1902)年に生まれ戦争終結年の昭和20(1945)年に没した陸軍軍人です
彼は軍人であり、最終階級は陸軍大佐。華族(明治~戦後までの貴族階級)として軍の中核を担う存在でもありました
彼ははじめ騎兵として戦場を駆け、後に戦車兵として硫黄島で戦い、そこで連隊長として戦死しています。硫黄島はアナタも聞いたことがあるでしょう。これらに関しては『硫黄島の戦い』でググれば詳しく記されています。っていうかクリント・イーストウッドの映画『硫黄島からの手紙』に出てます
彼がなぜオリンピックに出場し、どのようにして金メダルを獲得したのか? ――彼は東京の麻生で生まれ、兄が早逝したため家督を継ぎ"男爵"となります。外交官だった父の影響で軍人の道を歩むことになり、彼は当時"華"と呼ばれた陸軍騎兵を志望し陸軍士官学校にて本格的に馬術に取り組むようになりました
ここまでなら他の陸軍騎兵にも言えることですが、彼は馬術にのめり込みメキメキと頭角を現していきます
彼はさまざまな挑戦を試みました。馬術とはウマとこころを通わせ、いかに騎乗する人間の意志を汲んで動いてくれるか? との思いか、彼は現代の馬術障害でやるような『馬を駆り柵や石垣を飛び越える』というスキルに注力します。自らのオープンカーを"福東号"というやんちゃなウマさんに飛び越えさせたエピソードは、彼を研究する人にとっては語り草でしょう。ちょっとぐぐればその画像がヒットするのでぜひどうぞ
彼はその後、25歳で騎兵学校の学生となります。彼が騎兵見習いとなった年ちかく、1928年には日本人選手がはじめてオリンピックの馬術競技に参加しますが、その結果は20位が最高でした
この時代のオリンピック馬術はすでに現代の形『馬場馬術・障害物飛越・総合馬術』になっており、どうしてもメダル獲得したい日本としては、障害物飛越に関して逸話を残す西竹一はこれ以上ない逸材でした
ってことで、彼は1932年に行われたロサンゼルス-オリンピックの候補選手として選ばれることになります。この時、西竹一は27歳でした
:バロン西とはどんな人なのか?:
彼は男爵であり、男爵は[ Baron ]なのでニックネームとして『バロン西』と呼ばれています。その経緯に関しては後で話すとして、オリンピック候補選手として選ばれた西竹一のその後を追っていきましょう
馬術とは人馬一体の競技。西本人のウデもさることながら、この競技で結果を得るにはそれ相応のウマが求められます。ってことで、西さんは「うーん……馬術の本場は欧州であります。その地のウマはさぞや筋骨隆々アグレッシブでありましょうなぁ」と言ったかどうかはしらんけど、彼はオリンピックで結果を残すため欧州のウマを求めるようになります
そんな中、イタリアの騎兵学校教官から「いいウマ、いるで?」と連絡を受けるとすぐさま半年の休暇を要請して欧米へビュンッ! ロサンゼルスの下見をするためアメリカへ上陸し、でもってイタリアに赴いてウマを入手します
このウマこそ、西竹一にとって生涯の共でありロサンゼルスで共に金メダルを獲得する『ウラヌス(天王星)号』でした。とても大きなウマだったようで、あまりの大きさに西が「これラクダじゃね?」と手紙に書くほどです。画像を見ると、175cmはあったとされる西氏よりウマ首ひとつ飛び抜けてたのでおそらく180~190cmはあるでしょう
メッチャいいウマを手に入れたウマバカのやることっつったらなんだ? ――そうだね、大会出場だね!
ってことで、彼はウラヌスを駆り欧米の各種馬術大会に出場するようになります。まあ彼にとっては武者修行的なアレだったのでしょう。ただ欧米の並み居るウマ、格式張ったような大会にも悠然とチャレンジしていく西竹一は評判となり欧州馬術界に広く知れ渡っていきました
ちなみに、上記のようなこともあり西竹一はロサンゼルス名誉市民になってます
なお、彼の渡欧米費用とウマ購入費用はすべて自腹です。オリンピック修行用なんだからお国がちょっとくらい出してもいーんじゃねぇの? と思ったりしたけど自腹です
自腹です。ぜんぶ
:オリンピックで金メダル:
後に、彼はウマを伴って日本帰国を果たします。んでお国としてもロサンゼルス-オリンピックの馬術競技に誰出すべ? って検討がされており、国立公文書館、アジア歴史資料センターに残された資料によれば、彼が欧米旅行に行く前にこのようなやりとりをしたと記録されています(要約
偉い人「欧米行くの? もしオリンピック出たいなら帰国後あらためて願書提出してね」
西「おk」
偉い人「西くん欧米行って旅行中だから今なにやってるかわからん。けど出たいなら帰国後願書出すよう言っといたからたぶんダイジョーブだよ」
国「おk」
で、西さんは無事ウラヌスと帰国して願書を提出したようです。その後国内で開催された予選会で実力を示し、オリンピック日本代表の権利を得てロサンゼルスに飛び立ちました。これが1932年7月のことです
彼は障害物飛越に参加し、完走者が5人しかいない激難コースを完走した上で最小限点にとどめ、西竹一はみごと金メダルを獲得しました。当時30歳のことでした
さらにおもしろいエピソード。彼はロサンゼルス滞在中、趣味としてオープンカーをブイブイ言わせてたんですよね。んで英語堪能だったのであちこちの住民と親交を深め、欧州で出会ってたアメリカ映画界のレジェンド『ダグラス・フェアバンクス - メアリー・ピックフォード』夫妻と再会して語り合ったり――当時の日本言うたら満州事変やらなにやらでめったくそ印象わるかった時代です。そんな中、みんながイメージする日本人をぶっ壊す陽気で快活な"西竹一"という人物は[ Baron Nishi ]としてアメリカにおいても人気を高めていきました
だからロス名誉市民にもなれたんだね。社交界でもそりゃあもうブイブイよ(なにが?
ちなみに、彼は次のベルリン-オリンピックにも参加しましたが落馬して棄権となりました。これには「ナチス-ドイツに有利になるようわざと落馬したんじゃね?」なんて憶測もあったようですが、日本がナチス-ドイツと同盟結んだのは1940年、ベルリン大会は1936年なのでその筋は薄いんじゃないかなと思います
まあ、優勝者はドイツだっただけどね
:戦死:
本格的な戦争に突入し、彼は騎兵に供給するウマの管理を任されるようになりました。さらに、日本は騎兵部隊を削減し戦車部隊を多く編成するようになり、そのあおりを受けて彼もまた戦車部隊へ配属されることになります
彼は中佐に昇進し満州へ配属。アメリカ軍が硫黄島に進出するようになるとそこに防衛隊として配属され、終戦の年までそこで戦い続けることになります
1945年3月。硫黄島の日本兵が玉砕し、これをキッカケにアメリカ軍が沖縄攻略を断行。硫黄島も侵攻され西竹一はそこで戦死を遂げます。彼がどのような最期を迎えたのかは諸説ありますが、いずれにしろ彼は硫黄島にて42年の人生を終え、戦後大佐に昇進しました
彼の相棒と言ってもいい『ウラヌス』もまた、西竹一の後を追うように1週間後に命を落としたとされています
日本馬術界のレジェンドは戦争という無意味な行為によって散ってしまったのですね。もし彼が生きていたら、日本馬術界はまた違った歴史を歩んでいたかもしれません。彼はアメリカの日本人観を変えたり、ロサンゼルス名誉市民に選ばれるなど偉人たる活躍をしましたが、2024年の夏、パリオリンピックで日本人選手が躍動したことによって彼の功績が思い出されることになりました
92年の時を経ても彼の功績は輝きつづけるでしょう。なんてったって金メダルです。日本馬術がさらに発展し、いずれは西竹一氏が遺した偉業に追いつき、そしてその先へ突き進んでいけるよう応援していきましょう
ウマが好きだという方はぜひ高評価を、ウマに関するエピソードがある方はぜひコメントをおねがいします。まだまだオリンピックは続いてるので、みんなで選手たちを応援していきましょう!
オリンピック公式、Takeichi NISHIについて
ttps://olympics.com/ja/athletes/takeichi-nishi
国立公文書館 アジア歴史資料センター、西竹一
ttps://www.jacar.archives.go.jp/das/term/00001117
笹川スポーツ財団、西竹一について
ttps://www.ssf.or.jp/knowledge/history/olympic_athlete/03.html
内閣府、沖縄戦の概要
ttps://www8.cao.go.jp/okinawa/okinawasen/gaiyou/gaiyou.html
在ロサンゼルス日本国総領事館、Baron Takeichi-Nishi
ttps://www.la.us.emb-japan.go.jp/itpr_en/BaronNishiAnOlympicLegacyReturns.html