残酷な描写あり
R-15
第百八五話 長平の戦い 十
趙括は趙軍大将として長平に着任した。そして無名の秦将王齕率いる秦軍を攻めるべく、全軍に砦からの出撃を命令する。
同年 11月(開戦2年2ヶ月目) 趙括
趙王の命令で、趙括は長平方面軍の大将として、長平に着任した。
それから彼は、趙奢の威光、そして兵法の研究家としての自信に託けて、楽乗ら副将を見下した。
楽乗は、血筋しか取り柄がない趙括に、言葉で散々に詰られたせいで、憤慨していた。しかし、相手が廉頗ではない以上、本音をぶつけ合うことなどできず、気分で首を刎ねられかねないと悟っていた為、黙り込むしかできなかった。
「私は臆病な廉頗とは違い、勇敢に戦う所存だ。出(いで)て活路を見出すのである。我らには、国内から増援を集め、総勢二十五万の大軍である」
「敵は三十万の大軍です。砦に籠っているべきです」
「意見を許可した覚えはないぞ楽乗将軍。分を弁えなさい」
楽乗は、内心で趙括を謗りながら、発言を詫びた。
それから趙括は斥候を放つ様に命令し、楽乗に「謝罪を受け入れよう」と返事した。
放たれた斥候は、秦軍の動向を確認した。第三の戦線の左側、平野の左端にある高平山の麓に、秦軍の本陣があることを知った。また同日中に、張唐率いる別働隊が平野に布陣したことも確認した。
「あの兵数からして、確実に麓のあの部隊が本陣だ。だが王齕とは聞いたこともない。秦軍は若手に機会を与えようとして、無名の人間を登用するのが好きな様だな。だが無駄だ。王齮のように、多大な損害を被る結果に終わるだけだ。誰か、戦線の内に残った姚賈(ようか)将軍には、張唐の動向に注意するように伝えるのだ」
「御意!」
同日 白起
白起は、第二戦線の砦から、趙括の軍が高平山に移動するのを目視していた。
彼は、傍に王翦を置いていた。自身の後継者と認識している王翦に対し、白起は、総帥の目線を体験させようとしたのだ。
「王翦よ、見ていただろう。眩しい程に輝くあの、趙と記された旗を」
「はい、見ていました。煌びやかですね。趙括は趙家の当主として、そして趙国軍の大将として、長平に立つに相応しいと勘違いしているのでしょう」
「その通りだ。その傲慢の鼻を、へし折ってやるのだ。この真の本陣は旗一つ立たせていないばかりか、副将のみしかその存在を知らぬ。敵は、王齕将軍率いる大軍が、本陣だと思い込んでいる」
白起がそういった時、隣で王翦が笑った。その声もまた、心地の良い、澄んだ声であった。
「王齕将軍などと。王齮は可哀想ですね。こんな大戦を締め括る一線に於いて、大将として戦えないとは。歴史上では、これから起こる激戦によって、これまでの戦いは日の目を浴びなくなります。その圧倒的戦果の前に、長平に参加したことすら、忘れ去られていくのでしょう」
白起は、敵を侮らせる為、王齮の時と同様に、秦は無名の将軍を登用したと思わせようとした。惑わせる策の為に、無名の将軍の名を考えるのは、面倒であった。だから白起は、王齮と名前が似ている従者の齕から、名前を借りた。
将軍王齕。我ながら、いう度に笑いが出そうになると、白起は思っていた。
白起は深呼吸をし、気持ちを切り替えた。そして、神妙な面持ちになった。
「命を下す。攻撃だ!」
白起の命令で、真の本陣から赤い大旗が掲げられた。それは、第三の戦線からは目視できない大きさであった。そして、趙軍本陣の趙括軍からも、高平山が壁となることで、目視はできなかった。
その旗を確認できるのは、高平山麓にいる、王齮率いる偽の本陣。つまり王齕軍だけであった。
王齕はゆっくりと前身し、高所に陣取る趙括軍に接近した。放たれる矢は、蒙驁率いる重装歩兵の盾によって、防がれた。
兵士は、盾を地面に叩きつけ、低音で唸る。
挑発された趙括は、将軍扈輒の重装歩兵を前へ出した。彼らは王齕軍によって、誘い出されたのである。
蒙驁ら王齕軍前線部隊は、盾を敵とぶつけ合い、合間を縫って戟で斬った。歴戦の猛者達は、懸命な戦いぶで、扈輒らの数を減らした。
趙括は、楽乗、司馬浅率いる重装騎兵を周り込ませた。王齕軍の騎兵は少なく、騎兵同士が衝突すれば必ずや、王齕軍の横腹を攻められると思った。しかし次の瞬間、山の反対側の麓から現れた楊摎によって、趙括軍は背後を襲われる結果となった。
楊摎は、秦軍の重装騎兵を率いて、趙括軍の後詰めを素早く撃破した。そのまま下山の為の道を塞ぎ、趙括軍の退路を断ち、山上に追い立てた。狭い山道に於いては、趙括軍の数的有利は驚異にならなかった。大軍が展開できない状況に於いては、逃げ惑う歩兵と、それを追い立て勇みたった、重装騎兵がいるだけであった。
僅か一刻半(三時間)の出来事であった。
第一戦線にて、守備兼長平平野の警戒を勤めていた将軍姚賈は、趙括軍の劣勢を知ると、楊摎を背後から攻めるべく移動を開始した。
姚賈の視野は余りに狭かった。
「私が今楊摎の背を攻めれば、数的有利から、敵を討てる! 皆の者着いて参れ! 大将をお救いし、その功績で褒美を頂くのだ!」
目の前の小利に惑わされた姚賈は、移動をしたことにより、平野に陣取る秦軍右翼軍の張唐と胡傷に、背を向けることになった。
張唐、胡傷は、姚賈の背後を攻撃した。数的不利は、張唐、胡傷の力量に依り容易に覆された。意図的に作り出された追撃戦の様式は、徴兵されたばかりの秦兵を奮い立たせ、徴兵されたばかりの趙兵を恐れさせた。
「この調子だ胡傷! 攻めたてるのだ!」
張唐の激は、秦兵を更に勢いつかせた。一方の胡傷は、冷静沈着であった。
「兵士は文字も読めず戦略や戦術など頭にない。命のやり取りという激動の環境に在っては、追っているのか追われているのか、刃を向けているのか向けられているのか、ただそれだけだ。趙奢亡き今、私の仇はその跡継ぎの趙括だ。閼与の雪辱を果たさせて貰おう……!」
張唐、胡傷は姚賈を破った。あとは、楽乗、司馬浅の背後を、攻めるだけであった。しかし楽乗は勇猛なだけでなく、知力もある将軍であった。
楽乗は、趙括軍が楊摎に不意打ちをされたことを知ると、直ぐ様自分の部隊だけで、目の前の王齕軍騎兵を打ち破れると判断し、司馬浅の部隊を、楊摎の妨害に向かわせた。そして楽乗は直ぐ様、王齕軍騎兵を率いる蔡尉を敗走させた。
「そのまま王齕を討ち取るのだ! 攻め立てろ! 趙の精兵どもよ!」
楊摎は、下山しようとする山上の趙括軍を防ぎながらも、優れた練度で司馬浅と交戦した。
「馬を降りれば防戦もできる。ましてや下から登ってくる司馬浅など敵ではない。だが趙括が機を見て死力を尽くしてくれば、いくら私とて長くは持たぬぞ……張唐殿と胡傷殿はまだか……!」
趙王の命令で、趙括は長平方面軍の大将として、長平に着任した。
それから彼は、趙奢の威光、そして兵法の研究家としての自信に託けて、楽乗ら副将を見下した。
楽乗は、血筋しか取り柄がない趙括に、言葉で散々に詰られたせいで、憤慨していた。しかし、相手が廉頗ではない以上、本音をぶつけ合うことなどできず、気分で首を刎ねられかねないと悟っていた為、黙り込むしかできなかった。
「私は臆病な廉頗とは違い、勇敢に戦う所存だ。出(いで)て活路を見出すのである。我らには、国内から増援を集め、総勢二十五万の大軍である」
「敵は三十万の大軍です。砦に籠っているべきです」
「意見を許可した覚えはないぞ楽乗将軍。分を弁えなさい」
楽乗は、内心で趙括を謗りながら、発言を詫びた。
それから趙括は斥候を放つ様に命令し、楽乗に「謝罪を受け入れよう」と返事した。
放たれた斥候は、秦軍の動向を確認した。第三の戦線の左側、平野の左端にある高平山の麓に、秦軍の本陣があることを知った。また同日中に、張唐率いる別働隊が平野に布陣したことも確認した。
「あの兵数からして、確実に麓のあの部隊が本陣だ。だが王齕とは聞いたこともない。秦軍は若手に機会を与えようとして、無名の人間を登用するのが好きな様だな。だが無駄だ。王齮のように、多大な損害を被る結果に終わるだけだ。誰か、戦線の内に残った姚賈(ようか)将軍には、張唐の動向に注意するように伝えるのだ」
「御意!」
同日 白起
白起は、第二戦線の砦から、趙括の軍が高平山に移動するのを目視していた。
彼は、傍に王翦を置いていた。自身の後継者と認識している王翦に対し、白起は、総帥の目線を体験させようとしたのだ。
「王翦よ、見ていただろう。眩しい程に輝くあの、趙と記された旗を」
「はい、見ていました。煌びやかですね。趙括は趙家の当主として、そして趙国軍の大将として、長平に立つに相応しいと勘違いしているのでしょう」
「その通りだ。その傲慢の鼻を、へし折ってやるのだ。この真の本陣は旗一つ立たせていないばかりか、副将のみしかその存在を知らぬ。敵は、王齕将軍率いる大軍が、本陣だと思い込んでいる」
白起がそういった時、隣で王翦が笑った。その声もまた、心地の良い、澄んだ声であった。
「王齕将軍などと。王齮は可哀想ですね。こんな大戦を締め括る一線に於いて、大将として戦えないとは。歴史上では、これから起こる激戦によって、これまでの戦いは日の目を浴びなくなります。その圧倒的戦果の前に、長平に参加したことすら、忘れ去られていくのでしょう」
白起は、敵を侮らせる為、王齮の時と同様に、秦は無名の将軍を登用したと思わせようとした。惑わせる策の為に、無名の将軍の名を考えるのは、面倒であった。だから白起は、王齮と名前が似ている従者の齕から、名前を借りた。
将軍王齕。我ながら、いう度に笑いが出そうになると、白起は思っていた。
白起は深呼吸をし、気持ちを切り替えた。そして、神妙な面持ちになった。
「命を下す。攻撃だ!」
白起の命令で、真の本陣から赤い大旗が掲げられた。それは、第三の戦線からは目視できない大きさであった。そして、趙軍本陣の趙括軍からも、高平山が壁となることで、目視はできなかった。
その旗を確認できるのは、高平山麓にいる、王齮率いる偽の本陣。つまり王齕軍だけであった。
王齕はゆっくりと前身し、高所に陣取る趙括軍に接近した。放たれる矢は、蒙驁率いる重装歩兵の盾によって、防がれた。
兵士は、盾を地面に叩きつけ、低音で唸る。
挑発された趙括は、将軍扈輒の重装歩兵を前へ出した。彼らは王齕軍によって、誘い出されたのである。
蒙驁ら王齕軍前線部隊は、盾を敵とぶつけ合い、合間を縫って戟で斬った。歴戦の猛者達は、懸命な戦いぶで、扈輒らの数を減らした。
趙括は、楽乗、司馬浅率いる重装騎兵を周り込ませた。王齕軍の騎兵は少なく、騎兵同士が衝突すれば必ずや、王齕軍の横腹を攻められると思った。しかし次の瞬間、山の反対側の麓から現れた楊摎によって、趙括軍は背後を襲われる結果となった。
楊摎は、秦軍の重装騎兵を率いて、趙括軍の後詰めを素早く撃破した。そのまま下山の為の道を塞ぎ、趙括軍の退路を断ち、山上に追い立てた。狭い山道に於いては、趙括軍の数的有利は驚異にならなかった。大軍が展開できない状況に於いては、逃げ惑う歩兵と、それを追い立て勇みたった、重装騎兵がいるだけであった。
僅か一刻半(三時間)の出来事であった。
第一戦線にて、守備兼長平平野の警戒を勤めていた将軍姚賈は、趙括軍の劣勢を知ると、楊摎を背後から攻めるべく移動を開始した。
姚賈の視野は余りに狭かった。
「私が今楊摎の背を攻めれば、数的有利から、敵を討てる! 皆の者着いて参れ! 大将をお救いし、その功績で褒美を頂くのだ!」
目の前の小利に惑わされた姚賈は、移動をしたことにより、平野に陣取る秦軍右翼軍の張唐と胡傷に、背を向けることになった。
張唐、胡傷は、姚賈の背後を攻撃した。数的不利は、張唐、胡傷の力量に依り容易に覆された。意図的に作り出された追撃戦の様式は、徴兵されたばかりの秦兵を奮い立たせ、徴兵されたばかりの趙兵を恐れさせた。
「この調子だ胡傷! 攻めたてるのだ!」
張唐の激は、秦兵を更に勢いつかせた。一方の胡傷は、冷静沈着であった。
「兵士は文字も読めず戦略や戦術など頭にない。命のやり取りという激動の環境に在っては、追っているのか追われているのか、刃を向けているのか向けられているのか、ただそれだけだ。趙奢亡き今、私の仇はその跡継ぎの趙括だ。閼与の雪辱を果たさせて貰おう……!」
張唐、胡傷は姚賈を破った。あとは、楽乗、司馬浅の背後を、攻めるだけであった。しかし楽乗は勇猛なだけでなく、知力もある将軍であった。
楽乗は、趙括軍が楊摎に不意打ちをされたことを知ると、直ぐ様自分の部隊だけで、目の前の王齕軍騎兵を打ち破れると判断し、司馬浅の部隊を、楊摎の妨害に向かわせた。そして楽乗は直ぐ様、王齕軍騎兵を率いる蔡尉を敗走させた。
「そのまま王齕を討ち取るのだ! 攻め立てろ! 趙の精兵どもよ!」
楊摎は、下山しようとする山上の趙括軍を防ぎながらも、優れた練度で司馬浅と交戦した。
「馬を降りれば防戦もできる。ましてや下から登ってくる司馬浅など敵ではない。だが趙括が機を見て死力を尽くしてくれば、いくら私とて長くは持たぬぞ……張唐殿と胡傷殿はまだか……!」