▼詳細検索を開く
作者: 唯響-Ion
残酷な描写あり R-15
第百八一話 長平の戦い 六
 前回の激戦で多大なる損害を出した王齮であったが、白起より増援三十万を受け取る。どの様に用いるべきが軍議をするも、張唐は王齮に詰め寄る。
 同年 11月(開戦1年2ヶ月目) 長平

 王齮は、増援として送られてきた大軍を見て、絶句していた。それは無理もないことであった。それは急遽、国中から集められた兵三十万であった。二十代後半で将軍になったばかりの男には、荷が重すぎる兵数であった。
 副官の司馬靳や胡傷らも、目が泳いでいるのが見えた王齮は、少し安心した。
「司馬靳将軍、咸陽から派遣されてきた使者は、秦王が兵を派遣した旨を、我らに伝えてきました。しかし……これらの大軍を、どの様に用いるべきか、長平ばかりを攻めるのかなどは、なにも語りませんでした」
「つまりそれは、自分たちで考えろということだ。武安君は流石であるな。秦軍の力を秦王様に説明させ、かような大軍を、一挙に派遣させるように説得したのだからな」
 軍議では、胡傷や司馬靳が主張した、戦略的一点突破という意見が採用された。これは、東西南北の道の内、趙へ続く東を除く三方面が秦国側にあることがあるというのが、大きな理由であった。そういう国境線であれば、退くも進むも簡単である。
 そして、この長平という地域は、その中でも特に大軍を置くのに優れた土地であった。大量の人や物を派遣できる堅固な道が幾つも続いており、兵站の維持が容易であった。
 三十万もの大軍があれば、韓や魏も趙と同時に相手をすることができる為、韓と魏を牽制することができるという、副次的な理由もあった。

 軍議が煮詰まり、具体的な攻撃方法について、話が及んだ時のことであった。張唐は、眉間に深いシワを刻みながら、太い腕を組み、口を開けた。
「私は胡傷の友として、その戦略眼が優れていることは認めている。無論、司馬靳将軍のそれにも、畏敬の念を抱いています。しかしながら、趙軍は先の殴り合いを経て互いに回復する時間が必要となり、我らはとにかく兵を休息させ、こうして増援を得た。だが一方で趙軍は休むことなく砦を修復し、斥候によれば、二十万の大軍が第二第三の戦線に到着したとか」
 張唐がそこまでいった時、王齮は口を挟んだ。
「大軍を得たとて、兵力や軍備による戦力差が縮まった訳ではない……といいたいのですね。つまり我らが取れる手は、再び、長平方面軍が総力を挙げて突撃をするしかない」
「その通り。今までと同じ方法しか取れないというのに、趙を破る算段があるのですか?」
 王齮は顔を伏せた。胃がキリキリする。だが大将として、将兵の心を安んじる必要があった。
「まだ砦が、完全に修復された訳ではありません。また我が軍には今回、幾つかの攻城兵器が追加されています。これを組み立て、遠距離からの支援を行います。前回は突撃のみに賭けるしかありませんでしたが、両端の突撃と同時に投石を行えば、大きく破壊された中心部の砦にも突撃し、砦内部を撹乱させることができます。白兵戦となれば、我らは他のどの国の軍にも劣らぬ精鋭です。第二の戦線は、必ずや破れます!」
 楊摎や張唐は、その攻撃作戦に於ける兵力の損耗がどれ程のものになるのか、思案した。しかし、既に一年以上が経過した戦を終えるには、可能な手を打つしかないと思い、その懸念を口には出さなかった。


 前260年(昭襄王47年) 1月(開戦1年4ヶ月目)

 遂に秦軍は三十万の大軍を率いて、趙軍第二戦線へ攻撃を仕掛けた。趙軍は廉頗の引き締めで、戦意は高いままであった。弛まぬ努力を続けていた趙軍は、秦軍と死闘を繰り広げた。少しながら雪が降り積もっていた長平では放火ができず、両軍は刃と拳がぶつかり合う肉弾戦となった。
 前回と異なり、戦いは一日では終わらなかった。数日間の戦いで長平は死屍累々となり、両軍の骸で川が堰き止められ、雪と死体の重みで一部の砦が崩れ、崖を落ちていった。

 秦軍は二五万の損害を出しながら、戦線を破った。しかし趙軍は早期に撤退戦に切り替え、その損害は五万程度に抑えられていた。
 趙軍は第三の戦線に撤退し、速やかに体制の立て直しを図った。
 秦軍は壊滅的な死傷者を出した為、逃亡兵が出ない様に監視し、軍としての体裁を保つことがやっとであった。
Twitter