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作者: 唯響-Ion
残酷な描写あり R-15
第百四五話 黄歇との舌戦
 魏に変わる次なる攻略地を楚に定めた秦王。しかしまたしても、藺相如と同様に、文官の存在が道を阻む。
 秦王は、魏冄の私欲に阻止される形で、魏にとどめを刺させずにいた。しかし、連戦連勝の秦軍の勢いを殺してはいけないと、次なる攻略地を選定しようとしていた。
 秦王は、趙を攻めたかった。しかし、藺相如や廉頗といった文武の両輪が王に忠誠を誓っている内は、攻めることはできないと感じていた。
 斉は領地の多くを楚に奪われたまま再起を成し遂げられずにいて、楚も鄢郢で負った傷が癒えずにいた。
 目下、趙に次ぐ強敵になり得るのは、斉か楚のどちらかであると、秦王は考えていた。
 その他は最早、眼中にない。いつでも滅ぼせる弱小国であると、考えていたのだ。
「唐姫よ、余は楚を攻め用と思う。そなたの故郷も、全て我が手の内に入れて見せよう。さすれば、そなたは秦にいながら、永久(とこしえ)に故郷にいることもできるのだ」
「お心使い、ありがとうございます。秦王様だけが、私の主です。楚王や楚の地に気を使う必要はありません。私は、秦王様の覇業をお支えいたします……!」

 秦王は楚への侵攻を白起に命じた。巴蜀や隴西、南郡の民や兵馬に詳しい白起は、魏冄よりも適任であった。宮廷を納得させられた秦王は、白起の次なる活躍に期待した。
 しかし、またしても彼の覇業を邪魔する存在が現れた。それは、楚の若き文官、黄歇であった。
 秦が楚侵攻を計画し、国境線付近に兵馬を集めだしたことに気がついた楚は、迎え撃つだけの兵力がなく、一か八かの策に出た。
 黄歇は、咸陽を訪れ、楚王からの意向を伝えた。
「今、天下には秦と楚より強い国はありません。王は楚を討とうとされますが、これは丁度、二匹の虎が互いに戦うようなものです。共に傷き、他国の犬に襲われる危険があり、良策とはいえません。また大王は天下の地を領有し、その威力は天下一です。力を誇示するのではなく、仁義の道を厚くすれば、夏の始祖である禹や黄帝、名宰相である五覇の面々と、肩を並べられましょう。ここは、逆に楚と和親されるべきと存じます」
「余が攻めれば楚は滅ぶ。中原に近い陳を足掛かりにし、全ての国を同様に滅ぼしてやる。そして余は、秦の民には慈しみの心をもっておる。異国の民に仁義を尽くす面倒などせずとも、天下は余の下で、幸福に満ちた繁栄を遂げることができるのだ。いいたいことが分かるか。楚王の言葉は、最早、余にとっては無意味な説教に過ぎぬのだ」
「恐れながら、秦王様のお言葉は、少し見識に欠けると存じます。秦王様は、天下が秦となれば、全ての民が秦人として、心から幸福を感じられると思っておいでのようですが、それは妄想です。秦王様が即位されてすぐ、六国が合従し秦を攻めました。その折り、北方の秦人が、反旗を翻したのではありませぬか?」
 秦王は、内心、笑いが堪えきれなかった。分かりきっていたことだが、やはり、義渠は合従に参加していたのだ。
「黄歇殿、それは実(まこと)に楚王の言葉か? 余が知る楚王は、かように口が上手い男ではない筈だ」
「間違いなく、我が楚王様の言葉にございます。臣下が献じた言葉を、名君は良く聞き、優れた意見を集め、国の意見として纏めます。つまりこれは国の総意であり、国そのものである王の意向に他なりません」
「楚王は良き臣下に恵まれたのであるな……。だがな黄歇よ、余はこういう疑念を捨てきれぬ。そなたは楚の為、秦の侵攻を阻止しようとして、詭弁を弄しているのではないかと。だがそなたの言葉にも一理がある。そこで、余が楚侵攻を中止する代わりに、なにかを差し出して頂きたい」
「よろしいでしょう。ではこちらは、太子を咸陽へ留めおきます」
「よかろう。禍根を水に流して手を結びたいというそなたの誠意、確かに受け取った」

 秦王は、黄歇に護衛をつけ、陳へと送り返した。そして、藺相如の時と同様に、今回も、楚を攻められないと感じた。
 一人の文官の文や言葉は、幾万の兵の刃にも勝る。
 秦王は、自分に忠誠を違う、魏冄に代わる文官の存在を切望した。
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