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作者: 唯響-Ion
残酷な描写あり R-15
第百三五話 刎頚の交わり
 将軍廉頗は、自分を見ては逃げ出す藺相如に腹を立てていた。藺相如の食客もまたそんな藺相如に、苦言を呈すが……。
 同年 邯鄲

 趙の将軍廉頗は、苛立っていた。盛況且つ兵の損害が少ない趙軍を用いて、狡猾な秦を討伐しようとしない趙王に、腹を立てていたのだ。
 宮中で、苛立ちながら道草を食っていた。すると、自分を見つけてそそくさと逃げ去る、藺相如の姿があった。ネズミのように逃げるその姿に、廉頗の苛立ちは更に増した。
「あの男が秦王を口舌の労で誑(たぶら)かせたが故に、私は今日の気だるさを感じているのだ。あんな、根性もない逃げ足が速いだけの男如きに惑わされる秦王など、小物ではないか。藺相如さえいなければ……!」
 その愚痴を聞いた廉頗の副官もまた、藺相如を批判した。
「藺相如は、元は遊説家であり、卑しい身分です。にも関わらず、今や上卿(じょうけい)となり、文官の筆頭として、我が物顔で宮中を歩いている」
「斉討伐で斉兵を討伐する功績を上げ、私は上卿となった。その私とあの男が同格など、納得がいかぬ。趙王も、口先三寸であの男に、惑わされたのだ。嘆かわしい!」

 藺相如は、その後も、廉頗と顔を合わせないように徹底していた。朝議に参内する折りは時間をずらし、朝議が終われば、さっさと馬車に乗り、宮殿を後にしていた。
 廉頗と目が合おうものならば、すぐに目を逸らし、人影に隠れた。
 そんな藺相如の対応に、彼の食客は、情けなさを感じていた。今や宮廷では、廉頗が戦を渇望し、それを邪魔した藺相如を憎んでいるというのは、誰もが知るところとなっていた。廉頗を恐れて逃げ隠れる主人に対し、食客達の心は、離れかかっていたのである。
「藺相如様、最近のあなた様の行動について、申し上げたきことがございます」
「食客が主人にそんな怖い顔をして、なんの話だ。私に非があるならば、認めよう。さぁ、申してみよ」
「では遠慮なく。この頃のあなた様には、どうも魅力を感じません。それは他の食客達も、同じ気持ちです。我らが故郷を捨て、あなた様の下へ身を寄せたのは、一重にその才知に惹かれ、教えを請いたいと思ったからです。しかし蓋を開けてみれば、あなた様は廉頗将軍に怯え、偉丈夫としての威厳もありませぬ。庶民であっても、その威厳のなさは恥じ入るところ。国家の柱とあれば尚のこと。あなた様がその態度を改めぬとあれば、我らは辞去する所存です」
「そうか、そのことか」
 そういうと藺相如は余裕の笑みを浮かべながら、毅然とした態度で言葉を続けた。
「一つ問う。そなたは廉頗と秦王、どちらがより恐ろしいか」
「天下一の悪人、秦王に決まっています」
「全ての人が同意見だろう。私はその秦王を叱責し、瓶を鳴らさせ、恥をかかせた。そんな私が廉頗将軍を恐れていると思うか?」
「ではなに故……廉頗将軍から逃げるのですか」
「良いか、今秦が趙を攻めないのは、政に藺相如、戦に廉頗ありと、警戒しているからだ。そのどちらかが欠けても、秦は再び我らに牙を剥くだろう。故に私は、廉頗将軍を避けているのだ。下らぬ個人の諍いで、国家の大事を、損なわぬようにな」
 藺相如の言葉に、食客は納得し、恥じ入った。

 やがて藺相如の言葉は、廉頗の耳にも入った。実直な廉頗は、藺相如の言葉を素直に受け止めた。そして恥ずかしくなり、自らの浅ましさを詫びる為、藺相如の邸宅を訪れた。
「罪深き廉頗が、藺相如様にお詫び申し上げる!」
 章台から門を眺めた時、廉頗が上裸で、背中に茨を背負った状態で跪いている姿が見えた。
 藺相如は恥を捨てて自らの過ちを認められる、廉頗のその実直さに心を打たれ、慌てて廉頗の許へ駆け寄った。
「立ってください、廉頗殿」
「いいえ、どうかこの茨で私を殴ってください。甲冑はおろか、衣も纏ってはいません。どうか私の謝意を受け入れ、私を殴ってください。私は貴公の思慮深さに気づかず、困らせた。さぁ殴ってください!」
 藺相如は頑固な廉頗の前に、同じように座った。そして、「武人ではない私には、言葉が最上の謝罪。殴るなど不要です」と告げ、廉頗を赦した。
 二人は屋敷に入り、盃を交わした。
「廉頗将軍、将兵だけで国を守ることはできません。外交や、王を諌めて国を安定させることも大切です。戦においても、武具兵糧を管理して、それを戦地へ送るのも、大切なことです」
「実(まこと)その通りにございます。文武の柱として、共に秦に抗いましょう」
「はい。文武の両輪の大切さを重んじる、優れた趙王様の為に、互いの戦を戦い抜きましょう」二人は互いに深く信頼し合い、国の為ならば互いの首を撥ねることも厭わないと誓い、二人は刎頚の交わりを結んだ。
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