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作者: 唯響-Ion
残酷な描写あり R-15
第百二三話 黽池県での宴
 司馬錯が陣没したことに、秦王は心を痛めた。白起を総帥に指定して派遣した一方で、自らは黽池県にて、趙王と交誼を深める宴を催す。
 同年 上庸県

 司馬錯は、配下の将軍らの実力や人望、家格で、序列を作っていった。そして司馬錯が具体的な指示を出さなくても、軍の規律が乱れず機能することを確認し、それから、天幕の中で寝込むようになっていった。
 それから少しして、司馬錯は陣没した。激動の人生を送った名将は、天寿を全うした。
 司馬錯の遺言に従い、張唐が臨時の総帥となった。その後、秦王は新たな総帥として白起を任命し、派遣した。


 前279年(昭襄王28年) 黽池(びんち)

 秦王は司馬錯が陣没したことを嘆くも、白起という柱がある限り、秦軍は最強であると、自らを鼓舞した。秦王は動揺していたが、その動揺を宥められる程、白起の存在は強大なものであった。
「この頃は魏冄も大人しい。さっさと隠居してほしいが、図太い者程長生きするものだな、唐姫よ」
「私たちの子も、図太い方がよろしいのでしょうか?」
「柱(ちゅう)には長生きして欲しいが、魏冄に似るのは不本意だな……」
 秦王は溜息を吐いた。
「私は魏冄等いなくとも、政を取りし切れる。その為、此度はこうして、趙との親交を深める宴を催したのだ。趙王は藺相如を連れて参る故、そなたを連れていくことはできぬ。いちゃもんを付けられては面倒だからな」
「それは仕方ありませぬ。ですが……用心なさってください。魏冄様の力が弱まり宮廷で王様の力が強くなるに連れ、どこか、慎重さが欠ける時が増えました」
「威風堂々というのが王のあるべき姿だ。諫言は感謝する。では行って参る」

 秦王は趙王や藺相如が待つ東屋へ入り、銅爵で酌み交わした。女達が楽隊の音に合わせ、優雅に舞う。その姿を酒の肴にし、酔いは深くなっていった。
 宴も酣(たけなわ)。酔いが回った秦王は、口が滑った。
「趙王はこの黽池に来たくなかったと小耳に挟みましたぞ。趙の国境から遠く、命を奪われるのではと恐れをなしたのでしょう。しかしそれは恐れすぎというもの。余は真に、趙と仲良くしたいと思っているのだ。楚の懐王のようにはせぬ……」
「恐れをなした訳ではありませぬ。余はただ、この藺相如のような勇気がなければ、生きて帰れぬこともあるやもしれぬと、警戒をしたまでのこと……。しかしそれも過去の話です。親睦を深めましょう、秦王よ」
「そなたは余より十五も歳が若いのに、実に堂々たる回答をするな。素晴らしい!」
 ご機嫌の秦王は、趙王の趣味である楽器の話題を出した。
「そういえばそなたは、瑟(しつ)を、嗜んでいるのだとか。どうだろう、聴かせてはくれまいか」
「良いでしょう。交誼を深める為、演奏しましょう」
 趙王は瑟を奏でた。秦王は目を閉じ、その調べに聴き入った。
「良い音色だ。この会盟を祝し、記録させよう」
 史官は秦王の命令で、記録し、読み上げた。
「秦王稷二十八年、黽池の宴にて秦王の命により、趙王が瑟を奏でる」
「良いぞ、この出来事は我らの固い絆の現れだ」
 満悦の秦王と異なり、趙王は不満気な顔をしていた。簡略化された文章では、まるで趙王は、秦王の命令に従う立場であるかのように読めるからだ。
「秦王よ、その一文を訂正しては貰えぬか」
「事実をねじ曲げる必要はない。余は……書き換えるというのがすこぶる嫌いでな」
「秦王……!」
 酒も回り、趙王は今にもその怒りが爆発しそうになっていた。だがここは秦の領地であり、諍いが起きれば、勝ち目はないことは明らかである。
 宴として招かれた建前、兵も少なく、一時の感情に身を任せることは危険であると、趙王は理解し、思い留まっていた。
 その怒りを感じ取った藺相如は、動いた。手に酒の入った瓶を取り、秦王の側へ寄った。
「秦には、中原にはない旋律で、歌を歌うのだとか、秦王、この瓶を鳴らし、秦の歌を歌って頂けませぬか」
「かような鬼気迫る顔で、図々しいぞ。そなたの目はいつも血走っていて不愉快だ。さっさと下がれ」
 秦王は歌うことを拒否すると、藺相如はその瓶を頭上に掲げ、叫んだ。
「私と秦王様は五歩の距離! 私が瓶を振り落とせば、誰もその破片から秦王を守れませぬ! 瓶を鳴らさぬとあらば、私の血と破片が、秦王に降り注ぎますぞ!」
「貴様はまたしても生きるの死ぬのと……下らん。実に下らん。なにをかように、叫ぶことがあるのか……! 瓶をここへ持って参れ。鳴らしてやろう」
 秦王は、渋々、箸で瓶を叩いた。
「史官よ、記録せよ」
 藺相如の命で、史官は記録し、読み上げた。
「趙王何二十年、趙王は黽池にて秦王と会し、秦王にして瓶を鳴らしめる」
 趙王は安堵した表情で、溜息を吐いた。藺相如は一礼し席に戻り、なにごともなかったかのように、酒を飲み干した。
 秦王は、政というものに心底、うんざりした。
澠池県……現在の中華人民共和国河南省三門峡市
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