残酷な描写あり
R-15
第百五一話 蒙驁、白起を諭す
白起は、幕舎を訪れた蒙驁と二人、久方ぶりの酒を呑む。蒙驁は友として、鄢での一件を咎める。
白起は、温めた酒を器に注ぎ、乾杯した。
蒙驁の髭にも白い毛が混じっており、出会ってから長い時が流れたことを感じた。
「出会ってから、三十年も経った。日々戦に明け暮れ、そなたとこうして盃を交えるのも、いつぶりか思い出せぬ」
「武安君殿は、いつまでもお若い。私の方が老齢に見えますな」
「そういうな。そなたの方が、心労も溜まるだろう。私は、戦地に在っては上官もなく、優れた部下を信じて戦うだけだ。家族もおらず、迷いもない」
「武安君殿の強さの裏には、そういう理由もあるのですね。家族が……足枷になることもありますか」
「あるであろう。家族を失うのは……辛い。今でも、育ての義母(はは)を失った、あの雪の日のことを思い出す。蒙武殿は息災か?」
「えぇ、牛のような男です。怪我をしてもすぐに治ります」
蒙武の名前を出してから、蒙驁の顔は曇った。白起は、嫌な予感がした。
「武安君殿、一つお話ししたいことが」
「なんでも申せ」
「実を申さば、倅の武は、武安君殿に不信感を抱いております。それは武だけではなく、多くの兵も同様です」
「なに故か、そなたは分かるか?」
「はい。皆、鄢が沈む光景が脳裏に焼き付いているのです」
「やはりそうであったか。あの日以来、周囲の私を見る目が変わったように思う。将兵から笑顔が消え、過度に緊張しているように感じる」
「皆、鄢を沈めたことを、蛮行であると感じています」
「教えてくれないか。なにがそんなに不満なのだ?」
「多くの兵にとって、政や国同士の争いなど、預かり知らぬこと。敵は目の前の兵や、武器を持って抗ってくる民です。にも関わらず……あなたは巨大な城を、文字通り跡形もなく……消し去った。武器も持てぬ老人や童、赤子に至るまで、そこに住む全ての人に、抗うことすらさせず……殺したのです。不満を感じても、止むを得ませぬ」
白起は、ハッとした。自分が慢心をしていたことに、ようやく気づいた。いつからか、将兵とは一心同体となっており、志を同じくしてくれているのだと、錯覚していた。しかし彼らは給金や仲間の為に戦働きをするだけであり、天下のことなど、気にしているはずもないのだ。大義を知らなければ、城を消し去るなど、理解ができるはずもないのだ。
器を台に置く時、手から力が抜け、中の酒は零れないながらも叩きつけるような形になった。
「失言、失礼致しました」
「良いのだ。私に非がある」
「武には最近、女ができました。生きる糧を得て、戦に際しても、猪のように暴れるだけでなく、分別を持って臨むようになりました。だからこそ、鄢での出来事に、心を痛めたのです」
「兵も人の子。生きる糧を得てしまうからこそ、私は鄢を沈めたのだ。私は、武器を持たずとも、敵国の民は全て敵だと思っている。兵を産み育て、武器を作り、飯を与えるばかりか、生きる糧となって兵を強くする。だからこそ、残しておいてはいけないと……そう考えていたのだ」
慟哭する白起に気づき、蒙驁は手に持った酒を台へ置き、拱手をした。
「これから私がいうことは、部下ではなく、友としての言葉です。今そうして動揺しているのは、あなたが人の話を聞く優れた将だからです。過ぎたことは、繰り返さなければいいのです。此度の華陽での戦での戦では、誰もがあなたの采配に敬服していました。これからは、民への被害を抑えるだけで良いのです。不躾な物いいをお許しください」
そういって蒙驁は、席を立った。
同年 胡傷
胡傷は三万の兵で黄河を北上し魏を攻め立てた。魏は最早、迎撃する力を持っていなかった。一ヶ月の内に、巻・蔡陽・長社の三城を陥し、再び少数の兵で救援に来た趙兵へも逆襲し、趙の観津をも奪い取った。
魏は流石に堪え、南陽の地を割譲することで、秦軍と和睦した。
蒙驁の髭にも白い毛が混じっており、出会ってから長い時が流れたことを感じた。
「出会ってから、三十年も経った。日々戦に明け暮れ、そなたとこうして盃を交えるのも、いつぶりか思い出せぬ」
「武安君殿は、いつまでもお若い。私の方が老齢に見えますな」
「そういうな。そなたの方が、心労も溜まるだろう。私は、戦地に在っては上官もなく、優れた部下を信じて戦うだけだ。家族もおらず、迷いもない」
「武安君殿の強さの裏には、そういう理由もあるのですね。家族が……足枷になることもありますか」
「あるであろう。家族を失うのは……辛い。今でも、育ての義母(はは)を失った、あの雪の日のことを思い出す。蒙武殿は息災か?」
「えぇ、牛のような男です。怪我をしてもすぐに治ります」
蒙武の名前を出してから、蒙驁の顔は曇った。白起は、嫌な予感がした。
「武安君殿、一つお話ししたいことが」
「なんでも申せ」
「実を申さば、倅の武は、武安君殿に不信感を抱いております。それは武だけではなく、多くの兵も同様です」
「なに故か、そなたは分かるか?」
「はい。皆、鄢が沈む光景が脳裏に焼き付いているのです」
「やはりそうであったか。あの日以来、周囲の私を見る目が変わったように思う。将兵から笑顔が消え、過度に緊張しているように感じる」
「皆、鄢を沈めたことを、蛮行であると感じています」
「教えてくれないか。なにがそんなに不満なのだ?」
「多くの兵にとって、政や国同士の争いなど、預かり知らぬこと。敵は目の前の兵や、武器を持って抗ってくる民です。にも関わらず……あなたは巨大な城を、文字通り跡形もなく……消し去った。武器も持てぬ老人や童、赤子に至るまで、そこに住む全ての人に、抗うことすらさせず……殺したのです。不満を感じても、止むを得ませぬ」
白起は、ハッとした。自分が慢心をしていたことに、ようやく気づいた。いつからか、将兵とは一心同体となっており、志を同じくしてくれているのだと、錯覚していた。しかし彼らは給金や仲間の為に戦働きをするだけであり、天下のことなど、気にしているはずもないのだ。大義を知らなければ、城を消し去るなど、理解ができるはずもないのだ。
器を台に置く時、手から力が抜け、中の酒は零れないながらも叩きつけるような形になった。
「失言、失礼致しました」
「良いのだ。私に非がある」
「武には最近、女ができました。生きる糧を得て、戦に際しても、猪のように暴れるだけでなく、分別を持って臨むようになりました。だからこそ、鄢での出来事に、心を痛めたのです」
「兵も人の子。生きる糧を得てしまうからこそ、私は鄢を沈めたのだ。私は、武器を持たずとも、敵国の民は全て敵だと思っている。兵を産み育て、武器を作り、飯を与えるばかりか、生きる糧となって兵を強くする。だからこそ、残しておいてはいけないと……そう考えていたのだ」
慟哭する白起に気づき、蒙驁は手に持った酒を台へ置き、拱手をした。
「これから私がいうことは、部下ではなく、友としての言葉です。今そうして動揺しているのは、あなたが人の話を聞く優れた将だからです。過ぎたことは、繰り返さなければいいのです。此度の華陽での戦での戦では、誰もがあなたの采配に敬服していました。これからは、民への被害を抑えるだけで良いのです。不躾な物いいをお許しください」
そういって蒙驁は、席を立った。
同年 胡傷
胡傷は三万の兵で黄河を北上し魏を攻め立てた。魏は最早、迎撃する力を持っていなかった。一ヶ月の内に、巻・蔡陽・長社の三城を陥し、再び少数の兵で救援に来た趙兵へも逆襲し、趙の観津をも奪い取った。
魏は流石に堪え、南陽の地を割譲することで、秦軍と和睦した。
巻……現在の中華人民共和国河南省原陽県の北西の原興街道
蔡陽……現在の中華人民共和国湖北省棗陽市の南西
長社……現在の中華人民共和国河南省長葛市の東)
観津……現在の中華人民共和国河北省武邑県の東の審坡鎮
南陽……現在の中華人民共和国、太行山以南、黄河以北の地域
蔡陽……現在の中華人民共和国湖北省棗陽市の南西
長社……現在の中華人民共和国河南省長葛市の東)
観津……現在の中華人民共和国河北省武邑県の東の審坡鎮
南陽……現在の中華人民共和国、太行山以南、黄河以北の地域