残酷な描写あり
R-15
第九四話 楚の内情
宋を滅ぼしたことで、楚の宮廷内の勢力争いは、大きく動くことになる。
秦 咸陽
戦勝後の朝議にて、秦王は、合従軍参加に貢献した丞相魏冄や国尉白起を讃えた。白起への加増と、魏冄への陶邑の冊封を伝え、両者は秦王に感謝した。
兵を一人も出さずに陶邑を得たという事実は、魏冄の名声を更に高めた。それは彼の求心力を高め、秦王より魏冄に忠誠を誓う者も増え、宮廷は再び、派閥によって分断された。
しかし大勝後に宮廷で大きな動きがあったのは、秦だけではなかった。勢力争いで、最も大きな局面を迎えたのは、東南の大国楚であった。
楚 郢(えい)
首都の郢にて楚の民は、楚軍の帰還を祝福した。また若き楚王も、帰還した将軍淖歯を朝議にて讃えた。
「此度の淖歯将軍の活躍は、我が楚が各地方の分裂状態から再び一致団結したことで、成しえた象徴的な出来事だ。それは一将軍の活躍としてではなく、我が楚の活躍として、盛大に祝福したい。よって、淖歯将軍を大将軍とし、天下に強大な楚の復活を知らしめたいと思う」
楚王は、彼を大将軍にしようとした。その提案を多くの臣下は受け入れようとしたが、令尹(れいいん)屈原は、反対した。
「それはなりません我が楚王様。淖歯将軍は、そのような大任を背負える器ではございませぬ」
令尹屈原の発言で、歓喜の声が上がっていた宮廷内は、静まり返った。
「令尹よ、なに故そう思うのか」
「申しあげます。一つに、淖歯将軍はこれまで目立った功績がない並の将軍であり、一度の大功のみで大将軍となれば、軍や地方有力者から、必ずや不満の声があがるでしょう。二つに、淖歯将軍は家柄が悪い。実力で昇ってきたといえば聞こえは良いが、つまるところそれは、どこの馬の骨かも分からぬということ。そのような者を大将軍とすれば、軍内や地方有力者から不満の声があがるでしょう。そうなれば楚は再び、まとまりを欠くことになります」
令尹屈原の言葉で、宮廷内の意見は変わった。屈原が台頭してから数年、彼の優れた見識によって、宮廷は徐々に一つにまとまりだしていた。各地方の派閥を超越した、楚の一つの大きな柱として、彼は異彩を放っていた。
しかし彼には敵も多かった。その歯に衣着せぬ物言いは、必要のない反感を買いがちであった。そして令尹屈原にとっては不運なことに、その筆頭が、楚王その人であった。
「令尹よ、そなたは幾度となくその優れた見識を披露し、今や余を凌駕するほどの尊敬を、国中から集めている。そなたは我が父王に寵愛され、父王が秦へ向かう時にはそれを諌め、その死を知れば誰よりも悲しんだ。それからというもの、新たに践祚(せんそ)した余の意見に、そなたは尽く反対する。申せ令尹よ、そなたは余を、王として認めておらぬのか」
「申しあげます。懐王様がおられぬ今、我が楚の王はただ一人、今玉座に腰をかけているあなた様のみです」
「ならば余を敬い、異を唱えるのをやめよ!」
「楚王様、敬っているからこそ忠言するのです。忠言は耳に逆らうものです。どうか堪えて、良き采配を振るって頂きますようお願いいたします」
楚王は、挑発されているのかと思った。しかし、こういう配慮にかけた発言が目立つのが屈原という男だということを思い出し、楚王は黙った。
戦勝後の朝議にて、秦王は、合従軍参加に貢献した丞相魏冄や国尉白起を讃えた。白起への加増と、魏冄への陶邑の冊封を伝え、両者は秦王に感謝した。
兵を一人も出さずに陶邑を得たという事実は、魏冄の名声を更に高めた。それは彼の求心力を高め、秦王より魏冄に忠誠を誓う者も増え、宮廷は再び、派閥によって分断された。
しかし大勝後に宮廷で大きな動きがあったのは、秦だけではなかった。勢力争いで、最も大きな局面を迎えたのは、東南の大国楚であった。
楚 郢(えい)
首都の郢にて楚の民は、楚軍の帰還を祝福した。また若き楚王も、帰還した将軍淖歯を朝議にて讃えた。
「此度の淖歯将軍の活躍は、我が楚が各地方の分裂状態から再び一致団結したことで、成しえた象徴的な出来事だ。それは一将軍の活躍としてではなく、我が楚の活躍として、盛大に祝福したい。よって、淖歯将軍を大将軍とし、天下に強大な楚の復活を知らしめたいと思う」
楚王は、彼を大将軍にしようとした。その提案を多くの臣下は受け入れようとしたが、令尹(れいいん)屈原は、反対した。
「それはなりません我が楚王様。淖歯将軍は、そのような大任を背負える器ではございませぬ」
令尹屈原の発言で、歓喜の声が上がっていた宮廷内は、静まり返った。
「令尹よ、なに故そう思うのか」
「申しあげます。一つに、淖歯将軍はこれまで目立った功績がない並の将軍であり、一度の大功のみで大将軍となれば、軍や地方有力者から、必ずや不満の声があがるでしょう。二つに、淖歯将軍は家柄が悪い。実力で昇ってきたといえば聞こえは良いが、つまるところそれは、どこの馬の骨かも分からぬということ。そのような者を大将軍とすれば、軍内や地方有力者から不満の声があがるでしょう。そうなれば楚は再び、まとまりを欠くことになります」
令尹屈原の言葉で、宮廷内の意見は変わった。屈原が台頭してから数年、彼の優れた見識によって、宮廷は徐々に一つにまとまりだしていた。各地方の派閥を超越した、楚の一つの大きな柱として、彼は異彩を放っていた。
しかし彼には敵も多かった。その歯に衣着せぬ物言いは、必要のない反感を買いがちであった。そして令尹屈原にとっては不運なことに、その筆頭が、楚王その人であった。
「令尹よ、そなたは幾度となくその優れた見識を披露し、今や余を凌駕するほどの尊敬を、国中から集めている。そなたは我が父王に寵愛され、父王が秦へ向かう時にはそれを諌め、その死を知れば誰よりも悲しんだ。それからというもの、新たに践祚(せんそ)した余の意見に、そなたは尽く反対する。申せ令尹よ、そなたは余を、王として認めておらぬのか」
「申しあげます。懐王様がおられぬ今、我が楚の王はただ一人、今玉座に腰をかけているあなた様のみです」
「ならば余を敬い、異を唱えるのをやめよ!」
「楚王様、敬っているからこそ忠言するのです。忠言は耳に逆らうものです。どうか堪えて、良き采配を振るって頂きますようお願いいたします」
楚王は、挑発されているのかと思った。しかし、こういう配慮にかけた発言が目立つのが屈原という男だということを思い出し、楚王は黙った。
郢……現在の湖北省荊州市荊州区。戦国時代の楚の都。後の三国時代に、蜀漢の関羽が統治したことでも有名。