▼詳細検索を開く
作者: 唯響-Ion
残酷な描写あり R-15
第八六話 巴蜀での反乱
 巴蜀への帰還途中、司馬錯は反乱が発生したことを知る。そのまま討伐軍を率い、巴蜀へ向かい南下する。
 同年 漢中

 司馬錯は漢中に留まっていた巴蜀の兵を率いて、巴蜀へ帰還する準備を整えた。過酷な桟道を通ることにはなるが、あとはまっすぐに南へと向かうだけである。司馬錯は久々に帰る巴蜀の情景に思いを馳せながら、漢中を出た。
 その数日後、咸陽より派遣された早馬の使者より、竹簡を受け取った。
 そこには、巴蜀で反乱が起きたことが記されていた。それは、司馬錯が漢中を出た日に、この桟道を通って咸陽を訪れた巴蜀の脱走兵が、その惨状を伝えたことにより発覚したことであった。
「秦王様より司馬錯殿にお伝えし、漢中の兵も率いて巴蜀へ向かうよう仰せつかったのですが、間に合いませんでした」
「そうだったのか……。反乱の理由は判明しているのか?」
「それは……軍の規律が厳しく、また徴兵や徴税にも秦の法が徹底されたことにより、巴蜀の民の生活が圧迫されたことが理由のようです」
「そうか……。反乱の首謀者は誰だ?」
「はい……。反乱軍が大々的に旗を掲げている為、すでに判明しています」
「誰だ! 咸陽から派遣された秦の将か?」
「いえ、違います。蜀候公孫綰です」
「なんと……危惧した通りの結末に、相成りよったか……!」

 司馬錯は数日、漢中に滞在し、南鄭より送られてきた漢中軍精鋭を率いて南下した。
 その中には、蒙驁、蒙武、摎の姿もあった。
 蒙武は行軍中、常に殺気立っていた。極限まで肩の力を抜き、集中していた。周囲は、戦功を立てることや戦傷での自慢で盛りあがっていたにも関わらず、蒙武はただ一人、静かに殺気立っていた。そんな蒙武の姿に、彼を知る人々は、驚いた。
 当の蒙武は、垣邑での出来事を忘れられずにいた。彼は垣邑を去る前に、麗華から手紙を貰っていた。彼は文字が読めなかった為、父の蒙驁に頼み込んで、文字を教わっていた。中原の文字は、秦の文字とは違いがあったが、それでも少しづつ彼女の思いを理解できている気がして、頑張れた。
 この戦で死にたくないという思いが、彼を戦に対して、真剣にさせていた。ただ周囲の為に戦い、死さえも名誉と考えていた頃と違い、冷静さを備えるようになっていた。
 周囲は様変わりした彼の姿を見て、「将軍を目指している」と噂した。

 司馬錯率いる秦軍は、成都を目指し進軍した。生活に困窮しただけの巴蜀の兵や武装した民草は、秦軍の敵ではなかった。
 李冰が多くの川を統合し道を整えたことも相まり、秦軍はすぐに成都へ到達し、包囲した。司馬錯は城門前で反乱の首謀者である公孫綰へ、詰問した。
「公孫綰様! あなた様が反乱を起こしたのは民を思ってのこと! その気持ちはこの司馬錯にもよく分かります! ともに秦王に事情を話しましょう!」
「司馬錯殿、お気持ち感謝申しあげる。なれど、そなたは秦の大将軍。謀反人に、様を付けるのはよろしくないでしょう!」
「ハッ! ハッ! ハッ! お気遣い感謝申しあげます!」
「大将軍よ、冗談をいっている場合ではない。私は……そなたには降らなぬぞ! 既に、秦王は我らへ討伐の勅を下し、そなたら秦兵を寄越した。もうタダでは済まぬ。それに私も、生半可な覚悟で反乱を起こしたのではない! 私は巴蜀の主として、この地や民に寄り添ってきた! そして私は、こう思うに至った! 巴蜀は秦に非ず! 巴蜀は巴蜀なり!」
「どういうことですか……? 巴蜀は秦の兵に守られ、外敵に攻められることもなく、発展してきたではありませぬか!」
「それも長くは続くまい! 巴蜀が秦の国土である内は、流刑地として使われ続け、平穏は訪れぬ! 秦の法があっては生活は苦しくなる一方で、健全な暮らしなど送れぬ!」
 蜀候の切実な訴えに司馬錯は、葛藤した。
Twitter