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作者: 唯響-Ion
残酷な描写あり R-15
第八十話 任鄙、往生す
 名将任鄙が没し、秦王はその死を悼む。
 秦 咸陽

 魏冄と秦王が、蘇秦や斉という共通の敵を前に手を取り合うようになってから、秦の宮廷は今までになく活気づいていた。朝議において魏冄は、秦王の為に、持っている情報の多くを惜しげもなく開示した。
 しかし、そんな秦にも悲劇が起こった。
 幾度となく秦国に貢献した将軍任鄙が、病没したのである。

 ここ数年の将軍任鄙は、君臣が一体化せず、優れた軍がその本領を発揮しきれていないことを悔やんでいた。しかしここ数日の朝議の様子を聞き、彼は安心した。
 既に老齢となり、病床に伏して朝議に参内できなくなっていた彼は、久々に穏やかな気持ちになっていた。
「私の役目は……終わったように思う。丞相陣営や秦王陣営にも、幾度となく諫言の竹簡を送っては、無視をされたり反論の竹簡が送られたりしてきた。外敵によってではあるが……秦が一つにまとまり、私は嬉しい」
 任鄙は心労から解放され、笑みを浮かべたまま往生した。
 秦王は、漢中郡守任鄙の死を悼んだ。

 同年末 垣邑
 白起と司馬錯率いる軍勢は、前線から任地へ撤退することになった。咸陽から派遣された将軍が、現地で徴収した兵や一部の駐屯兵を率いて、各城から敵国の動向を見張るのである。
 一年前に咸陽から派遣された役人も、既に街に馴染んでいる。前線から大将軍と国尉を退けるというのは、じきに来(きた)る宋攻めに際し、秦が魏や韓の背後を襲わないという姿勢を、各国に見せつける為であった。
 咸陽を目指して西へ進む騎兵や歩兵の行進。その壁に守られる馬車の中で、司馬錯は、巴蜀の動向を思案していた。
 巴蜀で再び反乱が起きないか、不安になっていたのだ。
「従者よ、筆と墨を持って参れ。秦王様へ竹簡を認(したた)める」
「御意、ただちにお持ちします」
 竹簡を運んできた従者に感謝を伝えた。それから司馬錯は、筆を走らせた。それを使者へ渡し、単騎で咸陽へと走らせた。

 昼食の時間、司馬錯の馬車に白起が入ってきた。
「たまにはご一緒にいかがですかな、大将軍」
「よいですぞ。城の外である為、酒はありませんが」
「不要です。軍略の話に、酒は邪魔です」
「食事時まで軍略の話とは、そなた実(まこと)戦好きよのう」
 運ばれてきたのは、鴨の煮漬けや、付近の村で買った野菜を使った、羹であった。それを食べながら、白起は聞いた。
「先程の早馬は、どこへですか?」
「見ておったのですか。あれは咸陽への早馬です。可能なことなら咸陽へ参内する前に、巴蜀へ戻りたいのです」
「いかに巴蜀が任地といえど、大将軍の代わりに蜀候様をお支えしている将がいます。あなたの帰る場所は、なにも成都だけではありませんぞ」
「実を申さば、私は不安なのです。巴蜀の気風に合わぬ将兵が民をきつい法で縛り、乱が起きるのではないかと」
「その言葉は……秦王様の采配を疑うことになります。秦は厳しい法の徹底に誰もが服(したが)うからこそ、今日(こんにち)の隆盛があるのですよ」
「これは忠臣による、国を案じての言葉なのです。乱が起きてしまってからでは、遅い」
「国を案じての忠言……非難と同様、耳に逆らう言葉だが、全くの別物。過去に竹簡で読んだことが……」
 白起の頭には、任鄙の姿が思い浮かんだ。
「巴蜀に行くだけで良(よ)いのです。李冰殿のお陰で豊かになりつつはあるが、未だに、かの地は天然の要害。生きる険しさが関中とは違うのです。同じ法を守らせるには、無理があるのです」
「確かに税は厳しいものがありますが……司馬錯殿が弾劾されぬか、私は不安です」
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