残酷な描写あり
R-15
第五九話 白起、巴蜀へ向かう
巴蜀へ着任した白起は、治水に長けた賢人を成都へ迎える為、僻地にある村へ赴く。
紀元前291年(昭襄王16年)巴蜀
白起は秦王の命に従い、大将軍司馬錯を補佐する為、巴蜀の成都城へ着任した。成都城は数年前の反乱の際は、恐ろしく強大で、足が竦む思いがした。しかし、こうして馬車に乗り、兵が戟を構えて並ぶ門を通ると、自らを守る大きな盾のように心強く感じられた。
数日移動の疲れを癒し、成都宮へ向かった。城内の護衛兵が一際密集している成都宮。その門を潜り、石造りの道を輓馬の蹄(ひずめ)が進む音に、心が弾んだ。巴蜀の優秀な兵に囲まれた中を進む心地良さを、耳馴染みの良い蹄の音が、増大させたのである。
「ようこそおいで下さいました、国尉様。大将軍の許まで案内致します」
「相分かった。案内せよ」
多くの傷が入った甲冑を身にまとう、副官と思われる兵士に連れられ、白起は中へ入った。
中央の部屋には、あの日、青と白の生地に黒く書かれた『司馬』の将旗に囲まれていた人物がいた。
「国尉様にご挨拶申し上げます。巴蜀地方軍を統べる、司馬錯にございます」
「存じ上げております。国尉の白起にございます。大将軍をお支えせよと、我が王より命を賜り馳せ参じました」
「既に聞いております。さぁどうぞこちらへ」
白起は執務室へ入り、そこで床に大きく敷かれた巴蜀の地図を目にした。
「ご覧の通り、巴蜀は地形が険しい。そしてなにより、川が多く、一度(ひとたび)氾濫してしまえば、少ない平地へ流れ込み、そこに密集する多くの人や農地が被害を受けるのです」
「灌漑作業を行っているのは、道中で目にしました。しかしどこも、人夫が足らぬ様子で」
「左様。罪人を赦す約束で働かせるなど、工夫を凝らしてはいますが、結果は上手くいっていません。故に私は、治水に明るい賢人を求め、人里があるか分からぬ険しい渓谷等に、兵を派遣しました」
「なるほど……元よりこの地に根付く民の中には、その道に詳しい者がいるやも知れませぬな。して、結果は?」
「首尾は上々。見つけられました。しかし……」
司馬錯は口を紡いだ。概ね、登用されるのを拒まれたのだろうと、白起は思った。白起は苦笑し、手を翳し横に振った。
「皆(みな)までいわずとも分かります。在野の賢人は、そう易々と仲間には加えられぬものです」
「では……引き受けていただけるだろうか」
「お任せ下さい大将軍。この白起が賢人の許へ足を運び、説得してまいります」
白起は渓谷にある小さな村を訪れた。そこは古い地図にのみ記載があり、司馬錯が蜀を制圧した際の混乱で、忘れ去られた村であった。
「齕よ、ここに治水の賢人がいるのか」
「はい、この蜀亭村にいる李冰(りひょう)殿が、司馬錯が求めるお方です」
「馬車を降りた方が良いのではないか。それほどのお方とお話をするというのに、馬車に入ったままなど無礼ではないか」
「しかし将軍は国尉として……」
「身分が高いのは承知している。しかし別問題だ」
「しかし危のうございます……!」
「剣がある! くどいぞ!」
白起は馬車を降りて徒歩で村に入った。長老が出迎えてくれたことに感謝の礼をし、そして、招かれた部屋で席に座った。あばら家といえるような場所だが、その部屋は村で一番大きく、上等な家らしかった。
しばらくすると、一人の男が長老に連れられ、入ってきた。みすぼらしい布切れを身にまとったその男は、白起を見るなり、「李冰です。あなたが司馬錯さんですか」と聞いてきた。
「いえ、私は白起と申す者です。大将軍の代わりに、あなた様に会いに参りました」
「大将軍が自ら来ると聞いていましたが」
「大将軍は日々の政務に追われ、ここへ来られぬのです」
「つまり私はその程度の存在だと。前回、兵士が来て私を成都まで誘った際、私はそれを拒んだ。すると兵士は、大将軍自らここへ来て、礼をもって説得するといっていました。しかし来なかった。失礼ですね」
その言葉に、齕が声を荒げた。
「この方は、大将軍よりも位が高いお方なのだぞ……! 失礼な訳があるか……!」
「……そうなんですか?」
「そうだ、この方は国尉。つまり秦軍の最高指揮官なのですぞ」
「はぁ……!」
李冰は驚いた様子だったが、すぐに元の調子に戻った。重い一重瞼は、彼の本心が外へ出るのを防ぐ壁のようだった。白起は、李冰がなにを考えているのか、まるで分からなかった。
白起は秦王の命に従い、大将軍司馬錯を補佐する為、巴蜀の成都城へ着任した。成都城は数年前の反乱の際は、恐ろしく強大で、足が竦む思いがした。しかし、こうして馬車に乗り、兵が戟を構えて並ぶ門を通ると、自らを守る大きな盾のように心強く感じられた。
数日移動の疲れを癒し、成都宮へ向かった。城内の護衛兵が一際密集している成都宮。その門を潜り、石造りの道を輓馬の蹄(ひずめ)が進む音に、心が弾んだ。巴蜀の優秀な兵に囲まれた中を進む心地良さを、耳馴染みの良い蹄の音が、増大させたのである。
「ようこそおいで下さいました、国尉様。大将軍の許まで案内致します」
「相分かった。案内せよ」
多くの傷が入った甲冑を身にまとう、副官と思われる兵士に連れられ、白起は中へ入った。
中央の部屋には、あの日、青と白の生地に黒く書かれた『司馬』の将旗に囲まれていた人物がいた。
「国尉様にご挨拶申し上げます。巴蜀地方軍を統べる、司馬錯にございます」
「存じ上げております。国尉の白起にございます。大将軍をお支えせよと、我が王より命を賜り馳せ参じました」
「既に聞いております。さぁどうぞこちらへ」
白起は執務室へ入り、そこで床に大きく敷かれた巴蜀の地図を目にした。
「ご覧の通り、巴蜀は地形が険しい。そしてなにより、川が多く、一度(ひとたび)氾濫してしまえば、少ない平地へ流れ込み、そこに密集する多くの人や農地が被害を受けるのです」
「灌漑作業を行っているのは、道中で目にしました。しかしどこも、人夫が足らぬ様子で」
「左様。罪人を赦す約束で働かせるなど、工夫を凝らしてはいますが、結果は上手くいっていません。故に私は、治水に明るい賢人を求め、人里があるか分からぬ険しい渓谷等に、兵を派遣しました」
「なるほど……元よりこの地に根付く民の中には、その道に詳しい者がいるやも知れませぬな。して、結果は?」
「首尾は上々。見つけられました。しかし……」
司馬錯は口を紡いだ。概ね、登用されるのを拒まれたのだろうと、白起は思った。白起は苦笑し、手を翳し横に振った。
「皆(みな)までいわずとも分かります。在野の賢人は、そう易々と仲間には加えられぬものです」
「では……引き受けていただけるだろうか」
「お任せ下さい大将軍。この白起が賢人の許へ足を運び、説得してまいります」
白起は渓谷にある小さな村を訪れた。そこは古い地図にのみ記載があり、司馬錯が蜀を制圧した際の混乱で、忘れ去られた村であった。
「齕よ、ここに治水の賢人がいるのか」
「はい、この蜀亭村にいる李冰(りひょう)殿が、司馬錯が求めるお方です」
「馬車を降りた方が良いのではないか。それほどのお方とお話をするというのに、馬車に入ったままなど無礼ではないか」
「しかし将軍は国尉として……」
「身分が高いのは承知している。しかし別問題だ」
「しかし危のうございます……!」
「剣がある! くどいぞ!」
白起は馬車を降りて徒歩で村に入った。長老が出迎えてくれたことに感謝の礼をし、そして、招かれた部屋で席に座った。あばら家といえるような場所だが、その部屋は村で一番大きく、上等な家らしかった。
しばらくすると、一人の男が長老に連れられ、入ってきた。みすぼらしい布切れを身にまとったその男は、白起を見るなり、「李冰です。あなたが司馬錯さんですか」と聞いてきた。
「いえ、私は白起と申す者です。大将軍の代わりに、あなた様に会いに参りました」
「大将軍が自ら来ると聞いていましたが」
「大将軍は日々の政務に追われ、ここへ来られぬのです」
「つまり私はその程度の存在だと。前回、兵士が来て私を成都まで誘った際、私はそれを拒んだ。すると兵士は、大将軍自らここへ来て、礼をもって説得するといっていました。しかし来なかった。失礼ですね」
その言葉に、齕が声を荒げた。
「この方は、大将軍よりも位が高いお方なのだぞ……! 失礼な訳があるか……!」
「……そうなんですか?」
「そうだ、この方は国尉。つまり秦軍の最高指揮官なのですぞ」
「はぁ……!」
李冰は驚いた様子だったが、すぐに元の調子に戻った。重い一重瞼は、彼の本心が外へ出るのを防ぐ壁のようだった。白起は、李冰がなにを考えているのか、まるで分からなかった。
李冰(生没年不詳)……秦の政治家。蜀にて治水事業に従事し、成都の民を率いて灌県の北西の江中に都江堰(とこうえん)と呼ばれる堰堤を築くなどした。