残酷な描写あり
R-15
第二八話 鶏鳴狗盗
孟嘗君を迎え入れた秦王だったが、臣下の讒言に惑わされ、孟嘗君を捕らえようと兵を向ける暴挙に出る。
孟嘗君が咸陽に入り馬車を降りるやいなや、秦王は彼の手を取り、宮殿へ案内した。秦王は、彼を歓待した。しかし文武百官は、魏冄を筆頭に、上辺だけの歓待であった。
「斉の人間が秦の国益を考えるはずがない……」
「きっと秦を滅ぼすことになるぞ」
大臣らはひそひそと、孟嘗君を非難した。
その声が耳にはいった孟嘗君だったが、不快さを表に出すことはなく、秦王に贈呈品を渡した。
「こちらは狐白裘(こはくきゅう)という、希少な革でできた羽織物にございます」
「薛公よ、かようなものを余にくれるのか。感謝するぞ! だが……これは余の妾へ渡そう。あの者は私よりも喜ぶ」
孟嘗君を丞相に据えた秦王は、彼に期待する一方で、徐々に彼は母の宣太后や魏冄との不和に悩まされるようになっていた。
宮殿で宣太后の従者とすれ違う度に、彼は母が息災かを尋ねることが常だった。しかしこの頃は、定型文のように「お元気でございます」と言われ、足早に去って行ってしまうことが増えた。豪華絢爛な宮殿には、緊張感が漂っていた。
そんな秦王を不憫に感じた魏冄は、少し意味もなく、秦王の宮殿へ足を運んでは茶を飲むようになっていた。
「母上は、女々しい方法で余に抵抗しておる」
「まぁ……女性でありますゆえ……」
「母上はこういうのだ。『稷よ、あなたは丞相を迎えてさぞご満悦のようだけど、いつか秦に災いを招くわ』と」
「確かに姉上は、薛公、田文殿を嫌っておいでです。薛公は粗食を召し上がり、財も人へ与える人格者といわれています。しかしそれは外聞のためで、裏では美食を頬張っているのが普通でしょう。あの毛皮を手に入れられたのも、財があるゆえではありませぬか?」
魏冄の言葉に納得した秦王は、孟嘗君を訝しむようになった。
「あのような貴重品を余に贈るなど、老子や仙人のような真の賢者にはできまい……」
「秦王様。恐れながら申し上げます。薛公殿は斉で高い名声を得ており、斉の国益を優先することに繋がります。すでに丞相として秦の内情を知られた今、外へ出すのは下策です。どうか彼を解任し、幽閉なさいませ」
咸陽 孟嘗君の館
「薛公様! 秦兵が館を囲っています! きっと秦王が讒言(ざんげん)に惑わされ心変わりをしたのだと!」
「いつかこうなるとは思っていた……しかしこうも早いとは」
「趙王も、秦が薛公様を迎えてこれ以上強大になることを恐れ、薛公様の非難を!」
「同盟を結んでいながら、趙がいつか滅ぼされると心配し、私を讒言するなど……趙雍め卑劣な!」
激昂する孟嘗君は深呼吸をし、冷静さを取り戻した。
「いざとなれば手助けしてもらおうと、秦王の妾に頼んでいた。狐白裘が賄賂になるとは……」
薛公は包囲が完成する前に秦王の妾へ使者を送り、妾は秦王へ取り成し、秦王は心変わりして包囲を解いた。
それを知って喜んだのも束の間、孟嘗君は、不安に苛まれた。次にいつ秦王が心変わりし、また命を狙われてしまうのか分からないのだ。
「逃げよう……斉へ」
「ですが薛公様、斉へ戻るにも、函谷関を抜けるには通行手形が必要です。秦王様が手形を発行する訳が……」
「私には食客が大勢いる。お前のようにそれぞれ特殊な才能を持っているのだ。ある者が手形を盗み、ある者が偽造する。それでなんとかなるはずだ……!」
後日、秦王が再度包囲を画策していることを事前に察知した孟嘗君は、手形を持ち、秦の国門『函谷関(かんこくかん)』へ向かった。しかし朝が早すぎたため、国門は開かれていなかった。
函谷関は、朝が訪れ鶏の鳴き声が聞こえ次第開く。それを知った食客の一人は、鶏の鳴き真似をした。すると門が開き、孟嘗君は手形を見せ、国を出た。
孟嘗君が国を出たことを知った秦王は落胆した。彼を、丞相として国の柱にすることも、捕らえることもできなかったからである。秦王として、威厳を発揮できなかったことを悔やんだ。
姿を見せるようになった宣太后は、ただ己の尊厳のために落胆する秦王に怒りを顕にした。
「あなたは薛公、田文の怒りを買った。彼は斉の兵を引連れてかならず攻め入るわ……!」
「さ……さようなことにはなりませぬ……。母上は考えすぎですぞ……!」
しかし宣太后の懸念は的中した。同年、孟嘗君率いる斉、韓、魏の三国による合従軍が秦へ攻め入ったのである。
「斉の人間が秦の国益を考えるはずがない……」
「きっと秦を滅ぼすことになるぞ」
大臣らはひそひそと、孟嘗君を非難した。
その声が耳にはいった孟嘗君だったが、不快さを表に出すことはなく、秦王に贈呈品を渡した。
「こちらは狐白裘(こはくきゅう)という、希少な革でできた羽織物にございます」
「薛公よ、かようなものを余にくれるのか。感謝するぞ! だが……これは余の妾へ渡そう。あの者は私よりも喜ぶ」
孟嘗君を丞相に据えた秦王は、彼に期待する一方で、徐々に彼は母の宣太后や魏冄との不和に悩まされるようになっていた。
宮殿で宣太后の従者とすれ違う度に、彼は母が息災かを尋ねることが常だった。しかしこの頃は、定型文のように「お元気でございます」と言われ、足早に去って行ってしまうことが増えた。豪華絢爛な宮殿には、緊張感が漂っていた。
そんな秦王を不憫に感じた魏冄は、少し意味もなく、秦王の宮殿へ足を運んでは茶を飲むようになっていた。
「母上は、女々しい方法で余に抵抗しておる」
「まぁ……女性でありますゆえ……」
「母上はこういうのだ。『稷よ、あなたは丞相を迎えてさぞご満悦のようだけど、いつか秦に災いを招くわ』と」
「確かに姉上は、薛公、田文殿を嫌っておいでです。薛公は粗食を召し上がり、財も人へ与える人格者といわれています。しかしそれは外聞のためで、裏では美食を頬張っているのが普通でしょう。あの毛皮を手に入れられたのも、財があるゆえではありませぬか?」
魏冄の言葉に納得した秦王は、孟嘗君を訝しむようになった。
「あのような貴重品を余に贈るなど、老子や仙人のような真の賢者にはできまい……」
「秦王様。恐れながら申し上げます。薛公殿は斉で高い名声を得ており、斉の国益を優先することに繋がります。すでに丞相として秦の内情を知られた今、外へ出すのは下策です。どうか彼を解任し、幽閉なさいませ」
咸陽 孟嘗君の館
「薛公様! 秦兵が館を囲っています! きっと秦王が讒言(ざんげん)に惑わされ心変わりをしたのだと!」
「いつかこうなるとは思っていた……しかしこうも早いとは」
「趙王も、秦が薛公様を迎えてこれ以上強大になることを恐れ、薛公様の非難を!」
「同盟を結んでいながら、趙がいつか滅ぼされると心配し、私を讒言するなど……趙雍め卑劣な!」
激昂する孟嘗君は深呼吸をし、冷静さを取り戻した。
「いざとなれば手助けしてもらおうと、秦王の妾に頼んでいた。狐白裘が賄賂になるとは……」
薛公は包囲が完成する前に秦王の妾へ使者を送り、妾は秦王へ取り成し、秦王は心変わりして包囲を解いた。
それを知って喜んだのも束の間、孟嘗君は、不安に苛まれた。次にいつ秦王が心変わりし、また命を狙われてしまうのか分からないのだ。
「逃げよう……斉へ」
「ですが薛公様、斉へ戻るにも、函谷関を抜けるには通行手形が必要です。秦王様が手形を発行する訳が……」
「私には食客が大勢いる。お前のようにそれぞれ特殊な才能を持っているのだ。ある者が手形を盗み、ある者が偽造する。それでなんとかなるはずだ……!」
後日、秦王が再度包囲を画策していることを事前に察知した孟嘗君は、手形を持ち、秦の国門『函谷関(かんこくかん)』へ向かった。しかし朝が早すぎたため、国門は開かれていなかった。
函谷関は、朝が訪れ鶏の鳴き声が聞こえ次第開く。それを知った食客の一人は、鶏の鳴き真似をした。すると門が開き、孟嘗君は手形を見せ、国を出た。
孟嘗君が国を出たことを知った秦王は落胆した。彼を、丞相として国の柱にすることも、捕らえることもできなかったからである。秦王として、威厳を発揮できなかったことを悔やんだ。
姿を見せるようになった宣太后は、ただ己の尊厳のために落胆する秦王に怒りを顕にした。
「あなたは薛公、田文の怒りを買った。彼は斉の兵を引連れてかならず攻め入るわ……!」
「さ……さようなことにはなりませぬ……。母上は考えすぎですぞ……!」
しかし宣太后の懸念は的中した。同年、孟嘗君率いる斉、韓、魏の三国による合従軍が秦へ攻め入ったのである。
函谷関……秦の国門。これより東を中原、西の長安や咸陽、雍などがある地域一帯を関中と呼ぶ。紀元前361年に秦の孝公が咸陽を守るために築いたとされるが、何度も移転しているため正確な位置や大きさは不明となっている。