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作者: 唯響-Ion
残酷な描写あり R-15
第九話 郿県の人
 新天地にて心を癒す公孫起。しかし秦では王が代替りし、それを認めぬ王位継承者によって、次なる戦の気配が漂っていた。
 前306年(昭襄王元年)

 公孫起は義母(はは)の元(げん)と、亡き友人の両親の四人で、雍の地を離れ郿県(びけん)で暮らしていた。
「雍は城壁に囲まれた街でどこか息苦しかったが、ここは山林が近く、暮らしやすいな」
 公孫起は澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込み、心地よさを感じていた。公孫亮を亡くした心の傷を、彼らの両親は、三年の月日で少しづつ癒していた。
 元も両親の経済的援助を受け、穏やかな日々を送れるようになっていた。三人がよく街へ茶を飲みに行き楽しそうにしている姿を見て、公孫起も嬉しくなることが増えた。
 この地は幼い頃に本当の家族と過ごした家族と似ている。それは、心から楽しいと感じる日々があったことを思い出させると同時に、その日々を奪った板楯や、その背後にいる義渠への憎しみを強めた。
「日々は少しづつよくなっている。そなたがいてくれればな……亮よ。必ず仇を討つぞ。いつか必ず………」


 同年 咸陽宮

 秦国では秦王の嬴蕩(えいとう)が薨去し、弟の嬴稷(えいしょく)が王位を継いでいた。力自慢のために鼎(かなえ)を持ち上げた嬴蕩は骨折が元で薨去したのである。
 孟賁(もうほん)将軍も落命し、烏獲将軍も出血により失明するという惨事であった。
 世継ぎがいなかったため、その地位を巡り、弟たちを担ぎ上げた有力者の政争がおこった。それを制した大将軍の魏冄は、公子の嬴稷を即位させ、秦王となった嬴稷は力の追求に生きた先王へ、『武王』と諡(おくりな)した。
 嬴稷は『七雄』と呼ばれる大国の一つ燕(えん)で人質生活をしており、幼児期より久々に秦の地を踏んだ。
「魏冄大将軍、余は齢十九だ。それのみのらず、この秦のことや咸陽(かんよう)のことも詳しく知りえていない。政を行えるのであろうか」
「心配ご無用ですぞ秦王様。先王が薨去されたとはいえ、優秀な臣下は生きております」
「その優秀な臣下の第一は、魏冄、そなたであるな」
 嬴稷の言葉に魏冄は笑い、顎に生えた髭を撫でた。ご満悦の様子である。
 嬴稷は長い人質生活で、自分に出来る身を守るための唯一の方法が、有力者の機嫌を取ることであると学んでいた。
 彼は自分が飾り物の王であると悟っていた。所詮は、政争を勝ち抜くための旗頭に過ぎないのだ。
「しかし将軍、余よりも、秦王に相応しい公子は多い。戦にはならぬか?」
 秦王の問いに、魏冄は黙った。少し顎髭を撫でたあと、彼は神妙な面持ちで秦王の目を見て、口を開いた。
「きっと、戦になりましょう。されどそれは、誰が王位を継承したとて起こること。気に病む必要はありませぬ」
 そういって、魏冄はほほえんだ。
 女官が運んできた茶を、なに食わぬ顔ですする魏冄からは、余裕の色が見てとれた。
「今、宮中は派閥が割れています。秦王様をお支えしようという派閥と、秦王様のご即位を認めぬという不届き者たちの派閥です。後者は実に愚かなものです」
「将軍は、戦に勝つ自信があるのか?」
「左様にございます。これはよき戦ですぞ。この戦いにより秦国は一丸となり、更なる躍進を遂げる時代を迎えることになりますゆえ」
咸陽……現在のは中華人民共和国陝西省咸陽市。
紀元前352年に秦の孝公が築城し都とした。秦滅亡まで、首都として繁栄を極めた。

昭襄王(生:紀元前325年〜没:紀元前251年閏9月)……戦国時代の秦の第28代君主。第3代の王。姓は嬴(えい)、諱は稷(しょく)。
始皇帝の曾祖父。彼の時代に他の強国を弱体化させ、天下統一の布石を置いたことで、曾孫の始皇帝の時代に天下統一が成された。

魏冄(生没年不詳)……戦国時代の秦の政治家、将軍。姓は羋、氏は魏、諱は冄。別名を魏厓、または魏焻。
昭襄王の母である宣太后と将軍の羋戎は同母異父兄弟。
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