残酷な描写あり
黒き定めの果てに
スクートがリーシュの元を去りおよそ半日。
彼はいま、生命の色なき惑いの森にて木にもたれかかっていた。
抜き身の刃のように鋭かった目つきは鳴りを潜め、心なしか優しく……そして寂しげな顔つきで、彼は最後の時を待っていた。
「いま思えば、甘い夢のようだった」
ミスティアでの出来事を思い返すように、スクートは呟いた。
死を求めて惑いの森に迷い込み、枯木の怪物に襲われているところにリーシュは現れ、そしてミスティアへと導いてくれた。
世界の何もかもが、黒く澱んで見えた。目の前の全ての存在が、不幸の底に落ちてしまえばいいとさえ思っていた。
だがリーシュが案内してくれた崖からの景色には、たしかに色がついていた。
リーシュと言葉を交わすうちに、人ならざる化け物になってから初めて生きたいと思った。
彼女こそが、スクートにとって救いの光であった。
もし生まれ変われたら。運命が、そしてリーシュが許してくれるなら。
またリーシュの傍らに在りたいとさえ願ってしまう。
祈る神も、願う神もありはしないというのに。
「あの男……悪夢の主の手勢は、きっとおれを探しているに違いない」
リーシュが悪夢の中で施した不完全な封印の影響か、記憶をさかのぼって思い出そうにも、悪夢の光景の節々に霧のようにもやがかかり認識の阻害が起こっていた。
あれほど憎悪を燃やしていたはずである、壊れかけの仮面をつけた不気味な男の名前も忘却の彼方へいってしまった。
あの男への憎悪は、自分が自分であるための存在意義のようなものであったはずだが、忘れてしまったいまとなってはどこか心が軽い。
――――そのとき、惑いの森が大きくざわめいた。
風などまったく吹いてはいないというのに、強風にあおられたかのような木枝がぶつかり合う音が聞こえてくる。
「意外と早かったな、ありがたいことだ」
まるで巨大な道を拓くために、無数の木々が左右にうごめきわかれていく。一国の王を目の当たりにした群集が大路を開け、恐れおののき平伏すかのように。
やがて、霧の奥に巨大な影があらわれた。
全身を揺らし近づいてくるたびに、巨大な木の城が軋むかのような音がスクートの耳朶をうつ。
そしてある臭いがスクートの鼻腔を突く。
むせかえるような、濃い血の臭いだ。
「ヲヲヲ……ヲヲッ……」
おぞましい大口から洞窟を抜きぬける風のような異音を響かせながら、枯木の怪物……霧喰らいが、ついにスクートの前に姿を現す。
「――――やはり、お前たちは追ってきていたか」
見上げるスクートの視線の先にあるもの……それは、霧喰らいの尖った枝に突き刺さった、無数の死体であった。
まるで磔刑にでも処されたかのような哀れな骸たち。誰もが、同じ黒ずくめの格好をしている。
その姿は紛れもなく、彼らはスクートを追ってこの森に足を踏み入れた……教会の影であった。
「た、助けてくれ……」
衰弱しきっているが、それは確かに人の声だった。目を凝らしてみれば、化け物の手の中にまだ生きている影がいた。
彼にはすでに死相が見えていた。追うべき存在に助けを求める辺り、精神もまともな状況ではないのだろう。
「や、やめろ! 放せ、この化け物め!!」
手の中でじたばたと喚く影にいっさいの意も解さずに、枯れ木の化け物は口元まで手を運ぶ。
そして、地獄の門のような大口を開いた。
「――――あああ!?」
上下一対の断頭斧に挟まれるかのように、男の身体へと無数の牙が食い込む。
肉が裂け、骨が砕け、鮮血が飛び散る。男は即死であった。血肉を咀嚼する不気味な音が否が応にもスクートの耳に流れ込んでくる。
「……っ」
あの男は死ぬべき人間であった。
だがそれでも人には死に方というものがある。
唾棄すべき罪を犯していたとしても、異形の化け物に喰い殺される必要はあったのだろうか。
それも、魂さえも。
「ヲヲヲ……」
怪物の腹はまだ満たされていないのだろう。目の前の新鮮な獲物……スクートへと血に濡れた手を伸ばす。
「これが、おれなりの罪の清算だ」
スクートが抜いたのは愛剣ではなく、懐の短刀であった。
自らの出自、エストリア家の紋章が刻まれた短刀。それをスクートは近くの樹に投げつける。
「これでいい。これで……全てが丸く収まる」
あの怪物に喰われ死に、追ってきた影はいずれ短刀を見つけ最期を悟るだろう。遺体を奴らに残さず、そしてミスティアはこれからも秘匿される。スクートの望みは全て達せられるのだ。
スクートは両手を広げ、何の抵抗もせずに霧喰らいに掴まった。
ひとつだけ悔いがあるとすれば、この魂も消えてしまうということだろうか。
生まれ変わったらもう一度だけ、リーシュに会いたい。今度は、決して彼女を欺かず……ありのままで。だが魂がなくなれば、そんな淡い望みも霧となるだろう。
「……幸せを、祈っている」
もう次の瞬間には、スクートの身体は枯れ木の化け物によって食いちぎられようとしている。
だが、そのときでった。
白霧によって見通しの効かぬ惑いの森の木々を、風を切るほどの速度で飛びかけ近付いてくる存在があった。
「――――氷杭よ……打ち貫け!!」
瞬時に生成された柱のような五本の氷塊が、化け物に躊躇なく突き刺さる。そのうちの一本が、スクートを掴んでいる怪物の腕を貫きひきちぎった。
「――――!?」
訳もわからず空中へ投げ出されたスクートは、地面へと落ちると慣性に身を任せたまま激しく転げ回る。
「なぜ、お前が。……君が、ここにいる」
顔をあげたスクートの目の前には。
砕けた氷の欠片が舞い散る中、顔の節々を赤く爛れさせたリーシュが、箒にまたがり手を差し伸べていた。
「はやく掴まりなさい! 私の従者……スクート・クロスフォード!!」
いつもの飄々とした姿ではなく、全ての感情をさらけ出したリーシュ。
現世に降り立った天の使いのごとき姿は、スクートの目に強く焼きついた。