残酷な描写あり
魂を賭してでも
白霧の里とはいえ、誰もが寝静まる深夜となれば闇の帳に包まれる。
人気の少ない、ミスティアの端にあるクロスフォードの屋敷であればなおさらであろう。
僅かな明かりを言える代物は、庭を警備……もとい徘徊する木傀儡たちに埋め込まれた魔導石ぐらいなものである。
だがここ数日は勝手が違った。
スクートの自室の前に浮かぶ、蛍火のように淡い小さな光。
ランタンでも松明でもない魔法の光は、息をひそめ気配を殺し、じっと聞き耳を立てているリーシュの姿を照らしていた。
スクートがアロフォーニアの大樹で突然倒れてからというもの、どうにも様子がおかしい。
ミスティアへ来てから毎日欠かさずしていた剣の鍛錬も、ここ数日はほとんど手につかなくなり、加えてよく座り込み頭をかかえている姿が目立つようになった。
誰の目にも明らかな心の乱れ。リーシュの父ホルスも、自身を赤子の手を捻るように打ち負かした剣士の姿とは思えないと憂いていた。
いまのスクートの姿に、リーシュは覚えがあった。彼は、恐れているのだ。
幼少のころより常人から見れば人外ともいえる規格外の魔力を持っていた彼女は、そのぶん他人の負の感情にあてられることが多々あった。
嫉妬や妬みなどはかわいいものであった。
リーシュにもっとも向けられた感情は恐怖。まだ子供のころ、宙より無数の氷柱を降らせ、あたり一帯を氷の剣山へと変えたときの話だ。
いまでも忘れることはできない光景だった。その場にいる誰もが、目をひん剥き、引きつった顔でリーシュを刺すように見張っていた。
まるで化け物を目の当たりにしたように。
父ホルスの全てを悟った悲しい表情も、脳裏にこびりついている。群集の中で平静を保っていたのはフレドーとナタリアだけであった。
人一倍、いや数十倍以上の恐怖にあてられてきたリーシュは、いつしか他者の恐怖を感じることができるようになった。
いったい何を恐れているのか。スクートに何度も問おうにも、彼は決して話そうとはしなかった。
互いに馬が合う性格ではあるが、スクートもまだ心を完全に許している訳ではない。最初はリーシュもそう思っていたが、どうやら状況は思ったより複雑であった。
「これを、おれの過去を話せば……おれはここにはいられなくなる。従者の契りを交わした際に言ったように、おれとお前は、本来めぐり合ってはいけない存在だ。だから、話すことはできない」
リーシュの憂いに対するスクートの答えは、言葉を選ぶようにたどたどしいものであった。
苦しみ悩むスクートは、それでも話すことを拒んだ。差し出した救いの手を、力なく、やむを得ず振り払うかのように。
そこまで言われれば、リーシュもまた引かざるを得なかった。
スクートには並々ならぬ過去があるのは、リーシュも理解している。いまは話せなくとも、いつかきっと心を開いて教えてくれるはずだ。
きっと時間が解決してくれる。不安ながらも、リーシュはどこか楽観視していたのだろう。
だがスクートを取り巻く状況は想像以上に深刻であった。
数日前の話だ。夜中まで書を読んでいたホルスが、さすがに眠気には逆らえず寝室へ足を運ぼうとしたときのことである。
スクートの自室を横切ろうとしたときにホルスの耳に飛び込んできたのは――――呪詛であった。
スクートは悪夢に苛まれていた。うなされて呪詛を吐くほどに。
父より事の次第を聞いたリーシュは直ちに行動に移した。
毎晩、寝静まった頃合を見計らって様子を伺った。苦しみ唸り、ときおり呪詛を吐かせる悪夢は、何時間にも渡って続く。
日を追うごとに焦燥していくスクートの姿を見て、リーシュは決意した。
夢に入り込み、悪夢の元凶を消し去る……と。
人が人らしくあるためには、過去というものは不可欠なものだ。
だがスクートは全てを捨ててミスティアに来た。それはいままで歩んできた過去との決別を意味する。
ならば、悪夢を発現させるほどの恐ろしい過去など消してしまったほうがいい。
色褪せた過去の記憶に思いを馳せるならばともかく、身を削り心を蝕むほどの苦しみなど、ここで生きていく分には必要ないのだから。
それゆえに、リーシュはいまこうして息を殺している。ただひたすらにそのときを待っていた。
「……始まった」
扉の裏側より聞こえてくる。両腕で喉元を締め付けられたような、苦痛に満ちたうめきが。
誰にも打ち解けられなかったスクートの弱さが、声にもならない音となってリーシュの耳朶をうつ。
リーシュは口を一の字に結んで、静かに扉を開けた。
「ぐ、うう……。許さない、必ず……殺してやる……」
悪夢に苛まれ吐露した言葉には、殺意さえ感じられるほどであった。
リーシュはスクートの顔を覗き見る。額に汗を滲ませ、強張って歯牙をむき出しにした顔は、普段のスクートとは似ても似つかないものであった。
一刻も早く、苦しみを取り除かなければ。
そう思い、腰を下ろして魔法の準備に取り掛かろうとしたそのときであった。
「……っ!?」
暗がりから蛇のような何かが這い出てきたかと思うと、次の瞬間にはリーシュの視界が大きく揺れた。
見ればスクートの手が、リーシュの喉を爪が食い込むほど強く締め上げているではないか。
「……してやる。殺してやるぞ、ライオネル……! お前だけは、絶対に……!」
「う……ぐぐ」
非力なリーシュでは、魔法なしにスクートの拘束を解くことはできない。
どうしようかと思考を凄まじい勢いで巡らせていると、スクートは殺意のこもった呪詛を言い終えるやいなや、リーシュの首から手を離した。
「けほっ、けほっ――――。うう、これは思ったよりも深刻かもしれないわね」
咳き込みながらスクートに視線を戻せば、今度は自身の左胸を鷲掴みにしていた。皮膚を貫通しそうなほどに力を込め、苦しみに歪んだ顔がよりいっそう歪んでいく。
「悪夢の根源はやっぱり」
ライオネル。おそらく人の名前であろうそれは、悪夢に苛まれるスクートが幾度となく口にした名前だ。
無意識に殺意が溢れるほどの憎悪を、いったい何をすれば人に刻み込むことができるのだろうか。
「まったく。あなたらしくない顔ね、スクート。……まってて、すぐに楽にしてあげるわ」
リーシュは懐よりふたつの小瓶を取り出した。中に入った薄緑色の液体は、クロスフォード家に伝わる錬金術を用いて造られた霊薬である。
その効能は服用したもの同士の魂の波長を近づけ、互いの五感をある程度共有するというもの。
本来であれば、複数人の魔女が大規模な魔法を行使するときに使用するのが定石である。
しかしリーシュはこの霊薬にまったく異なる用途を見出した。それは相手の精神世界に入り込むという、禁術の類いに片足を突っ込むような真似であった。
仮に失敗した場合、リーシュもスクートもどのような影響が心体に出るかは未知数であった。
特に魔法の行使者であるリーシュに至っては、悪夢の中に入り込むことはできても戻れなくなる可能性もあるだろう。
そうなった場合、リーシュはスクートの精神世界を永遠に彷徨うことになる。現実に抜け殻となった身体を残して。
「あなたはきっと、怒るでしょうね」
そっと、ゆっくりと。それでも臆することなく、リーシュは霊薬を少しずつスクートの口へと流し込んでいく。
本来であれば互いに巡り合ってはいけない存在。スクートのその一言は、リーシュの疑念を確信へと昇華させるには充分すぎた。
スクートはきっと、魔女を含めた魔法の行使者の大敵……教会に連なる者なのだろう。
それも切っても切れぬほどの深い関係の、もしかするとそれ以上の存在なのかもしれない。
だとすれば辻褄が合う。スクートは決して出自を語ろうとはしなかった。
いま思えば当然だろう、彼にしてみれば自身はミスティアに住む全ての者にとって憎悪の対象に他ならない。
はるか昔、教会の行った魔女狩りによって身を隠すために、このミスティアは生まれたのだから。
――――だが、それがどうしたというのだろう。
あの霧の森で、満身創痍かつ全ての希望を失い、名前までも捨て静かな死を望むほどにスクートは追い詰められていた。
祖先が犯したかもしれない気の遠くなるような、あるかないかも定かではない過去の罪を、一切の光なき濁った目をした男に贖えというのか。
そんなことが平気でできるほど冷酷ならば、リーシュは自身を化け物となじる羽虫どもを叩き潰し、とっくに里から飛び出しているだろう。
たとえスクートが外の世界では追われる罪人だとしても、彼の出自そのものがミスティアでは罪だとしても。
「神が許さなくても、わたしが許す」
意を決してリーシュは残された小瓶の霊薬を一気にあおった。
飲み終わるのと同時に、リーシュの視界がぼやけて歪んでいく。もう引き返すことはできない。
だがリーシュに恐怖はない。失敗しなければ良いだけなのだ。そしてリーシュに失敗の二文字は存在しない。この魂をつかさどる指輪がある限り。
「……クロスフォードの呪いよ。彼の者の悪夢へと、我が魂を誘いたまえ」
リーシュの呼びかけに応えるかのように、彼女の指輪が紺碧の光を放つ。
そしてスクートの手を握り、祈るように目を閉じる。
スクートを従者にしたときは、半ば気まぐれであった。それがどうして、命を張ってまで苦しみから救おうとしているのか。
すさまじく剣の腕が立つからか? 未知なる外界からやってきた、自身に知見を授けてくれる放浪者だからか? それとも、ただ単に面白そうだからか?
いまとなっては、そのどれもが些細なことであった。
リーシュは無意識のうちに追い求めていたのだろう。望まずに化け物となってしまった、人の心を持った人間に。
――――まるで自身の映し鏡のような存在に。
リーシュの首がかくりとうなだれる。そして彼女の左手の指輪は、よりいっそう強い光を放ち始めた。