残酷な描写あり
哀願の刃
「あら、お父様。どうしたのかしら、顔色がすぐれないみたいだけれど」
ホルスは娘と視線を交差させると、影の濃い物言えぬ顔つきで目線を逸らした。しかし、いくばくかの沈黙の後に顔を上げると、すでに影は消え去っていた。
そして何事もなかったかのように、父は子に微笑んだ。
「リーシュ、いったい誰のせいでこうなっていると思う。毎日毎日、どれほど父が娘の心配をしていると思っているのだ」
「ここ最近はどこにもいかないで大人しくしていたつもりだけど。スクートに里のあれこれを教えるのも大変よ。まあでも、思っていたより結構楽しいわね」
「楽しいのはわかる、外に出たいというのも理解している……でもせめて、せめて日傘くらい肌身離さず持っていてくれ。お前が太陽に焼かれてしまったら、私は何のために生きていけば良いのだ」
矢継ぎ早で思いのたけを娘にぶつけるホルス。リーシュの顔が苦々しいものになっているのは、語るまでもないだろう。
「ああ、もう。お父様……いつも言っているけど、帽子をかぶっているんだからいいじゃない。いざとなれば魔法だってある。空から太陽でも降ってこない限りは安全よ」
「だが万が一を考えると――――」
「お父様。万が一で太陽が降ってきたら、世界はもう何度も滅亡してるわよ」
そんな父娘のやりとりを、スクートはじっと横目に見ていた。他愛のないやりとりである。先に感じた思わず身構えてしまう危険な臭いが嘘のようである。
「むう、いかんいかん。いまは他にやるべきことがあったな」
先に感じた危険な気配は杞憂であったか。何もなければそれでよい。
そう思っていた矢先、ひとしきり言いたいことを言い終わったホルスはわざとらしく咳払いをすると、スクートに視線を移した。
「さて、スクート君。娘からは里の掟を浅くではあるが聞いているだろう。他でもない、魔女の付き人たる従者についてだ」
ミスティアの字は独特である。気の遠くなるほどの長い年月を外界と隔離しているのだから当然だ。
ゆえにスクートはこの里では文字を読むことができない。
だがざっくりとではあるが、里で生きていくための知識はリーシュに言伝で教えてもらっていた。
「主である魔女、おれの場合であればリーシュを守ればいいのだろう?」
守る……まさかいま一度、その言葉に重みを感じることになるとは。
内心でそう呟きながら、スクートは返答した。
「その通り。たとえ己の命に代えても主たる魔女を守らねばならない。そう、命に代えても」
「……何が言いたいのですか?」
「君が卓越した剣士であるというのは、動きを見れば分かる。腕に関しては問題ないだろう。だが肝心なのは娘を……主たるリーシュを命を賭して守れるか、ということだ。守るということは、敵を打ち倒すことよりも難しい」
スクートは思わず身構えた。娘と他愛のない会話をしているときに鳴りを潜めたホルスの気配が、徐々に色濃くスクートの肌を刺す。
「娘は君を従者に選んだ。それも出会って半日も経たぬ間に。たとえどのような事があろうとも従者を定めようとしなかったリーシュが、だ。きっと娘は君の中にある何かに好奇を見出したのだろう。リーシュは聡い、気まぐれに見えたとしても確固たる理由が……そこにはある。あるのだと、信じるしかない」
ホルスは語る。だが饒舌とはいいがたい。言葉の一節一節に間があり、迷いが見受けられた。
「だから私は娘を信じよう。もちろんスクート君、君のことも信じよう。そして君の中にある意志を、従者としての覚悟を、……どうか私に信じさせておくれ」
リーシュもスクートも、まるで懇願するかのようなホルスの口ぶりに困惑した。
「ええと、お父様? さっきからいったい――――」
「父を許せ」
――――まさしく刹那であった。
ホルスは抜剣した。そして流れるような洗練された動きで愛娘に向かって斬りかかる。
その速さ、まさに雷光の如し。並みの剣士では目に捉えることも敵わないだろう。
父の凶刃が娘の白肌を裂き、赤い鮮血が宙に舞うかと……この光景を見ている者がいれば誰しもそう思ったに違いない。
突如、鼓膜を破らんばかりの強烈な重音が辺り一帯を支配した。
耳鳴りに遅れて漂ってきたのは、灼けた鉄の臭い。
ホルスの凶刃はリーシュの僅か前で止まっていた。
スクートの黒い十字剣が、リーシュの盾となって。
「……!」
ホルスは驚愕した。娘の、リーシュの気まぐれは本物であったのだ。
すんでのところで剣を止めるつもりではあった。だがスクートが何も反応できないのであれば、そんな未熟者をリーシュの従者にしておくつもりはない。
助けるつもりさえもないのは言語両断である。
だが身を挺してリーシュを庇うのであれば、短い時間の間に彼らなりの信頼ができたと見なして認めるつもりであった。
だが、まさか。一秒にも満たない速剣を見切り、スクートは受け止めて見せたのだ。
「どういうつもりか、説明していただけますか?」
スクートの口調は丁寧なものではあったが、静かな怒気を声に含んでいた。
見事なものだ。これは、思わぬ拾いものをしたかもしれぬ。ホルスは心の中で呟いた。
本来であればすでに試練は終わりである。だがホルスはスクートの底を確かめたくなった。
すでに失われていたと思っていた、眠っていた剣士の闘争心に炎が宿ったのだ。
ホルスは軽やかに後方に飛び退き、剣を構えた。対するスクートもリーシュを背に、腰を屈め上段に十字剣を構える。
十字は聖なる象徴である。なればこそ、象徴を形取る十字剣は神の僕が振るうに相応しい。
だからこそ、その光景は異様であった。光さえも飲み込んでしまいそうな漆黒の十字剣。その切先はいま、天へと向けられている。
聖なる象徴であるはずの十字は、いまや不吉な黒の逆十字と化していた。まるで神を呪うかのように突き立された十字剣。
その持ち主が、どうして神の僕と言えようか。
「スクート君。主人を害そうとする不届き者が現れたぞ。さて、君はどうする!?」
ホルスは地面を蹴り上げ、猛然と再び斬りかかる。彼は知りたくなったのだ。目の前の男の、剣の限界を。