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作者: 橋本洋一
残酷な描写あり
四国攻め
 徳川家との戦から一年後。
 秀吉は四国の長宗我部家を攻めるらしい。

 らしいと言うのは直接僕のところに報告が来たわけではなく、当主である秀晴のところに来たからだ。それを間接的に知った僕は何を思うまでも無く「そうか」とだけ言った。
 知らせてくれた弥助は「ひではるでだいじょうぶなのか?」と不安のようだった。

「弥助も言うようになったな」

 茶器の手入れをしながら笑うと「そんなつもりではない」と弥助は困ったように眉をひそめた。

「ひではるはいくさじょうずなのか?」
「僕より上手だよ。突出したところはないし、特筆すべきところもないけど、それでも一軍の大将としては務まるさ」

 それに雪隆や島、忠勝も傍に居る。三人居れば下手な戦などしないだろう。

「それで、出陣はいつだい?」
「いつかご。もうじゅんびはおわったって」
「手早いね。流石だよ」

 僕は赤茶碗の雨雲を手に取って眺めた。

「僕がどうこう言うのはおかしな話さ。既に隠居した身だからね。僕の時代は――いや、時間は終わりを告げようとしている」

 弥助は「そんなかなしいこというな」と怒った。
 いや、叱られたというほうが正しい。
 この歳になって叱ってくれる人がいるのは嬉しいことだ。

「ごめん。それで、軍勢はどういう風に進軍するのか。それは知っているかい?」

 弥助の話だと、総大将は秀長殿だ。軍勢はおよそ十万。備前国の宇喜多家と播磨国の黒田家は讃岐国、秀長殿と信吉――秀次と改名したらしい――阿波国を攻め、秀晴たち丹波国衆は伊予国から攻め入るようだ。

「伊予国? 毛利家はどうなっている? あそこは領土的に近いだろう?」
「くわしいはなしはしらないが、もうりけ、ないふんがおこっている」

 ああ、そうだった。
 今、毛利家は吉川家中心の山陰派と小早川家中心の山陽派に分かれて争っているらしい。
 でも軍事的衝突はなく、膠着状態になっているのが現状だ。
 山陰派は反羽柴家、山陽派は親羽柴家となっているから、位置的にも攻め入るときは攻撃されないと思う。

「秀吉は、毛利家をどうするつもりなんだろうか……」

 大返しのときに頼廉と山中殿を殺された恨みはあるけど、私情で大名家の進退を決めてはならないと今は思っている。
 秀吉はどう思っているんだろう?
 少しだけ、気になった。

「弥助。悪いけど手紙を書くから、秀吉に届くように手配してくれ」
「わかった」

 弥助が席を外す。
 僕は茶器を片付けながら、秀吉の真意を考える。
 昔だったら、考えるまでもなく、分かったものだけど。
 秀晴が来たのは、手紙を書き終えた直後だった。

「おや。ご隠居。手紙ですか?」

 秀晴は最近、僕のことを『ご隠居』と呼んでいた。秀晴だけではなく、他の者もそう呼ぶ。

「ああ。毛利家について、秀吉の考えを聞こうと思って」
「……四国のことは聞いていませんか?」
「弥助から聞いたよ。四国のことは心配していない」

 秀晴は苦笑しながら「随分、余裕ですね」と言う。

「俺、初めての大将ですよ」
「僕だって大将になったのは大返しのときだ。何、不安になったら雪隆たちに助けてもらえればいい」

 そう言うと秀晴は「ご隠居。何か助言いただけますか」と頭を下げた。

「不安なのかい? そうだな……見せかけだけでも兵の前では堂々と居ること、かな」

 僕は秀吉を思い出しながらそう言った。

「堂々と居ること、ですか?」
「ああ。大将の不安は兵に伝達される。内心に不安があっても、表に出さないことが重要だ」

 秀晴は「今、俺に一番必要なことですね」と言う。

「本当は、ご隠居に出陣してもらいたかったのですが」
「隠居に頼るなよ」
「重々分かっていますが……」
「僕は子を戦場に送り出すのに不安なんてない」

 秀晴に向かって笑いかけた。

「必ず勝って帰ると信じている。不安などあろうはずがない」

 秀晴は一瞬、何かを堪える顔をした。

「ありがとうございます。必ずや期待に応えます」
「頑張り過ぎないように頑張れ」

 それから秀晴は「もう一つ相談があります」と僕に言う。

「なつのことなんですが、最近、体調が悪いのです」
「玄朔に診てもらったか?」
「ええ。すると『戦から帰ってきたらお伝えします』と言われました。それも不安なんです」

 僕はちょっと考えて「食欲が無くなったり、吐き気もあるのか?」と訊ねた。

「はい。ご明察です」
「……ま、戦から帰ってきたら聞けばいい」

 悪い病気ではなく、むしろ良き知らせだった。
 少しは安心できたな。
 
 
◆◇◆◇
 
 
 さて。秀晴が出陣した翌日。
 北近江国のお市さまから、こんな手紙が届いた。
 分厚い巻物で、長い手紙だった。

『雲之介さん。お久しぶりです。あなたのご病気のこと、聞きました。そのとき、恥ずかしながら卒倒してしまいました。まさか、あなたさまがもう余命幾ばくないと。毎日悲しみに暮れていました。おそらく我が夫、長政が死んだかもしれないと同じくらい悲しかったです。でも……それ以上に悲しかったのは、私に会いに来てくれないことです。どうして私に会いに来てくれないのですか? どうして会おうとしてくれないのですか? どうして私を避けているのですか? どうして? どうして? どうして? どうしてどうしてどうしてどうして――』

 途中で読むのが怖くなったので、最後のほうだけ読むことにした。

『きっと雲之介さんはご病気で丹波国から離れられないのでしょう。きっとそうに決まっています。そうでしょう? だからこの手紙が届く頃に会いに行きます。それでは。親愛と友愛と慈愛を込めて』

 読み終えた瞬間、がらりと襖が開いた。

「お久しぶりです。雲之介さん」

 そこに立っていたのは、紫の小袖を纏った、お市さまだった。

「お市さま……! ど、どうして、ここに!?」
「あら。手紙を読んでくださらなかったのですか?」
「い、いえ。今読み終えました……」
「ええ。見ていました。ずっと。読み飛ばすところまで、ずっと……」

 美しいけどどこか恐ろしいものを感じる笑みだった。
 お市さまは僕に近づいて、隣に座った。
 ち、近い……

「お、お市さま? その、労咳が移るといけませんので……」
「私は構いませんよ」
「僕が構います……」
「……雲之介さん? どうして私に怯えているのですか?」

 怯えているわけではないと首を横に振った。

「じゃあ、なんで腫れ物のように接するのですか?」

 袖を口元に置き、顔を背けるお市さま。
 なんとなく嘘泣きだと分かっていたが「泣かないでください……」と言う。

「ぼ、僕はお市さまに、やつれていく僕を見せたくなかったのです……」
「……まだやつれていないじゃないですか」

 怒りを織り交ぜた声になった。

「その、ですね……僕、移動を禁じられていまして」
「だったら、どうして来てくださいと言って下さらなかったのですか?」
「…………」

 僕は大きく息を吸って「僕だって、お市さまに会いたかった」と本音を言った。
 お市さまは僕の顔を見た。
 その仕草がとても美しくてどきりとした。

「僕の憧れだったお市さまに会いたかったです。でも……そんなこと言えなかった。女々しく思われるのが、嫌だった」
「…………」
「お市さまには弱いところを見せたくなかったのです」

 お市さまはここで笑みを見せた。
 僕が一番好きな表情だった。

「ふふ。雲之介さんはいつも格好良いですよ。今だってそうです」
「お市さま……」
「もう、我慢しなくていいんです。もう少し我が侭になっても、誰も言いません」

 そう言って両手を広げるお市さま。
 僕は知らず知らず、お市さまに近づいていた――

「さあ。もう楽になっても――」
「……何をしているんですか? 叔母さま」

 その声に振り向くと、そこには僕の妻、はるが怖い顔で立っていた。

「あら。はる。久しぶりですね」
「人の夫を誘惑しないでください」
「そんなことしていないですよ……もう少しだったのに」
「いくら叔母とはいえ、絶対に許さないですよ」

 僕はそろりと逃げようと試みたが「後で話がある。お前さま」と強く釘を刺された。
 三人でお話した後、お市さまはそのまま帰ってしまった。

 その後、こってりとはるに説教されて。
 僕は自室でお市さまの手紙を読み返しながら考える。
 こんな風に触れ合えるの、いつまでかな?
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