▼詳細検索を開く
作者: 橋本洋一
残酷な描写あり
雲之介の隠居
 五年後に死ぬと告げられても、僕は受け入れられなかったのだろう。現実味がないというか、本当に死ぬのか疑問に思えたのだ。
 でも時々、血痰を吐いたりすると、僕は病に冒されているのだなと感じる。
 だからこそ、この段階で秀吉に告げられたことは幸運だと思った。
 死への恐怖で取り乱した僕なんて、きっと見たくないだろうから――

「とにかく、安静第一です」

 主治医となった玄朔が僕に言い聞かせる。死にゆく者への対応に慣れているのだろう。下手に同情などせず、無感情に淡々と説明してくれた。

「良好になることはありますが、決して快復などしません。徐々に身体の自由が無くなっていきます」

 玄朔の言っていることは恐ろしかった。不自由となっていくことが、自分の時間が無くなっていくことが、とても怖かった。
 玄朔は医者として必要なことを言った後、一度だけ感情的になった。
 自分の腕が及ばないことを悔やむような一言だった。

「医術であなたは癒せない――蝕まれるのは身体だけじゃないから」

 僕は馬では無く、輿に乗って丹波国に帰ることにした。まだ馬に乗れるけど、今後に慣れるために輿での移動を用いた。
 馬と違う揺れ方に初めは戸惑ったけど、少ししたら慣れてきた。この歳になって気づいたけど、僕は順応性が高いのかもしれない。

 揺られながら、僕は大坂城での出来事を思い出していた。
 秀吉はあまりの衝撃で話すことができなくなり、その場を去ってしまった。僕以上に僕の死を認めたくないようだった。
 正勝の兄さんとは話すことができた。正勝は酒を、僕は水を飲みながら語り合った。

「そうか。兄弟、お前死ぬのか」
「ああ。実感が湧かないけどね」

 正勝は「残念だな」とだけ言った。
 それ以外にいろいろ思うところはあるだろうけど、口にしなかった。
 その代わり、思い出話をした。墨俣から志乃のこと、半兵衛さんのこと、大返しのこと。
 話題がたくさん出てきて尽きなかった。

「今度、長宗我部家と戦をするらしい」
「へえ。そうなんだ」
「おそらく、四国のどこかをせがれの領地としてもらえそうだ」

 僕は「おめでとう。これで蜂須賀家も大名だな」と笑った。

「まあな。しかしこの歳になると嬉しくも何ともねえな。せがれが上手くやってくれるかどうかが心配だ」
「親の悩みだね。僕だって同じだ」
「お前に後見人を頼みたかったけどな」

 ぼそりと呟く正勝に「僕のほうこそ頼みたかったよ」と返した。

「だけどさ。子には子なりの考えがあるんだ。後のことは子に任せよう」
「そうだな。いい加減子離れしないといけねえな」

 そう言って正勝は杯を掲げて。
 僕はそれに合わした。
 
 
◆◇◆◇
 
 
「ごほごほ。咳止めの薬って無いのかな……」

 輿の中で咳をする。寂寥感に包まれる。
 そうしながら、僕は丹波国に帰ってきた。

「殿。お帰りなさいませ」

 丹波亀山城で出迎えてくれたのは、島だった。
 僕が倒れたことを知っているはずだった。だけどそんなことをおくびにも出さなかった。

「半刻後に家臣一同、評定の間に集めてくれ」
「……承知しました」

 何故とは聞かなかった。
 ただ悔しそうに唇を噛み締めた。
 自分の足で歩く。
 はると雹が居る部屋へ歩く。

「お前さま。お帰りなさいませ」

 はるが笑顔で出迎えてくれた。

「ちちうえ。おかえりなさい」

 雹も嬉しそうに笑った。

「ああ、ただいま」

 僕は微笑んだ。
 はるは不思議そうな顔をした。

「どうかしたかい?」
「あ、いや、お前さま、またどこかへ行くのですか?」

 はるが戸惑った顔で問う。

「……どうしてそう思う?」
「お前さまが遠くのほうへ出かけるような、そんな雰囲気があって……」

 夫婦だからかな。いつも思うけど、そんな勘は鋭いんだね。

「はる。雹。大事な話がある」

 僕の言葉にはるは居ずまいを正した。
 雹も分からないなりに母の真似をした。

「僕は、五年後に死ぬ」

 はるはとても信じられないという顔をした。
 雹は僕が言っていることを理解できていないらしい。

「……冗談では、ないみたいだな」
「ああ。名医の曲直瀬道三の見立てだ。労咳らしい」
「倒れたとは聞いた……でも、まさか……」

 はるは何も言えなくなってしまった。
 僕は「ごめんな」と言う。

「家臣たちにも言わないといけない。また後で話そう」
「……分かった」

 僕は部屋を出て襖を閉めた。

「ははうえ。どうしてなくの?」

 雹の声だけが聞こえた。
 いたたまれなくなって、足早に去った。
 
 
◆◇◆◇
 
 
「僕は病に冒されている。五年後に死ぬだろう。だから今日より家督を秀晴に譲る」

 集まった家臣にそう告げるとどよめきが起こった。
 雪隆も島も大久保も、玄以も長束も、弥助も忠勝も――動揺していた。
 押し黙る者、感情を露わにする者、信じようとしない者。
 反応は様々だった。
 秀晴は僕のほうを見てから、家臣たちに言う。

「俺が跡を継ぐ。異存はないな」

 家臣たちの声はぴたりと止んだ。

「では、丹波国の大名はこれより秀晴とする。皆、秀晴の言うことをよく聞くように」

 家臣たちは頭を下げた。

「それから、僕が死んでも殉死するな」

 それに反応したのは、島だった。
 軽く笑いつつ「島。君ならそうするだろうと思っていた」と言う。

「島。秀晴のことを頼むよ」
「……殿。俺はあなたに――」
「これは命令だ。分かってくれ」

 僕は立ち上がって「皆の者。今までご苦労だった」と言う。

「そしてこれからも秀晴が苦労をかける。どうか支えてやってくれ」

 僕のその言葉で泣く者が出てきた。
 驚くことに、あの雪隆が真っ先に泣いてしまった。

「雪隆。泣くなよ。もうすぐ、婚姻するんだろう?」
「……泣かせてください、雲之介さん。それしか、俺はできない」

 泣きながら雪隆は言った。
 僕は困ってしまって、後のことは秀晴に任せて、自室に戻ることにした。
 自室に戻って、小姓も下がらせて。
 一人きりになる。

「久しぶりに、一人になったな」

 いや、まだ一人じゃない。

「なつめ。丈吉。居るんだろう?」

 僕の呼びかけで二人は襖を開けて入ってきた。

「聞いていたな? 僕は五年後に死ぬ」
「ええ。聞いていたわ」
「……はい。聞かせていただきました」

 僕は筆を取って紙に二つの姓を書く。

「なつめ。君の弟は才蔵と言ったね」
「……ええ。そうよ」

 涙が声に混じったのを無視して、僕は「君の子に姓を与える」と紙を掲げながら言う。

「これは僕の孫から取った。『霧隠きりがくれ』だ。今日から霧隠才蔵と名乗らせなさい」
「……それって、つまり」
「ああ。武士として雨竜家に仕えてくれ」

 驚くなつめをほっといて「丈吉。君の息子は佐助と言ったね」と確認する。

「これは長政が過去に名乗っていた姓だ。『猿飛さるとび』という。今日から猿飛佐助と名乗りなさい」
「……よく息子の名前を知っていましたね」
「初めて会ったとき、牢屋で言ったじゃないか」

 丈吉は目を細めて「素晴らしい記憶力ですね」と言う。

「もちろん、士分として取り立てる。俸禄もきちんと出す」
「……どうして、そこまでしてくださるのですか?」

 丈吉の問いに「僕にも分からない」と答えた。

「なんだろうな。先がないと分かるとそうしたくなったんだ。ああ、秀晴には言っておくから」
「ありがとう、雲之介」

 なつめは素直に礼を言った。

「……あなたに仕えて、本当に良かった」

 丈吉は深く平伏した。

「あ、そうそう。しばらく僕を一人きりにしてほしい」
「……どうして?」
「一人になりたいんだ」

 なつめは怪訝そうにしながらも「他の忍びも下がらせるわ」と言う。

「半刻したら元の配置に戻らせる。それでいい?」
「ああ、それでいい」

 なつめと丈吉はその返事を聞いて、素早くこの場から去っていった。
 静かになった空間。
 僕しかいない部屋。

「う、うう、うううう……」

 これで、ようやく、一人で嘆くことができる。

「くそ、なんで、僕が、こんな早く……」

 受け入れられなかった気持ちが、皆に告げ終わった後、ようやく認められた。
 それが、怒りに転化する。

「死にたくない。もっと生きたかったのに……!」

 目から流れ出すのは、涙だった。
 当たり前だ、死ぬって分かったんだから。

「ちくしょう……」

 誰に怒ればいいのか、分からなかった。
 やり場のない怒りに支配された半刻を過ごした。
 その間に血痰を何度も吐いた。
 吐いても、一人きりだった。
Twitter