残酷な描写あり
雲之介の隠居
五年後に死ぬと告げられても、僕は受け入れられなかったのだろう。現実味がないというか、本当に死ぬのか疑問に思えたのだ。
でも時々、血痰を吐いたりすると、僕は病に冒されているのだなと感じる。
だからこそ、この段階で秀吉に告げられたことは幸運だと思った。
死への恐怖で取り乱した僕なんて、きっと見たくないだろうから――
「とにかく、安静第一です」
主治医となった玄朔が僕に言い聞かせる。死にゆく者への対応に慣れているのだろう。下手に同情などせず、無感情に淡々と説明してくれた。
「良好になることはありますが、決して快復などしません。徐々に身体の自由が無くなっていきます」
玄朔の言っていることは恐ろしかった。不自由となっていくことが、自分の時間が無くなっていくことが、とても怖かった。
玄朔は医者として必要なことを言った後、一度だけ感情的になった。
自分の腕が及ばないことを悔やむような一言だった。
「医術であなたは癒せない――蝕まれるのは身体だけじゃないから」
僕は馬では無く、輿に乗って丹波国に帰ることにした。まだ馬に乗れるけど、今後に慣れるために輿での移動を用いた。
馬と違う揺れ方に初めは戸惑ったけど、少ししたら慣れてきた。この歳になって気づいたけど、僕は順応性が高いのかもしれない。
揺られながら、僕は大坂城での出来事を思い出していた。
秀吉はあまりの衝撃で話すことができなくなり、その場を去ってしまった。僕以上に僕の死を認めたくないようだった。
正勝の兄さんとは話すことができた。正勝は酒を、僕は水を飲みながら語り合った。
「そうか。兄弟、お前死ぬのか」
「ああ。実感が湧かないけどね」
正勝は「残念だな」とだけ言った。
それ以外にいろいろ思うところはあるだろうけど、口にしなかった。
その代わり、思い出話をした。墨俣から志乃のこと、半兵衛さんのこと、大返しのこと。
話題がたくさん出てきて尽きなかった。
「今度、長宗我部家と戦をするらしい」
「へえ。そうなんだ」
「おそらく、四国のどこかをせがれの領地としてもらえそうだ」
僕は「おめでとう。これで蜂須賀家も大名だな」と笑った。
「まあな。しかしこの歳になると嬉しくも何ともねえな。せがれが上手くやってくれるかどうかが心配だ」
「親の悩みだね。僕だって同じだ」
「お前に後見人を頼みたかったけどな」
ぼそりと呟く正勝に「僕のほうこそ頼みたかったよ」と返した。
「だけどさ。子には子なりの考えがあるんだ。後のことは子に任せよう」
「そうだな。いい加減子離れしないといけねえな」
そう言って正勝は杯を掲げて。
僕はそれに合わした。
◆◇◆◇
「ごほごほ。咳止めの薬って無いのかな……」
輿の中で咳をする。寂寥感に包まれる。
そうしながら、僕は丹波国に帰ってきた。
「殿。お帰りなさいませ」
丹波亀山城で出迎えてくれたのは、島だった。
僕が倒れたことを知っているはずだった。だけどそんなことをおくびにも出さなかった。
「半刻後に家臣一同、評定の間に集めてくれ」
「……承知しました」
何故とは聞かなかった。
ただ悔しそうに唇を噛み締めた。
自分の足で歩く。
はると雹が居る部屋へ歩く。
「お前さま。お帰りなさいませ」
はるが笑顔で出迎えてくれた。
「ちちうえ。おかえりなさい」
雹も嬉しそうに笑った。
「ああ、ただいま」
僕は微笑んだ。
はるは不思議そうな顔をした。
「どうかしたかい?」
「あ、いや、お前さま、またどこかへ行くのですか?」
はるが戸惑った顔で問う。
「……どうしてそう思う?」
「お前さまが遠くのほうへ出かけるような、そんな雰囲気があって……」
夫婦だからかな。いつも思うけど、そんな勘は鋭いんだね。
「はる。雹。大事な話がある」
僕の言葉にはるは居ずまいを正した。
雹も分からないなりに母の真似をした。
「僕は、五年後に死ぬ」
はるはとても信じられないという顔をした。
雹は僕が言っていることを理解できていないらしい。
「……冗談では、ないみたいだな」
「ああ。名医の曲直瀬道三の見立てだ。労咳らしい」
「倒れたとは聞いた……でも、まさか……」
はるは何も言えなくなってしまった。
僕は「ごめんな」と言う。
「家臣たちにも言わないといけない。また後で話そう」
「……分かった」
僕は部屋を出て襖を閉めた。
「ははうえ。どうしてなくの?」
雹の声だけが聞こえた。
いたたまれなくなって、足早に去った。
◆◇◆◇
「僕は病に冒されている。五年後に死ぬだろう。だから今日より家督を秀晴に譲る」
集まった家臣にそう告げるとどよめきが起こった。
雪隆も島も大久保も、玄以も長束も、弥助も忠勝も――動揺していた。
押し黙る者、感情を露わにする者、信じようとしない者。
反応は様々だった。
秀晴は僕のほうを見てから、家臣たちに言う。
「俺が跡を継ぐ。異存はないな」
家臣たちの声はぴたりと止んだ。
「では、丹波国の大名はこれより秀晴とする。皆、秀晴の言うことをよく聞くように」
家臣たちは頭を下げた。
「それから、僕が死んでも殉死するな」
それに反応したのは、島だった。
軽く笑いつつ「島。君ならそうするだろうと思っていた」と言う。
「島。秀晴のことを頼むよ」
「……殿。俺はあなたに――」
「これは命令だ。分かってくれ」
僕は立ち上がって「皆の者。今までご苦労だった」と言う。
「そしてこれからも秀晴が苦労をかける。どうか支えてやってくれ」
僕のその言葉で泣く者が出てきた。
驚くことに、あの雪隆が真っ先に泣いてしまった。
「雪隆。泣くなよ。もうすぐ、婚姻するんだろう?」
「……泣かせてください、雲之介さん。それしか、俺はできない」
泣きながら雪隆は言った。
僕は困ってしまって、後のことは秀晴に任せて、自室に戻ることにした。
自室に戻って、小姓も下がらせて。
一人きりになる。
「久しぶりに、一人になったな」
いや、まだ一人じゃない。
「なつめ。丈吉。居るんだろう?」
僕の呼びかけで二人は襖を開けて入ってきた。
「聞いていたな? 僕は五年後に死ぬ」
「ええ。聞いていたわ」
「……はい。聞かせていただきました」
僕は筆を取って紙に二つの姓を書く。
「なつめ。君の弟は才蔵と言ったね」
「……ええ。そうよ」
涙が声に混じったのを無視して、僕は「君の子に姓を与える」と紙を掲げながら言う。
「これは僕の孫から取った。『霧隠』だ。今日から霧隠才蔵と名乗らせなさい」
「……それって、つまり」
「ああ。武士として雨竜家に仕えてくれ」
驚くなつめをほっといて「丈吉。君の息子は佐助と言ったね」と確認する。
「これは長政が過去に名乗っていた姓だ。『猿飛』という。今日から猿飛佐助と名乗りなさい」
「……よく息子の名前を知っていましたね」
「初めて会ったとき、牢屋で言ったじゃないか」
丈吉は目を細めて「素晴らしい記憶力ですね」と言う。
「もちろん、士分として取り立てる。俸禄もきちんと出す」
「……どうして、そこまでしてくださるのですか?」
丈吉の問いに「僕にも分からない」と答えた。
「なんだろうな。先がないと分かるとそうしたくなったんだ。ああ、秀晴には言っておくから」
「ありがとう、雲之介」
なつめは素直に礼を言った。
「……あなたに仕えて、本当に良かった」
丈吉は深く平伏した。
「あ、そうそう。しばらく僕を一人きりにしてほしい」
「……どうして?」
「一人になりたいんだ」
なつめは怪訝そうにしながらも「他の忍びも下がらせるわ」と言う。
「半刻したら元の配置に戻らせる。それでいい?」
「ああ、それでいい」
なつめと丈吉はその返事を聞いて、素早くこの場から去っていった。
静かになった空間。
僕しかいない部屋。
「う、うう、うううう……」
これで、ようやく、一人で嘆くことができる。
「くそ、なんで、僕が、こんな早く……」
受け入れられなかった気持ちが、皆に告げ終わった後、ようやく認められた。
それが、怒りに転化する。
「死にたくない。もっと生きたかったのに……!」
目から流れ出すのは、涙だった。
当たり前だ、死ぬって分かったんだから。
「ちくしょう……」
誰に怒ればいいのか、分からなかった。
やり場のない怒りに支配された半刻を過ごした。
その間に血痰を何度も吐いた。
吐いても、一人きりだった。
でも時々、血痰を吐いたりすると、僕は病に冒されているのだなと感じる。
だからこそ、この段階で秀吉に告げられたことは幸運だと思った。
死への恐怖で取り乱した僕なんて、きっと見たくないだろうから――
「とにかく、安静第一です」
主治医となった玄朔が僕に言い聞かせる。死にゆく者への対応に慣れているのだろう。下手に同情などせず、無感情に淡々と説明してくれた。
「良好になることはありますが、決して快復などしません。徐々に身体の自由が無くなっていきます」
玄朔の言っていることは恐ろしかった。不自由となっていくことが、自分の時間が無くなっていくことが、とても怖かった。
玄朔は医者として必要なことを言った後、一度だけ感情的になった。
自分の腕が及ばないことを悔やむような一言だった。
「医術であなたは癒せない――蝕まれるのは身体だけじゃないから」
僕は馬では無く、輿に乗って丹波国に帰ることにした。まだ馬に乗れるけど、今後に慣れるために輿での移動を用いた。
馬と違う揺れ方に初めは戸惑ったけど、少ししたら慣れてきた。この歳になって気づいたけど、僕は順応性が高いのかもしれない。
揺られながら、僕は大坂城での出来事を思い出していた。
秀吉はあまりの衝撃で話すことができなくなり、その場を去ってしまった。僕以上に僕の死を認めたくないようだった。
正勝の兄さんとは話すことができた。正勝は酒を、僕は水を飲みながら語り合った。
「そうか。兄弟、お前死ぬのか」
「ああ。実感が湧かないけどね」
正勝は「残念だな」とだけ言った。
それ以外にいろいろ思うところはあるだろうけど、口にしなかった。
その代わり、思い出話をした。墨俣から志乃のこと、半兵衛さんのこと、大返しのこと。
話題がたくさん出てきて尽きなかった。
「今度、長宗我部家と戦をするらしい」
「へえ。そうなんだ」
「おそらく、四国のどこかをせがれの領地としてもらえそうだ」
僕は「おめでとう。これで蜂須賀家も大名だな」と笑った。
「まあな。しかしこの歳になると嬉しくも何ともねえな。せがれが上手くやってくれるかどうかが心配だ」
「親の悩みだね。僕だって同じだ」
「お前に後見人を頼みたかったけどな」
ぼそりと呟く正勝に「僕のほうこそ頼みたかったよ」と返した。
「だけどさ。子には子なりの考えがあるんだ。後のことは子に任せよう」
「そうだな。いい加減子離れしないといけねえな」
そう言って正勝は杯を掲げて。
僕はそれに合わした。
◆◇◆◇
「ごほごほ。咳止めの薬って無いのかな……」
輿の中で咳をする。寂寥感に包まれる。
そうしながら、僕は丹波国に帰ってきた。
「殿。お帰りなさいませ」
丹波亀山城で出迎えてくれたのは、島だった。
僕が倒れたことを知っているはずだった。だけどそんなことをおくびにも出さなかった。
「半刻後に家臣一同、評定の間に集めてくれ」
「……承知しました」
何故とは聞かなかった。
ただ悔しそうに唇を噛み締めた。
自分の足で歩く。
はると雹が居る部屋へ歩く。
「お前さま。お帰りなさいませ」
はるが笑顔で出迎えてくれた。
「ちちうえ。おかえりなさい」
雹も嬉しそうに笑った。
「ああ、ただいま」
僕は微笑んだ。
はるは不思議そうな顔をした。
「どうかしたかい?」
「あ、いや、お前さま、またどこかへ行くのですか?」
はるが戸惑った顔で問う。
「……どうしてそう思う?」
「お前さまが遠くのほうへ出かけるような、そんな雰囲気があって……」
夫婦だからかな。いつも思うけど、そんな勘は鋭いんだね。
「はる。雹。大事な話がある」
僕の言葉にはるは居ずまいを正した。
雹も分からないなりに母の真似をした。
「僕は、五年後に死ぬ」
はるはとても信じられないという顔をした。
雹は僕が言っていることを理解できていないらしい。
「……冗談では、ないみたいだな」
「ああ。名医の曲直瀬道三の見立てだ。労咳らしい」
「倒れたとは聞いた……でも、まさか……」
はるは何も言えなくなってしまった。
僕は「ごめんな」と言う。
「家臣たちにも言わないといけない。また後で話そう」
「……分かった」
僕は部屋を出て襖を閉めた。
「ははうえ。どうしてなくの?」
雹の声だけが聞こえた。
いたたまれなくなって、足早に去った。
◆◇◆◇
「僕は病に冒されている。五年後に死ぬだろう。だから今日より家督を秀晴に譲る」
集まった家臣にそう告げるとどよめきが起こった。
雪隆も島も大久保も、玄以も長束も、弥助も忠勝も――動揺していた。
押し黙る者、感情を露わにする者、信じようとしない者。
反応は様々だった。
秀晴は僕のほうを見てから、家臣たちに言う。
「俺が跡を継ぐ。異存はないな」
家臣たちの声はぴたりと止んだ。
「では、丹波国の大名はこれより秀晴とする。皆、秀晴の言うことをよく聞くように」
家臣たちは頭を下げた。
「それから、僕が死んでも殉死するな」
それに反応したのは、島だった。
軽く笑いつつ「島。君ならそうするだろうと思っていた」と言う。
「島。秀晴のことを頼むよ」
「……殿。俺はあなたに――」
「これは命令だ。分かってくれ」
僕は立ち上がって「皆の者。今までご苦労だった」と言う。
「そしてこれからも秀晴が苦労をかける。どうか支えてやってくれ」
僕のその言葉で泣く者が出てきた。
驚くことに、あの雪隆が真っ先に泣いてしまった。
「雪隆。泣くなよ。もうすぐ、婚姻するんだろう?」
「……泣かせてください、雲之介さん。それしか、俺はできない」
泣きながら雪隆は言った。
僕は困ってしまって、後のことは秀晴に任せて、自室に戻ることにした。
自室に戻って、小姓も下がらせて。
一人きりになる。
「久しぶりに、一人になったな」
いや、まだ一人じゃない。
「なつめ。丈吉。居るんだろう?」
僕の呼びかけで二人は襖を開けて入ってきた。
「聞いていたな? 僕は五年後に死ぬ」
「ええ。聞いていたわ」
「……はい。聞かせていただきました」
僕は筆を取って紙に二つの姓を書く。
「なつめ。君の弟は才蔵と言ったね」
「……ええ。そうよ」
涙が声に混じったのを無視して、僕は「君の子に姓を与える」と紙を掲げながら言う。
「これは僕の孫から取った。『霧隠』だ。今日から霧隠才蔵と名乗らせなさい」
「……それって、つまり」
「ああ。武士として雨竜家に仕えてくれ」
驚くなつめをほっといて「丈吉。君の息子は佐助と言ったね」と確認する。
「これは長政が過去に名乗っていた姓だ。『猿飛』という。今日から猿飛佐助と名乗りなさい」
「……よく息子の名前を知っていましたね」
「初めて会ったとき、牢屋で言ったじゃないか」
丈吉は目を細めて「素晴らしい記憶力ですね」と言う。
「もちろん、士分として取り立てる。俸禄もきちんと出す」
「……どうして、そこまでしてくださるのですか?」
丈吉の問いに「僕にも分からない」と答えた。
「なんだろうな。先がないと分かるとそうしたくなったんだ。ああ、秀晴には言っておくから」
「ありがとう、雲之介」
なつめは素直に礼を言った。
「……あなたに仕えて、本当に良かった」
丈吉は深く平伏した。
「あ、そうそう。しばらく僕を一人きりにしてほしい」
「……どうして?」
「一人になりたいんだ」
なつめは怪訝そうにしながらも「他の忍びも下がらせるわ」と言う。
「半刻したら元の配置に戻らせる。それでいい?」
「ああ、それでいい」
なつめと丈吉はその返事を聞いて、素早くこの場から去っていった。
静かになった空間。
僕しかいない部屋。
「う、うう、うううう……」
これで、ようやく、一人で嘆くことができる。
「くそ、なんで、僕が、こんな早く……」
受け入れられなかった気持ちが、皆に告げ終わった後、ようやく認められた。
それが、怒りに転化する。
「死にたくない。もっと生きたかったのに……!」
目から流れ出すのは、涙だった。
当たり前だ、死ぬって分かったんだから。
「ちくしょう……」
誰に怒ればいいのか、分からなかった。
やり場のない怒りに支配された半刻を過ごした。
その間に血痰を何度も吐いた。
吐いても、一人きりだった。